第6話 部屋
歌のことを、環はまだ引きずっていた。
引きずるつもりはなかった。あの夜のあと、自分でも少し気持ち悪いと思ったくらいだ。歌わせておいて、勝手に刺さって、勝手に腹を立てて、最後には「お前の声は好きだよ」なんて口走った。思い返すと、だいぶださい。
なのに、数日経っても、流奈の声が妙に耳に残る。
仕事帰りにコンビニへ寄っても、風呂場でシャワーを浴びていても、ギターを触っていても、ふっとあの細い声が戻ってくる。上手いわけじゃない。むしろ本当に下手だった。なのに、変に残る。
そのくせ、流奈本人は何事もなかったみたいな顔で、また部屋へ来た。
水を飲んで、キャポさんを見て、少し座って帰る。
それだけのことを、向こうはたぶんそれだけのこととしてやっている。なのに環のほうだけが、そこに勝手に意味を足してしまう。
来るのが当たり前みたいに思う日が増えた。
今日も来るかもしれない、と思ってしまう。
そういう自分がもう少し気持ち悪い。
けれど、その気持ち悪さごと、環はまだうまく手放せないでいた。
◇
夏休みの登校日だった。
全員がちゃんと来るわけじゃないのに、こっちは制服を着て顔を出さなきゃいけない。そういう中途半端な日が、流奈はあまり好きじゃなかった。
帰り際に呼び出されて、流奈は職員室の奥の小さい机の前に立たされた。
担任は困った顔をしていた。怒っているというより、形だけでも注意したという顔をしたい時の表情だと、流奈は思う。
「最近、夜遅くまで外にいるのを見たって話があってな」
叱る、というほど強い声でもない。けれど、こっちが反論しない前提の言い方だった。
流奈は黙っていた。
誰かが見かけたらしい。誰か、で済ませるのも変だと思う。学校の近くで夜に制服姿を見られることが続けば、そりゃ話にもなる。
でもウチは知ってる。
先生も誰かといたことがある。
夜、学校の外で。見てはいけないものを見たみたいに、向こうが少しだけ顔を強張らせたことまで、ちゃんと覚えている。
口にすることはない。ただ、それを知った時に、ああやっぱり、と思っただけだ。
大人は大人の都合で動く。見つかる側より、見つけた側のほうが正しい顔をする。
「気をつけろよ」
最後にそう言われて、流奈は「はい」とだけ返した。
それで済むなら、いくらでもそう言う。
職員室を出る頃には、思っていたより少し時間がずれていた。
まずい、と思った。
今日はCliveのライブがある。開場に間に合うかどうか、少し怪しい。急げばまだ、と思って、流奈は駅前へ向かわず一度家へ寄った。制服のまま箱へ行くのは面倒が増える。私服に着替えて、鞄を持って、そのまま出るつもりだった。
本当に、うっかりしていた。
母がいないことを、先に確かめなかった。
玄関を開けた時、家の中は静かだった。テレビもついていない。大丈夫だと思った。自然に、何もない顔で二階へ上がって、自分の部屋へ入って、さっさと着替えて出ればいいと思った。
制服のブラウスを脱いで、半袖に腕を通しかけたところで、廊下が小さく鳴った。
足音は重くない。
わざとらしくもない。
ただ、家の中の大人の足音としては、妙にまっすぐ部屋の前まで来る音だった。
ノックは、軽く二回だけだった。
「流奈」
その呼び方に、背中が先に冷えた。
「学校から電話あったんだけど」
声は低かった。
怒鳴ってはいない。けれど、機嫌の悪さだけは隠していない声だった。
「最近、夜中に制服でふらついてるって学校から連絡があった。どういうつもりだ?」
いかにもまともな親みたいな言い方だった。
だから余計に嫌だった。
半袖を握った手が止まる。
喉がひゅっと狭くなる。
