第7話 花火
駅のコインロッカーを開けるたび、少しだけ変な気分になる。
封筒に入れた金。逃げる時のための金。何度数えてもまだ足りないそれと並べて、CliveのCDを入れるかどうか、流奈は今日も少し迷った。
五曲入りが三枚。
それで全部だった。
もう持っている。追加で買うものは今はない。なのに箱へ向かう前になると、ついケースの角を確かめたくなる。持って歩いて傷むのも嫌だし、部屋に置いておくのはもっと嫌だ。
金は逃げるためのものだ。
じゃあ、こっちは何だろうと思う。
音がないと困るくせに、盤面に指紋がつくのも嫌で、結局、聴く用はMDに落として持ち歩いている。鞄の底で、細いケースが他のものとぶつかって鳴る。CD本体だけはロッカーに入れておいたほうがいい気がして、でもそれだと、自分にとって大事なものを全部この狭い箱に押し込めているみたいで、妙に落ち着かなかった。
流奈は少しだけ考えてから、今日もCDケースには触れずにロッカーを閉めた。
鞄の中にはMDだけがある。
それで十分なはずなのに、十分じゃない気もした。
駅前はいつもより人が多かった。
浴衣姿の女の子がいて、手を引かれている子どもがいて、コンビニの前には缶ビールを持った男が溜まっている。どこかで祭りでもあるのかと思って歩いていたら、商店街の端に「花火大会」の紙が貼ってあった。
ああ、とだけ思う。
夏の終わりには、そういうのがある。
誰かと約束して見るようなものでもないし、ひとりでわざわざ足を止める気もしない。流奈にとって花火は、遠くで鳴ってる音のひとつでしかなかった。
箱のある通りへ入ると、人の流れが少し変わった。浴衣の客はいない。Tシャツ、タオル、細いチェーン、バンドのロゴ。暑さで少し苛立っている顔と、開演前の妙な落ち着かなさが混ざっている。
その空気のほうが、ずっとわかりやすい。
地下へ下りる前から、もう音が漏れていた。リハの名残みたいなドラムの響きと、誰かがギターの弦を撫でる音。階段の途中で温度が一段上がる。
箱の中は、外よりさらに蒸していた。
ドリンクのほうへ向かう途中で、物販のテーブルに目が行く。並んでいるのは見慣れた三枚だけだ。全部持っている。なのに、ないとわかっていても一度はそこを見る自分が少しおかしかった。
「あ、来た」
先に気づいたのは大輝だった。
ケースを並べながら顔を上げて、わりとまっすぐに嬉しそうな顔をする。その横で唯も流奈を見て、少しだけ表情をゆるめた。
「今日も早いね」
「……たまたま」
「またそれ言う」
大輝が笑う。
流奈は物販の上を見たまま言った。
「増えてない」
「ごめん、まだない」
「別に謝ってないし」
「でも、見たじゃん」
「見てない」
「見てた」
大輝のそういうところが、少しだけずるい。見られたくないところを、笑いながらそのまま拾う。嫌な感じではないのに、隠しきれない。
その時、後ろから司が割り込んできた。
「流奈ちゃん、コイツの飯食ったんだって?」
話が急に飛んで、流奈は一瞬だけ司を見る。
「……何で知ってるの」
「環がちょっと得意そうだったから」
「言ってねえよ」
すぐ後ろから環が嫌そうに言った。
Tシャツの襟を指で引っ張りながら、ほんとうに面白くなさそうな顔でこっちを見ている。暑いのか、不機嫌なのか、その両方なのかもしれない。
「顔に出てた。で、どうだった? うまかった?」
流奈は少しだけ間を置いた。
「……焼き飯は、ちゃんとしてた」
「ほらな」
司が勝ち誇ったみたいに言う。
「コイツ、高校ん時、街中華でバイトしてたから。あれだけは妙にちゃんとしてんの」
「“あれだけ”って何だよ」
環が嫌そうに返すと、司は肩をすくめた。
「だけは、だろ」
その時、唯が苦笑いした。
