第4話 二十三万八千六百円
借りた服は、ちゃんと洗って返そうと思っていた。
環のTシャツも、ジャージも、あの最悪なトランクスも、家の洗濯機では回したくなかったから、コインランドリーで乾かしたあと、自分の部屋の奥にしばらく押し込んでいた。返しそびれていた、というより、返しに行く理由を作れずにいた、のほうが近い。
返したら、それで終わる気がした。
終わっていいはずなのに、終わるのも少し変だった。
だから今日も、返すつもりで紙袋を持って家を出たくせに、アパートの階段を上がるまでは、途中でやっぱりやめてもいいと思っていた。
夏休みに入る前の夕方だった。昼の熱がまだアスファルトに残っていて、日が落ちても空気はぬるい。駅裏の古いアパートの外階段は、金属が少しだけ熱を持っていた。
呼び鈴を押す。
反応はない。
もう一回押しても、何も返ってこない。
中にいる気配もなかった。
「……いないし」
紙袋の持ち手が、掌に少し食い込む。
ドアノブに掛けて帰るのは嫌だった。知らない誰かに見られるのも、盗られるのも嫌だし、何より、自分が来たことをそんなふうに残したくなかった。
階段の踊り場で少しだけ迷ってから、流奈は結局、駅まで戻ってコインロッカーに紙袋を入れた。
中身はただの服だ。なのに、持ったまま歩いていると妙に落ち着かない。返しに行ったのに返せなかった、みたいな事実まで透けて見えそうで嫌だった。
ロッカーの鍵を鞄に入れて、駅前へ出る。
まだ帰るには早い。
けれど、座って時間を潰せるような場所も思いつかなかった。
商店街を抜けて、大通りの端をなんとなく歩く。CD屋の前で立ち止まり、コンビニの雑誌棚を眺め、公園の前まで行って、やっぱり今日はベンチに座りたくなくて引き返す。そうやって行ったり来たりしているうちに、だんだん、自分が何をしているのかわからなくなってくる。
「ねえ」
声をかけられて、流奈は足を止めた。
振り向く前に、嫌な感じだけが先にわかった。年上の男の声。妙に慣れた調子。酔っているほどではないのに、目だけが馴れ馴れしい。
「いくら?」
その一言で、全部が面倒になった。
驚くより先に、またか、と思う。
可愛いとか、若いとか、ひとりでいるとか、そういうのでこっちを値踏みする目は前から知っている。逃げれば追ってくる時もあるし、無視すれば面白がる時もある。
流奈は返事をしなかった。
「二十三万八千六百円」
低い声が、背中側から割って入った。
流奈は振り向きかけて、先に男の顔が変わるのを見た。
少し離れた路肩に、酒田酒店と名前の入った白い軽バンが停まっている。荷台の扉は半分開いたままで、空き瓶のケースがいくつか積まれていた。
その車の前から、環が歩いてくる。
配達用のポロシャツに、首元へ引っ掛けたタオル。仕事中だというのが一目でわかる格好だった。手には伝票らしい紙を持っていて、面倒くさそうな顔のまま、流奈の少し後ろで足を止める。
「高いよ。今のオレには無理」
「……は?」
男が間の抜けた顔をする。
環は男を見た。
「だから、高いって」
男は流奈ではなく、環と、その後ろの軽バンを見た。酒屋のロゴ、開いた荷台、積まれたケース、環の目つき。そのへんをざっと見てから、「何だよ、男いんのかよ」と吐き捨てるみたいに言って離れていく。
流奈は、その背中が角を曲がるまで見ていた。
環は男の消えたほうを一度だけ見て、それから流奈のほうへ視線を戻した。
「何アレ」
「知らない」
反射みたいに、そう答えた。
環は一拍だけ黙った。
「……まあいいけどさ」
言い方は軽いのに、少しだけ気にしているのがわかった。けれどそれ以上は聞いてこない。
「何その金額」
「何が」
「さっきの」
「別に」
言ったあとで、自分でも環の真似みたいだと思った。
環は少しだけ口元を動かした。
「お前、ほんとそれ便利そうだよな」
「そっちもでしょ」
「そうかも」
少し離れたところで、軽バンの荷台が開いたままになっている。酒田酒店の名前が入った白い車の中には、空き瓶のケースがいくつか積まれていた。
環はそっちを一度見てから、手に持っていた伝票を折った。
「あと一件で上がる」
「ふうん」
「どっか行くとこあんの」
「別に」
「ねえのな」
言い切られて、流奈はむっとする。
「駅のロッカーに荷物あるなら、上がったら拾ってやる」