今ここで返事をしたら駄目だ、と身体のほうが先に知っている。
「……着替えてる」
どうにかそれだけ返すと、ドアの向こうで少し間があった。
「だから何だ」
さっきより一段低い声だった。
「今、話してるだろ」
その言い方に、流奈は息を止めた。
待つ気がない。
「あとで」
「あとでじゃ遅い」
ノブが小さく鳴った。
鍵は掛けていなかった。
そこまで気が回っていなかった。
「学校からわざわざ電話が来るようなことしておいて、何でお前の都合で待たなきゃいけないんだ」
その言い方が、流奈は嫌いだった。
自分が悪いのだから従って当然だ、という顔をした大人の声だった。
「ちょっと話すだけだから、開けなさい」
「待って」
言った時には、もう遅かった。
ドアが開いた。
一拍、何が起きたのかわからなかった。
次にわかったのは、手首だった。掴まれていた。
熱いとか冷たいとかじゃなく、ただ嫌な力だった。
「ィヤッ」
反射で振り切る。運がよかっただけだと思う。相手が完全に掴む前だったから、滑るように抜けた。半分裸みたいな格好のまま、流奈は床の鞄と服をひったくって部屋を飛び出した。
階段を下りる時に足を踏み外しそうになって、それでも止まらなかった。
玄関のドアを開けて、外へ出る。そこでようやく息をした。
悔しかった。
怖い、より先に悔しかった。簡単に捕まりかける今の自分にも、少し油断しただけで全部崩れる家にも。
アパートの影に入って、流奈は急いで服を着た。腕を通して、裾を引いて、鞄を肩に掛け直す。こんな姿を誰かに見られたら、また別の話になる。変な噂が立てば、母は困る。そういうところだけは、いつだって先に頭に浮かぶ。
今日は逃げられた。
でも、うまく逃げられたとは思えなかった。
もっと早く出ないと駄目だ、と強く思う。帰る時間も、着替える手順も、全部もう少し詰めなければいけない。
その時、妙に思い出したのが環の部屋だった。
水槽の音がして、何も起きない部屋。
あの静けさが、少しだけ恋しかった。
箱へ着いた頃には、もうライブは始まっていた。
地下へ下りると、熱気が先にぶつかる。遅れて入った客の気配なんて、もう誰も気にしない。音が鳴っていて、照明が動いていて、前のほうでは誰かが跳ねている。
この熱気に埋もれてしまえば、目立たない。
目立たなくていい時間がある、というだけで少し息がしやすい。
流奈は壁際へ寄った。汗と機材と煙草の残り香が混じった箱の空気の中で、やっと肩の力が少し抜ける。
ステージの上で、大輝がこちらに気づいた。
一瞬だけ、顔が明るくなる。弾きながらなのに、その笑顔はちゃんとわかる。
それを唯が目で追って、流奈のほうを見る。
目が合う。
その瞬間、唯もふわっと笑った。
その感じが、流奈は嫌いじゃなかった。
自分がそこへ入れるとは思わない。入りたいとも、たぶんまだ違う。けれど、ああいうふうに素直に心が顔へ出る人たちは、やっぱり眩しいと思う。
大輝も、唯も。
音の中で笑える人たち。
流奈はその光の外側で、ただ今日もそれを見ていた。
曲が終わるたび、拍手が上がる。
そのたびに流奈は、少しだけ遅れて息を吐いた。来るまでの熱も、先生の顔も、家の階段も、全部まだ身体のどこかには残っている。けれど、音が鳴っている間だけは、それが少し遠くなる。
最後の曲に入る前、大輝が短く何か言った。歓声が返る。箱の中の空気がまた少しだけ上がる。
眩しい、と思う。
ああいうふうに、人の前で熱を出して、そのまま返ってくるのが。
流奈には、まだそこが遠い。
でも、遠いまま見ていたいものもあるのだと、この頃ようやく少しわかってきた。
