第8話 合鍵
目が覚めた時、最初に耳へ入ったのは水槽のぶくぶくいう音だった。
それで環の部屋だとわかる。
わかるのに、起き上がるまで少し時間がかかった。いつもの丸椅子じゃない。床でもない。ベッドの端で朝になっている。胸のところまで毛布が掛かっていて、窓の外はもう白んでいた。夜の黒が薄く剥がれて、部屋の輪郭だけが先に見える。
上半身を起こすと、足元の床に鞄がきちんと立てかけられていた。
昨日はもっと雑に置いた気がする。脱いだ靴下も、片方だけ小さく畳まれてベッド脇へ寄せられていた。そういう整え方が、ありがたいというより先に、少しだけ落ち着かない。
昨夜のことを思い出す。
花火の音が遠くで鳴っていた。箱の裏手のぬるい空気の中で、環が「泊まっていけよ」と言った。帰るよりはましだと思った。外で朝までいるよりは安全そうだった。もし何かあっても、知らないおじさん相手よりはまだ平気な気がした。
それで部屋へ来た。
環は「服、皺になるだろ」と言って、引き出しから黒いTシャツを一枚出してきた。受け取って広げると、やっぱり大きかった。
「……でか」
「そりゃお前が小せえから」
その言い方に少しだけ腹が立って、でも更衣室でもない男の部屋で真顔で睨み返すのも変で、流奈は無言のまま着替えた。
出ていくと、案の定ぶかぶかだった。袖は肘の下まで落ちるし、裾も長い。どう見ても人の服をそのまま借りている形で、鏡を見るまでもなく変だった。
環が一瞬だけ黙って、それから吹いた。
「いや、無理だろ、その格好」
「うるさい」
「だって、ちっちゃいのが余計ちっちゃくなってんじゃん」
「意味わかんないし」
顔をしかめたが、環の笑い方があまりにそのままだったので、つられて一瞬だけ変な声が漏れた。
その拍子だった。
「トランクスもいる?」
軽い声だった。冗談とも本気ともつかない、深く考えていない時の言い方。
流奈は思わず鼻で笑った。
「いらないに決まってるでしょ」
「即答だな」
「当たり前でしょ」
そこまでは、ちゃんと覚えている。
そのあと、どこで笑いが消えたのかは、うまく思い出せない。
環が何かを言った。
自分も何かを返した。
いつもの軽口みたいに続くはずだったものが、途中で少しずつ形を変えた。
怖くなかったわけじゃない。
男の部屋で、夜で、帰る場所もなくて。
そういう条件が揃っている時に、何が起きるのかくらい、流奈はもう知っている。
だから、驚いたわけではなかった。
ただ、思っていたより乱暴ではなかった。
思っていたより、環は何度か止まった。
何かを言いかけて、飲み込んだ。
いつもの軽い声が途切れて、妙に静かになった。
その静けさが、怖かった。
怖いのに、嫌なだけではなかった。
それが、一番嫌だった。
来るなら来ればいいと思っていた。
そういうものだと決めておけば、傷つかずに済むから。
優しくされた分くらいは返せばいい。
ここに置いてもらった分くらいは、払えばいい。
そう考える方が、ずっと簡単だった。
なのに、環はときどき、そういう計算を外してきた。
触れ方よりも、触れる前の迷いの方が残っている。
言葉よりも、言わなかった間の方が残っている。
それが気持ち悪いくらい、身体の奥に引っかかっていた。
違うかもしれない。
そう思いかけた。
でも、そう思った瞬間に、怖くなった。
違うと思った相手が同じだった時が、一番痛い。
信じかけた自分が一番馬鹿みたいになる。
だから流奈は、昨夜のことに名前をつけるのをやめた。
ただ泊まっただけではない。
けれど、それ以上の言葉を置けば、自分の中の何かが余計に崩れる気がした。
環がどう思っているのかもわからない。
自分がどう思っているのかは、もっとわからない。
怖かった。
でも、全部嫌だったと言い切れない。
その曖昧さが、朝になっても消えない。
だから腹が立った。
環にではなく、たぶん自分に。
水槽の音がして、鞄は壁際に立てかけられていて、靴下は片方だけ小さく畳まれていた。