「……何で知ってるの」
「顔に書いてある」
「嘘」
「半分はな」
「返しに来たんだろ。服」
流奈は少しだけ黙った。否定しなかったのを肯定と受け取ったのか、環はそれ以上そこを聞かない。
「終わったら連絡……はできねえな」
「番号知らないし」
「だな。じゃあ三十分くらいで駅前戻る」
「別に待たなくても」
「お前が勝手に待つか、勝手に帰るかは好きにしろよ」
そう言って、環は軽バンのほうへ戻った。
軽バンが車の流れに混ざっていく。
残された流奈は少しだけ立ち尽くした。今ので助かったと思うより先に、見られた、と思っていた。何をされたかではなく、ああいうふうに声をかけられる場面ごと見られた感じが嫌だった。
なのに、不思議と逃げたい感じは強くない。
帰るなら今だ。
でも、帰っても仕方ない。
結局いつもの夜に戻るだけだ。
流奈は駅前のロッカーの近くまで戻って、コンビニで小さいペットボトルの水を買った。三十分きっかり待つ気はない。なかったけれど、気づけばロッカーの前の柱にもたれて、時間を見ていた。
環は本当に三十分ちょっとで戻ってきた。
店の駐車場らしいところに軽バンを停めて、窓から顎だけ出す。
「いたんだ」
「別に」
「やっぱ待ってんじゃん」
そう言いながらも、勝ち誇った感じはない。
流奈はロッカーを開けて紙袋を取り出した。助手席のドアが内側から開く。
「乗る?」
「……いいの」
「外で食う金はねえけど、うちで飯なら何とかなる」
それが誘い文句として成立しているのか、流奈にはよくわからなかった。
「何で」
「腹減ってんだろ」
「別に」
「その別に、腹減ってる時のやつだろ」
図星で少し腹が立つ。
でも、断った先に行く場所もない。紙袋を抱えたまま夜をうろつくのも馬鹿らしかった。
流奈は少しだけ迷ってから、結局助手席に乗った。
車内は少し酒の匂いがした。甘いというより、段ボールと瓶と、乾いたアルコールの匂い。荷台のほうでケースがかすかに鳴る。
「シート倒すなよ」
「倒さないし」
「前に毅さんが寝た」
「何でそんな話するの」
「思い出したから」
車は駅前を離れて、裏道を抜けていく。原付で走った時より、少しだけ時間がかかった。そのあいだ、環はほとんど喋らなかった。ラジオも点けない。必要な時だけウィンカーの音が鳴って、また静かになる。
「……あれ、いつものことなの」
前を見たまま、環が言った。
流奈はすぐには返事をしなかった。
聞くな、とも思うし、でも聞かれなかったら聞かれなかったで、何も見ていないみたいで腹が立つ気もする。
「知らない」
結局、それしか言えなかった。
環は「そっか」とも言わず、ただ小さく息を吐いただけだった。
アパートに着くと、環は先に部屋へ上がって、冷蔵庫の前に立った。
「何食えるかな」
言いながら、中を覗き込む。
紙袋を差し出すと、環は一度だけ見てから受け取った。
「お、ほんとに返しに来たんだ」
「だからそうだって」
「洗ってるし」
「当たり前でしょ」
「トランクスも?」
「うるさい」
吹き出しかけたのを、環は咳みたいに誤魔化した。
それが少し腹立たしい。
「飯、焼き飯でいい?」
「焼き飯って」
「チャーハンって言うほどのもんじゃねえし」
確かに、という感じの材料が冷蔵庫から出てくる。残りご飯、卵、ネギ、ハム、冷凍の小さい海老。節約だと言いながら、そのへんの組み合わせだけは妙に慣れていた。
流奈は丸椅子に座って、水槽を見た。ぶくぶくいう機械音は相変わらずで、それだけで少し肩の力が落ちる。
「いた」
キャポさんは底のほうでぬるっと動いた。
「魚はいるよ、いつも」
環がフライパンに油を入れながら言う。
「今日はちょっと機嫌悪い」
「わかるの?」
「なんとなく」
「適当」
「そう」
火が点く。卵を落とす音がして、ネギの匂いが立つ。フライパンを振る手つきだけは、ちょっとむかつくくらい慣れていた。
「……なんでそんなうまそうなの」
「何が」
「作るの」
「ひとり暮らし長いし」
そう言って、環は塩を振る。
「あと、外で食うと高い」
「節約なんだ」
「超節約」
鍋肌に醤油が少し当たって、香ばしい匂いが立った。空腹だったのを、そこで急にはっきり自覚する。
皿に盛られた焼き飯は、思っていたよりちゃんとしていた。
「うま」
食べてすぐ、口から出た。