ライブが終わると、箱の中は一気に人間の場所へ戻った。
照明が変わり、ステージの脇で誰かがケースを閉じる音がする。客が物販の前へ流れ、ドリンクカウンターのほうで笑い声が重なる。汗の匂いと、冷えた空気と、興奮の残りがごちゃごちゃのまま漂っていた。
流奈は少しだけ壁際で動かなかった。
すぐ前へ出ていく気になれない。でも帰るにはまだ、身体の中の熱が落ち着かない。
「来てたんだ」
声をかけられて顔を上げると、唯が立っていた。
近くで見ると、ステージ袖にいた時より少しだけ顔がゆるい。大きな声じゃなく、箱の熱を壊さないくらいの温度で話す人だと、流奈は思う。
「……途中からだけど」
「間に合ってよかったね」
間に合った、という言い方が少し不思議だった。
見に来て当然、みたいに聞こえたからだ。
「先生に捕まってた」
流奈がぼそっと言うと、唯は少しだけ眉を寄せた。
「学校?」
「うん」
「そっか」
それ以上は聞いてこない。
その引き方に、少しだけほっとする。
大輝がタオルを首に掛けたまま、唯の後ろから顔を出した。
「途中からでも来たならいいじゃん」
笑っている。ステージの上の熱が、まだ顔のどこかに残っている笑い方だった。
「今日ちょっと焦った」
「何で」
「いないかなと思ったから」
そう言ってから、大輝は少しだけ照れたみたいに鼻の頭を掻いた。悪気も駆け引きもない言い方で、そういうところがまた眩しい。
「……別に、毎回いるわけじゃないし」
「でも来る時は来るじゃん」
「うん、まあ」
曖昧に返す。
大輝の言うことはだいたい直球すぎて、ちゃんと受け取ると少し困る。
「ファン一号、今日は遅刻な」
横から司が口を挟んだ。
流奈が振り向くと、ケースを肩に掛けたまま笑っている。そのさらに横で、環が水を飲んでいた。視線だけがこっちへ来る。
「うるさい」
流奈が言うと、司は「怒られた」と面白がるみたいに笑った。
「先生だってさ」と大輝が言う。
「何したの」
「何もしてない」
「そういうやつほど何かしてる」
「してないって」
やり取りの輪が少しずつ大きくなる気配がして、流奈はそれ以上その場にいるのが少し面倒になった。
笑っているぶん、余計にそう思う。
笑うのは嫌いじゃない。
でも、笑っているあいだに何もなかったことみたいにされるのは、あまり得意じゃない。
「水いる?」
唯が聞いた。
「……うん」
渡されたペットボトルを受け取る。指先に少しだけ冷たさが移って、それでようやく、自分が思っていたより喉が渇いていたのだとわかった。
キャップを捻る時、袖口が少し上がった。
「それ何」
環の声だった。
短かった。流奈は一瞬だけ何を言われたのかわからず、自分の腕を見る。手首の内側に、掴まれたところがうっすら赤く残っていた。
あ、と思うより先に、袖を引いた。
「別に」
「別にじゃねえだろ」
「何でもない」
言い切ると、環はそれ以上その場では言わなかった。
でも目だけは、少し長くそこに残った気がした。
流奈はその視線を正面から拾わなかった。
男の目をちゃんと見るのは、まだ少し怖い。
優しい目でも、怒る前の目でも、流奈の身体はまだ最初に身構えるほうへ行く。
「今日このあとどうすんの?」
大輝が気軽に聞く。
「……別に」
またそれだ、と司が笑う。
唯は何も言わない。
環だけが、黙ったままペットボトルの蓋を閉めた。
流奈はその場を少しだけ離れた。
物販の横に立って、テーブルの端に並んだCDを見る。持っている三枚。もう増えないはずなのに、見るたび少しだけ安心する。宝物みたいだな、と自分で思う。
こんなものが宝物になるなんて、とも思う。
「もう全部あるのに毎回見るよな」
