表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
フォルステリ  作者: 七奈 菜々
5/8

第5話 下手くそ


 あの夜のあと、流奈は本当に何度かキャポさんを見に行った。


 毎日じゃない。約束があるわけでもない。ただ、駅前で時間を潰すよりましだと思う夜に、環の言った「キャポさんなら、いつでも見にくればいいじゃん」を、都合のいい言い訳みたいに思い出すことがあった。


 返した服はもう手元にない。

 借りも、たぶんもう残っていない。


 それでも、あの部屋へ行く理由だけは雑に置かれたままだった。


 キャポさんを見に行くだけ。

 少し座って、水を飲んで、時間を潰して帰るだけ。


 そういう夜が、二度か三度あった。


 そのたびに、流奈は自分へ同じ言い訳をしていた。


 会いに行くわけじゃない。

 魚を見るだけ。

 少し静かな場所にいるだけ。


 それで足りる場所は、流奈にはまだ多くなかった。


 その夜もそうだった。


 外は蒸し暑くて、駅前のアスファルトが昼の熱をまだ少し持っている。コンビニの前に溜まっている大学生みたいな男たちを避けて、流奈は古いアパートの階段を上がった。


 ノックすると、少ししてから中で何か落ちる音がした。


「……開いてる」


 前より少しだけ間の抜けた声だった。


 流奈はドアを開ける。水槽のぶくぶくいう音が先にする。そのあとで、部屋の奥からギターの弦をはじく音がひとつ鳴った。


「いた」


 キャポさんはいつも通り、水槽の底近くでぬるっと動いた。


「お前、やっぱオレより先に魚見るよな」


 環は床に胡座をかいたまま、ギターを膝に乗せていた。Tシャツにハーフパンツという、どうでもよさそうな格好だ。ギターのシールドは繋がっていなくて、練習とも遊びともつかない感じで弦を触っている。


「だってキャポさんだし」


「オレは?」


「いたね」


「雑」


 口ではそう言うくせに、機嫌は悪くない。


 環はギターを脇へ置くと、冷蔵庫のほうへ顎をしゃくった。


「水、飲む?」


「うん」


「取れよ」


 流奈は一瞬だけ迷ってから、冷蔵庫を開けた。

 前ならその一歩にもう少し躊躇した気がする。今も勝手にしている感じはある。でも、いちいち誰かの機嫌を見なくていい分だけ、家より楽だった。


 ペットボトルを取り出し、キャップを捻ってひと口飲む。


 部屋は相変わらず少し散らかっている。テーブルの端に灰皿、積みっぱなしのCD、床に置かれたエフェクター、水槽のガラスに映るテレビの薄い光。


 変な部屋だと思う。

 でも、前より勝手がわかる。


「今日、箱じゃなかったんだ」


 流奈が言うと、環は短く「ああ」と返した。


「リハだけ。司んとこ寄ってた」


「ふうん」


「Cliveは来週」


「知ってる」


 言ったあとで、少しだけ自分で変だと思う。

 知ってる、なんて、ちゃんと日程を見ているみたいじゃないか。


 環はそこを突かず、「そっか」とだけ言った。


 流奈は丸椅子に座る。環はまたギターを手に取ったが、弾くでもなく指先で弦を軽く撫でているだけだった。


 テレビでは知らないバラエティが小さい音で流れている。けれど耳に残るのは、水槽の機械音と、ときどき鳴るギターの短い音のほうだった。


 こういう時間が、少しずつ増えていた。


 ずっと喋るわけじゃない。

 キャポさんを見て、水を飲んで、環が何か食べているのをぼんやり見て、それで帰る日もある。


 それだけでいい、と思える場所があるのは少し厄介だった。


 流奈は水槽を見ながら、ぼんやり口を閉じたり開いたりした。

 頭のどこかには、最近よく戻ってくるメロディがあった。


 Cliveの『you’re』だ。


 CDで聴いたせいか、ライブで聴いたせいか、わからない。どちらにしても、耳に残る。大輝のギターの入り方も、歌の上がり方も、少しだけ覚えてしまっていた。


 鼻歌みたいに、ほんの少しだけそれが落ちた。


 無意識だった。


 意識して歌ったわけじゃない。ただ、水槽のぶくぶくいう音に混じるくらいの小ささで、メロディの端だけが口から出た。


 環がぴくっと顔を上げた。


「今の、何」


 流奈は止まった。


「……別に」


「いや歌ってたろ」


「鼻歌」


「知ってるわ」


 環はギターを膝から下ろして、こっちを見た。


「続き」


「やだ」


「何で」


「何でも」


「歌えよ」


「命令?」


「お願い」


 言い直すのが早くて、流奈は少しだけ眉を寄せた。


「なんでそんな聞きたいの」


「今の気になる」


「キャポさん見てればいいじゃん」


「キャポさんはいつでも見れる」


 そう言って、環はほんの少しだけ口元を歪めた。


「お前が歌ってんのは今だけかもしれねえし」


 軽口みたいなのに、変なところだけ本気っぽい。


 流奈はペットボトルを握ったまま少し迷った。歌うこと自体は嫌いじゃない。誰もいない時に、鼻歌みたいに出ることは前からあった。でも、人の前でちゃんと歌うのは別だ。


「下手だよ」


「知るか。オレだって歌えねえし」


「バンドやってるくせに」


「ギターだから」


 開き直ったみたいに言ってから、環は少しだけ顎を上げた。


「ほら。今のとこから」


 流奈は一度だけキャポさんを見た。もちろん何も助けてくれない。


 断ってもいいはずなのに、そのまま黙っているのも変に思えて、結局小さく息を吐いた。


「ちょっとだけ」


「おう」


 環の返事が、思ったより静かだった。


 流奈は視線を水槽に落としたまま歌い始めた。声を張るわけじゃない。誰かに聴かせるための歌い方でもない。ただ、部屋の中に落とすみたいに、細く音をつなぐ。


 『you’re』は、さっきまで鼻歌にしていた時よりも少し長くなった。知っているところだけ、覚えているままに。ライブで聴いた音の記憶をなぞるみたいに。


 大輝さんが唯を思って書いた歌だと知っている。


 歌詞は、ちゃんと一人に向いていた。遠くの誰かへ投げる言葉じゃなくて、すぐ目の前にいる相手へ置くみたいな歌だった。だから余計に綺麗に聞こえたのかもしれない。


 流奈には、そういうふうに誰か一人に向けて何かを出す感覚はよくわからない。


 わからないまま歌うから、たぶん下手だった。


 歌い終わっても、環はすぐ何も言わなかった。


 静かだった。


 テレビの音も、水槽の音もあるのに、その間だけ妙に部屋が止まったみたいに感じる。


「……なに」


 流奈が先に言うと、環は少し遅れて顔を逸らした。


「……下手くそだなー」


 言い方が、思ったより掠れていた。


「何それ」


「いや、ほんとに。歌い方とか全然だし」


「だったらもう歌わないけど」


「……でも」


 環はそこまで言って、また黙る。


 顔はまだ少し逸れたままだった。さっきまで軽口を叩いていた男が、急に言葉を選び損ねている。


 流奈はその変化に少しだけ身構えた。歌っただけなのに、思ったより重く受け取られた気がしたからだ。


「でも何」


 環は返事の代わりに、小さく舌打ちみたいな息を漏らした。


「……腹立つ」


「は?」


 流奈は思わず環を見た。


「何で」


「何でって……いや、何でもねえ」


「よくないでしょ」


「よくなくはねえけど」


「意味わかんない」


 環はようやくこっちを見た。けれどすぐまた目を逸らす。


「だってそれ、大輝の曲だろ」


 そこでようやく、流奈は少しだけわかった。


 呆れる、というより先に、そんなところなのかと思う。


「別に、大輝さんが好きで歌ったわけじゃないし」


「わかってる」


「唯さんの歌だし」


「それもわかってる」


「じゃあ何」


「わかってても面白くねえ時あんだよ」


 環は投げるみたいに言った。


 子どもっぽい。面倒くさい。たぶん、かなり。


 でも、その面倒くささの中に、さっきの沈黙の理由も混ざっている気がして、流奈は少しだけ警戒した。


「……もうあんたの前じゃ歌わない」


 言うと、環がぴたりと止まった。


「は?」


「だって面倒だし」


「いや、それは違うだろ」


「何が」


「何か知らねえけど、オレが悪い感じになるじゃん」


「実際、今そうじゃん」


「それは……そうだけど」


 認めるのかと思って、少しだけ可笑しくなる。


 でも流奈は笑わなかった。笑うと、曖昧になる気がした。


「もういい。歌わない」


 繰り返すと、環はしばらく黙っていた。


 水槽の泡だけが上がる。


 キャポさんは何も知らない顔で底を這っている。


 そのあとで、環がぽつりと言った。


「……お前の声は好きだよ」


 小さかった。


 大きな音にしないぶん、余計にはっきり聞こえた。


 流奈は言葉を返せなかった。


 その言い方はずるいと思う。もっと茶化せばいいのに。いつもみたいに雑にしていればいいのに、こういう時だけ急に真面目なものを落としてくる。


 環はこっちを見ないまま、床の一点を見ていた。


「だから腹立つんだろうし」


「知らないし」


「オレも知らねえよ」


 投げやりみたいに言ってから、環は耳の後ろを掻いた。照れているのか、苛立っているのか、自分でも整理できていない顔だった。


 流奈はペットボトルを持ち直す。


 心臓が少し変な打ち方をしていた。嬉しいとかではない。怖い、でもない。歌っただけなのに、その声を思っていたより深く拾われたことに戸惑っている。


 大輝さんに向けた憧れみたいなものとは、全然違う。


 あっちは遠くて、明るくて、ただ眩しい。

 こっちは近くて、静かで、妙に生々しい。


 それが少しだけ、嫌だった。


「……もう帰る」


 流奈がそう言うと、環は「まだ九時だろ」と返した。


「ここでって意味じゃないし」


「わかってるわ」


 その返し方はいつも通りで、少しだけ安心する。


 流奈は立ち上がって、水槽をもう一度だけ見た。キャポさんは変わらず、ゆっくり上へ浮いて、また下へ戻る。


 部屋の中にはまだ、さっき落ちた言葉が残っている気がした。


 これまでとは少し違う。


 何が違うのか、うまく言えないまま。


「送る」


「いらない」


「じゃあ階段の下まで」


「何それ」


「何となく」


 流奈は呆れたみたいに息を吐いた。


 けれど、追い返すほどでもなかった。


 部屋を出る直前、環が後ろから言う。


「次、歌えとは言わねえから」


「そうして」


「でも鼻歌は止めんな」


「うるさい」


 そう返した声が、思ったより少しだけ柔らかくなってしまって、流奈は自分で少しだけ腹が立った。


 階段を下りながら、夜の空気を吸う。


 まだ胸の奥が変だった。


 ただ、それでもたぶん、またこの部屋には来る。


 キャポさんがいるから。


 そういうことにしておくのが、今はいちばん都合がよかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