そんな何でもない整え方ばかりが、妙にはっきり見える。
優しくされた、と思いたくなかった。
そう思ったら、何かを返さなきゃいけなくなる。
ここにいていい理由を、自分で用意しなきゃいけなくなる。
だから流奈は、昨夜のことをそこで閉じた。
帰るよりはましだった。
外で朝まで過ごすよりは安全だった。
それだけ。
そういうことにした。
◇
環はもう起きていた。
水槽の前にしゃがみ込んで、キャポさんに餌を落としている。低い姿勢のまま魚の動きを目で追って、「食うなあ」と小さく呟いた。朝の白い光が窓から斜めに入って、床の上をぼんやり這っている。派手な朝じゃない。ただ、夜の続きではなく、ちゃんと生活の朝だった。
それでも朝になると、昨夜のことを軽くはできなかった。
期待してはいけない。今までそうやって覚えてきた。少し違うかもしれないと思ったものほど、そこで期待したら痛い目を見る。そういうものだと、流奈はもう知っている。
「起きた」
環が振り向く。
「水飲む?」
「……うん」
立ち上がって冷蔵庫を開け、ペットボトルを一本渡してくる。その動きが妙に自然で、流奈は受け取りながら目を逸らした。
「洗面所使うなら先でいいよ。タオル、そこ」
環は顎で適当に場所を示す。
昨日から今朝までのことを、ひとつの流れとして受け取っているみたいな言い方だった。特別な夜の次の朝ではなく、こういうことがもう決まっていたみたいな顔をしている。それが少し嫌だった。
「……あとでいい」
「そ」
深く気にした様子もなく返される。
それが余計に、ここで朝になったことを軽くされているみたいで、流奈は少しだけ唇を噛んだ。
ベッドの上で水をひと口飲む。冷たさが喉を通る。喉は乾いていたのに、身体の奥のほうは冷えたままだった。
「腹減ってるだろ」
「別に」
「朝の“別に”は食うやつだろ」
「知らない」
「オレは知ってる」
勝手にそう決めて、環はコンロの前に立った。
冷蔵庫から卵と残りご飯を出す。ネギを刻む音がまな板の上で細かく続く。フライパンに油が落ちて、火がつく。小さな音と匂いが、水槽の機械音の上へ少しずつ重なっていった。
流奈はベッドの縁に座ったまま、その背中を見ていた。
「……また焼き飯」
「文句あんのか」
「ないけど」
「だろ」
環は振り向きもせずに言う。
卵が落ちる音、ご飯をほぐす音、フライパンが振られるたびに具が跳ねるかすかな音。朝の静けさを壊すほど大きくはないのに、部屋の中の空気が少しずつ生活のほうへ寄っていく。
皿が二枚出された。
当たり前みたいに、二人分。
それを見た瞬間、流奈の中の何かがもう一段冷える。昨日から今朝までのことを、環はやっぱりひとつの続きとして受け取っている。そうとしか見えなかった。
テーブルの上に皿が置かれる。
「ほら」
流奈は少しだけ迷ってから、ベッドを下りて丸椅子に座った。食べないと言うほどでもない。今ここで妙に拒むほうが、かえって意味が濃くなる気がした。
ひと口食べる。
ちゃんとしていた。
それが腹立たしい。
減らすつもりで来たのに、増えていく。
家に帰らなくて済む。もしかしたら、何かひとつくらい返せるかもしれない。そう思ってここへ来るのに、実際は水をもらって、服を借りて、寝かされて、朝飯まで出てくる。
また、何も出来てない。
返しても減らない。
「うまいだろ」
「……普通」
「その“普通”はうまいほうだろ」
「知らない」
「わかりやす」
環が笑う。
その笑い方も、昨日までと同じだ。何も変わっていないみたいに見える。けれど流奈の中では、もう少しだけ違うところへ行ってしまっていた。
キャポさんが水槽の底でゆっくり向きを変える。泡が一定の速さで上がって、部屋の隅で朝の光が少しずつ濃くなる。流奈は焼き飯を口へ運びながら、できるだけ環の顔を見ないようにしていた。
見たら、何か拾ってしまいそうだった。