環が少しだけ得意そうな顔をする。
「だろ」
「何で」
「何でって、作ったから」
「そうじゃなくて」
「知らねえよ」
言いながら、自分の皿にも口をつける。その雑さが、変に気を遣われるよりましだった。
食べているあいだ、会話はあまりなかった。テレビは点いていない。フライパンを洗う水音と、水槽の機械音だけが部屋にある。
食後、流奈はペットボトルの水を飲みながら、ふと思い出して言った。
「二十三万八千六百円って何」
環は流し台の前で一度だけ止まった。
「何が」
「さっきの金額」
「ああ」
そこでようやく振り返る。
「欲しいギター」
「は?」
「中古で見つけたやつ」
「それ言ったの?」
「言った」
流奈は本気で少しだけ呆れた。
「意味わかんない」
「向こうにも意味わかってなかったし、いいだろ」
「よくないでしょ」
「でも逃げた」
「逃げたけど」
それでいいのか、と言いかけて、やめた。
環はたぶん、ああいう時に綺麗なことを言う男ではない。
守るとか、大丈夫とか、そういうふうには入ってこない。
ただ、その場で思いついた変なもので切る。
それが余計に、よくわからない。
「ギター、そんな高いんだ」
「高いよ」
「買うの」
「買えたら」
環は笑いもしないで言った。
「今は無理」
その言い方が妙に本気で、流奈は少しだけ黙る。
キャポさんが、水面の近くまで上がってきた。ぽこ、と小さく変な音を立てる。
「今の」
「キャポさん」
「ほんとに言うんだ」
「言うよ」
しばらく、それを眺めていた。
何か特別なことを話すわけでもなく、何か起きるわけでもなく、時間だけが進む。家にいたら長く感じるはずの夜が、ここでは少しだけ違う速さで流れる。
それが気持ち悪い。
でも、少しだけ楽でもある。
流奈は立ち上がって、空になった皿を流しへ持っていった。
「もう帰る」
「ん」
環はソファ代わりの座椅子にもたれていたが、すぐに起き上がる。
「送る」
「いらない」
「じゃあ階段まで」
「何それ」
「何となく」
前にも聞いた気がする言い方だ。
玄関で靴を履いて、紙袋のなくなった手元を見る。返しに来た服はもうない。借りたものは返した。これで本当に、来る理由はなくなったはずだった。
「……もう返したし」
口をついて出た。
言ってから、自分で変だと思う。
来る理由、なんて、最初から探していたみたいじゃないか。
環は一拍だけこっちを見て、それからほんの少しだけ肩をすくめた。
「キャポさんなら、いつでも見にくればいいじゃん」
言い方は軽かった。
深い意味なんてないみたいに、そのまま置いただけの声だった。
流奈はすぐに返事ができなかった。
また来い、ではない。
会いに来い、でもない。
魚ならいつでも、だった。
その雑さが、妙にずるいと思う。
「……別に、そんなに見たくないし」
「ふうん」
環はそれ以上言わなかった。引き止めるでもなく、念を押すでもなく、ただそういう置き方だけしてくる。
そのせいで余計に、言葉が残る。
階段を下りる前に、一度だけ振り返った。
部屋のドアの向こうから、水槽の機械音はもう聞こえない。なのに、頭の中ではまだあのぶくぶくいう音が続いている気がした。
また来る、なんて言うつもりはない。
でも、キャポさんならいつでも、という言葉だけは、妙に使いやすい言い訳として残った。
それが少しだけ厄介だった。
◇
数日後、流奈はまた箱にいた。
来ないほうが自然かもしれないと、少しだけ思った。
でも結局、足はこっちへ向いた。
入口のところでチケットを見せて中へ入ると、物販の準備をしていた唯が先に気づいた。
一瞬だけ目が合う。
唯は何も言わず、ただ少しだけ表情をゆるめた。
その横で、大輝が振り向く。
「あ」
それだけだった。
大げさに呼ぶでもなく、駆け寄るでもなく、でも明らかに少しほっとした顔だった。
流奈はその顔を見て、少しだけ視線を逸らす。
「……どうも」
それだけ言うと、大輝は笑った。
「来たんだ」
「まあ」
短いやり取りなのに、それで十分だった。
切れてないんだな、と向こうが思ったのがわかる。
こっちも、切るつもりはなかったのだと、その時になって少しだけわかった。
箱の奥では、リハの音が鳴っていた。
流奈は鞄の中のCDケースの角を指で確かめてから、いつもの壁際のほうへ歩いた。