すぐ後ろで、環が言った。
いつの間にか来ていたらしい。
「見たっていいでしょ」
「いいけど」
「増えてないか確認してるだけだし」
「増えてたら買うんだ」
「買う」
即答すると、環は少しだけ口元を歪めた。
「重」
「何が」
「そこまでいくと、かなり」
「ファン一号だから?」
「それ、自分で言うんだ」
言ってから、環はさっきより少し静かな顔になった。
「……今日、終わったらどうすんの」
「何が」
「帰るのかって」
流奈は一瞬だけ答えに詰まった。
家へ帰る、という言葉が、今日は少しだけ現実味を持たない。母がいない家。あの人だけがいる家。そこへ戻るのを考えたくなくて、先生に捕まったのも、遅れたのも、全部まとめて箱に置いてきたかった。
「まだ決めてない」
そう言うと、環は少しだけ顎を引いた。
「ふうん」
それ以上は何も言わない。
でも流奈は、その「ふうん」のあとに少しだけ間があったのを知っていた。
◇
箱を出た時には、外の空気まで少し汗っぽかった。
ライブの熱を引きずった人たちが、通りのあちこちで煙草に火をつけたり、コンビニへ向かったりしている。流奈はその輪の外を歩いた。家へ帰るにも、まだ早い。帰りたいとも思えない。
ペットボトルを持ったまま、駅前のほうへ少しだけ行って、立ち止まる。
帰れない夜の行き先なんて、いくつもない。
それなのに、今日は駅前のベンチやコンビニの前より先に、環の部屋の水槽の音を思い出した。
ぶくぶくいう機械音。
キャポさん。
冷えた水。
部屋の隅の丸椅子。
恋とか、好きとか、そういう名前のつくものではない。
でも、今日はそこへ行きたいと身体が先に思っているのが、自分でも少しだけ嫌だった。
嫌なのに、足はそっちを向いた。
古いアパートの階段を上がる。
ノックをすると、間を置かずに「開いてる」と声がした。
ドアを開ける。
水槽の音が先にする。
それだけで、今日一日ずっと肩に乗っていたものが少し軽くなった。
「いた」
キャポさんは底のほうでぬるっと動く。
「お前ほんと、それ最初に言うよな」
環が言う。Tシャツのまま床に座って、ギターを脇へ置いていた。さっきまで箱にいた人間とは思えないくらい、もう生活の顔だ。
「だってキャポさんだし」
「オレは?」
「いたね」
「それ何回目だよ」
流奈は返事の代わりに、水槽を見たまま少しだけ肩をすくめた。
部屋の中には、箱とは違う熱がある。狭さと、水槽の機械音と、窓の外の夜の気配。けれどここでは、目立たなくていい。何かの途中で笑わなくてもいい。
「水、いる?」
「うん」
環が冷蔵庫のほうを顎で示す。流奈はそれに従って一本取った。冷えている。二本並んでいたうちの一本を、そのまま持つ。
「……誰か来るの」
何気なく聞くと、環は少しだけ目を上げた。
「何で」
「二本あるから」
「来たじゃん」
それだけ言う。
意味がすぐには飲み込めなかった。
でも、部屋へ上がって、水を飲んで、丸椅子に座る流れが、環の中ではもう特別じゃないみたいに聞こえて、流奈は少しだけ黙った。
箱のあとにここへ来ること。
環にとってはもう、そのくらい自然なものになり始めているのかもしれない。
流奈はペットボトルの蓋を開けてひと口飲んだ。
冷たさが喉を通って落ちていく。
部屋の隅ではキャポさんがゆっくり向きを変える。
環はギターを軽く鳴らした。
大輝の音はまだ眩しい。
でも、眩しいもののあとに欲しいのは、もう少し静かなものだった。
流奈は丸椅子に座って、キャポさんを見た。
帰る前に寄る先が、少しずつ変わってきている。
そのことだけが、言葉にならないまま胸の内側に残った。