優しいのか、眠いのか、機嫌がいいのか。そういうものを見たところで意味はない。男の目はまず怖い。そういうふうに、身体が先に覚えている。
「今日も夜、遅いの」
環が何気なく聞く。
「わかんない」
「また駅前ふらふらすんの」
「別に」
「その“別に”、ふらふらする時のやつじゃん」
「便利だね」
「便利だよ」
軽口は続く。流奈も続ける。そこだけ見れば、いつも通りだった。
でもその“いつも通り”が、今日は少しずつ苦しかった。
◇
環は焼き飯を食べ終えると、皿を流しへ持っていかずにそのままテーブルへ置いた。背もたれのない椅子に浅く座り、テーブルの端から鍵束を引き寄せる。
玄関の鍵、部屋の鍵、スタジオのロッカーの鍵。金属が触れ合って、乾いた音を立てる。
ふと、前のことが頭をよぎる。
夜の街で一人で立っていた流奈。ああいう場所にいるやつに、まともな声の掛け方をする人間のほうが少ない。見ていないところでまた何かあったらと思うと、妙に腹が立つ。
来ない日もあるけど、 来る時間はだいたい9時ごろだ。だったら最初からここへ来ればいい。毎回ノックして、返事を待って、みたいなことをしなくてもいいんじゃないか。
そこまで考えて、少しだけ引っかかる。
一晩寝ただけで、鍵ってそんなに軽いもんか。
いや、軽いわけがない。
そもそも――俺、こいつのことほとんど知らねえかもな。
どこに住んでるのか。何時まで外にいるのか。誰といるのか。何を食って、何を聞いて、どうやって朝まで過ごしてるのか。
知らない。
知らないのに、来るのは当たり前みたいに思っている。
そこまで考えたのに、口のほうが先に動いた。
「合鍵作るか?」
流奈の手が止まる。
「……は?」
「来る時、毎回ノックすんの面倒じゃん」
軽く言ったつもりなのだとわかる。
だから余計に冷えた。
やっぱり男は、勝手に意味を決める。
少し違うかもしれないと思いかけたことまで、その瞬間だけはひどく馬鹿みたいに思えた。
「要らない」
声は静かだった。
環が少しだけ黙る。
「……そんな即答する?」
「するでしょ」
「何で」
「困るし」
流奈は環を見ないまま言った。
「渡される理由ないし」
チャリ、とまた鍵が鳴る。
「……冗談だろ」
「冗談でも困る」
それ以上、流奈は強く言わなかった。怖い時ほど荒立てたくない。早く、この空気を閉じたい。
部屋の中には水槽の音だけが残る。
環はしばらく何も言わなかった。
「……悪い」
低く、それだけ言う。
その一言も、流奈の中ではあまり意味を持たなかった。最初の一言のほうが残っている。
流奈は皿を持って立ち上がった。
「流し、置く」
「……ああ」
流し台へ持っていき、水で軽く油を流す。細い水音がして、皿の縁に朝の光が滲む。キャポさんの泡がまた一定に上がる。
「今日、食うね」
流奈が水槽のほうを見て言う。
自分でも、何でそんなことを口にしたのかわからなかった。ただ、ここで大きく空気を変えたくなかった。
「朝は食う」
環が答える。
それだけだった。
普段みたいな会話の形だけ戻って、でも中身は戻らない。
流奈はタオルで手を拭いた。環は鍵束を握ったまま、テーブルの木目を見ている。
「帰る」
流奈が言う。
「おう」
環は引き止めなかった。
そこまでやると、また何か壊しそうだと思ったのかもしれない。
玄関で靴を履く。揃えられた靴の向きが、朝の白い光の中で妙に目につく。
「来ちゃ駄目って意味じゃねえから」
後ろから環が言った。
流奈は振り向かなかった。
「わかってる」
わかっている。
でも、それで十分だとも思えなかった。
ドアを開けると、湿った朝の空気が入ってくる。外はもう完全に朝で、夜の逃げ場みたいなものはどこにも残っていなかった。
階段を下りながら、流奈は何も考えないようにする。
帰るよりはましだった。外で朝まで過ごすよりは安全だった。
でも、それだけだ。
期待してはいけない。今まで学んだことだ。
それでも――
今は、環の部屋へ行く。結局どの選択肢よりも安全に思えた。