「でも焼き飯かチャーハンしか作らないからね。前にほんとにそればっかで、野菜食べなよって言ったの」
「言われたな」
「言われて直してないじゃん」
「焼けば大体うまいし」
「そういう話じゃないの」
大輝まで吹き出す。
そのやり取りの空気が、流奈には少し不思議だった。唯が自然に環の食生活まで知っていることも、司がそこへ雑に割り込むことも、この人たちが箱の中だけの関係じゃないことを普通に見せてくる。
長く知っている人たちの雑さ。
説明しなくても通じる距離。
流奈はそこへ入らないまま、それを見ていた。
眩しいのは、こういうところもかもしれないと思う。
「何」
環が気づいたみたいに言う。
「別に」
「今、絶対何か思っただろ」
「焼き飯しか作らないんだって」
言うと、司がまた笑った。
「ほら。もうそう見られてんじゃん」
「うるせえな」
環はそう言ったが、少しだけ食った顔のままだった。
大輝が物販のテーブルを軽く叩く。
「今日、新しい曲やるから」
「へえ」
「へえ、だけ?」
「まだ聴いてないし」
「厳し」
そう言って笑う。流奈はその笑い方を見るたび、少しだけ息が浅くなる。
大輝さんはまだ眩しい。
それは変わらない。
それを認めるのは少し癪だけれど、認めないふりをしてもどうせ見てしまう。
◇
ライブが始まる頃には、外から花火の音が混じり始めていた。
箱の中まで火薬の匂いが入ってくるわけじゃない。ただ、ドラムの低い音の下に、遅れて響く丸い音が時々重なる。それが少し変だった。祭りの上澄みだけが、地上から地下へ落ちてくるみたいだった。
前のほうはすぐ埋まり、後ろの壁際まで人の体温が押してくる。流奈はいつもの場所に立っていた。スピーカーの真正面ではなく、でもちゃんと見えるところ。何度か来るうちに、その位置だけは覚えた。
大輝さんのギターが鳴る。
最初の一音で、やっぱりと思う。眩しいものは眩しいままだ。
前より慣れたところもある。どこで上がるか、どこでギターが前へ出るか、どのへんで客が少し浮くか。その流れを身体が少しずつ覚えている。でも、覚えたからといって、眩しさが減るわけではなかった。
むしろ逆かもしれない。
少し知ってしまったぶん、余計に届かなさがはっきりする。
大輝さんの音は今日も前へ出てきた。ボーカルの横で、曲の行き先を少し先に決めてしまうみたいに鳴る。あの人は自分が鳴らしたい音を、人の前でそのまま出せる。見られるほど熱くなっていける。
流奈には、それがずっと遠い。
学校で当てられて声を出すだけでも、変に喉が乾くことがある。何を言っても、どう見られるかを先に考える。目立たないようにして、面倒を避けて、その場をやり過ごす癖ばかりが先に出る。
なのに、ステージの上の人間は逆だった。
見られることが前提みたいに、そこへ立っている。
唯さんはステージの袖にいて、時々大輝さんのほうを見る。大輝さんも一度だけそっちへ笑う。その感じが自然すぎて、流奈はそこに入りたいとは思わない。
思わないのに、まだ目は行く。
好きなのかと言われたら、たぶんまだ違う。
でも、恋にかなり近い憧れなら、たぶんもうそこにある。
それでも奪いたいほどではない。
その距離のまま、流奈は今日も音だけを受け取っていた。
ふと視線を横に流すと、少し離れた壁際に環がいた。Paranoidの連中と一緒に立っている。乗っているようにも見えない顔で見ているくせに、結局最後までちゃんと見ている。
その視線が一瞬だけこっちへ向いた。
流奈はすぐに逸らした。
意味はわからない。
でも、見られた気はした。
花火の音が一度だけ大きく響いた時、客の何人かが笑って上を見た。見上げても天井しかないのに、その動きが少しおかしい。
箱の中で鳴る音と、外で上がる花火。
どっちも熱いのに、全然違う。
流奈はそのどちらにも混ざれないまま、ただ壁際に立っていた。
それでもこの時間は、息がしやすかった。
◇
ライブが終わると、箱の中に熱だけがしばらく残った。
客が物販へ流れ、出演者がケースを動かし、ドリンクカウンターの前に列ができる。さっきまで音だったものが、一気に人の手の届くところへ下りてくる。
「どうだった」
大輝が汗を拭きながら聞いてくる。
「新しいの」
「……好きでした」
流奈が言うと、大輝はわかりやすく少しだけ顔を明るくした。
「それ、ちゃんと嬉しいな」
唯が横で笑う。
「よかったね」
「よかった」
そのやり取りまで、やっぱり自然だ。
大輝は流奈の顔を見て、少しだけ肩の力を抜くみたいに笑った。
「今日も来てくれてありがと」
その一言は軽いのに、変にまっすぐだった。
「別に」
「その“別に”、来てる時のやつだろ」
横から環が言う。
流奈が見ると、環はさっきと同じように嫌そうな顔をしていた。ただ目だけは、物販の上じゃなくて流奈のほうに向いている。
「何それ」
「何でも」
「そっちも便利だね」
「お前ほどじゃねえよ」
司が横で吹き出した。
「環、お前今日ずっとそれだな」
「うるせえ」
環は嫌そうに返したが、それ以上は続けなかった。
その時、外で花火が少し大きく鳴った。箱の裏手へ出る客が何人かいて、司も「せっかくだし見てくる」と言いながらドリンクを持って先に出た。大輝は物販の片づけをしながら、「行ってくれば?」と唯に言われて、「後で」と笑う。唯はそのやり取りを見て、呆れたみたいに少し笑った。
その笑い方も、流奈は嫌いじゃなかった。
外へ出ると、夜の空気はまだぬるい。
箱の裏手の空き地みたいなところからは、建物の隙間に花火が少しだけ見えた。全部じゃない。半分とか、端とか、開いて消える前の光だけ。それでも人は十分浮かれていた。
「見えんじゃん」
司が先に言う。
「思ったよりちゃんと」
「ちゃんと、ではないけど」
唯が小さく笑う。
大輝は結局片づけの途中で来て、手にタオルを持ったまま見上げた。花火の光が横顔に一瞬だけ乗る。その顔を見て、流奈はまた少しだけ息が浅くなった。
眩しい。
やっぱりそう思う。
大輝はふいに流奈へ目を向けた。
「新しいのまでちゃんと聴いてくれてありがと」
花火の音のあとに、その声だけが妙に近く聞こえた。
「……別に」
「それでも」
そう言って笑う。
その横に唯がいる。唯も何も言わずに少しだけ流奈を見る。その二人の並びが自然すぎて、やっぱりそこに入りたいとは思わない。ただ、嫌いじゃない。
そういう光の中にいる人たち。
流奈が髪を耳に掛けた拍子に、シャツの襟が少しだけずれた。
肩口の、丸く薄く残った痕が花火の光に一瞬だけ浮く。
環の視線がそこで止まった。
何か言いかけるみたいに唇が動いて、でも結局何も出ない。
次の花火が開く頃には、もういつもの嫌そうな顔に戻っていた。
その少し後ろから、環の声がした。
「お前、今日このあとどうすんの」
流奈は振り向いた。
環は壁にもたれたまま、花火じゃなくてこっちを見ていた。箱の熱も、外の祭りの浮かれも、両方少しだけ混ざった顔だった。
「別に」
「またそれ」
「だってまだ決めてないし」
「ふうん」
花火が大きく開く。近くにいた客が歓声を上げる。その声に紛れて、環が少しだけ近づいた。
大輝たちは少し離れたところでまだ花火を見ている。司も誰かと笑っていた。流奈と環のところだけ、妙に別の温度だった。
「今日は」
環が言って、少しだけ間を置いた。
その間が、流奈には嫌だった。何かを決めたあとの間みたいに聞こえたからだ。
「泊まっていけよ」




