第3話 キャポさん
七月半ばの箱は、外より蒸していた。
地上で吸った空気はまだ夜の熱を残しているのに、階段を下りて入口まで来ると、そこへ人の体温と機材の熱が足されて、別の息苦しさになる。六月に初めてここへ紛れ込んだ時は、その重さだけで少し帰りたくなった。今はもう、そこまでではない。
慣れた、というほどではない。
ただ、どこに立てばいちばん邪魔にならないかと、どのへんにいれば音がうるさすぎないかだけは、少しわかるようになった。
六月頭の初ライブから、二か月くらい。
毎回ではない。でも合同の夜になると、気づけば足が向くことが増えた。箱の日もあれば、外の小さいステージみたいなところの日もある。そういうのを流奈はまだ全部追えているわけではないけれど、Cliveの名前がある日だけは何となく覚えている。
家へ帰るには早い夜。
公園のベンチも暑い夜。
コンビニの前で長く立っていると、余計な声をかけられそうな夜。
そういう時、ここはわりと都合がよかった。
箱の中にいる間だけは、帰る先のことを少し後ろへやれる。
流奈は肩に掛けた鞄を持ち直した。中には買ったばかりのCDが二枚入っている。前に買った一枚と合わせて、手元にあるCliveのCDは三枚になった。
別に集めているつもりはない。
でも、音だけは持って帰りたかった。
「あ、いた」
入口の脇で物販を並べていた大輝が顔を上げた。汗で少しだけ前髪が額についている。リハ終わりのTシャツ姿で、まだステージの上の顔にはなっていない。
「今日も来てくれたんだ」
「……たまたま」
「またそれ言う」
軽く笑いながら、大輝はテーブルの上のCDを指で弾いた。
「前の、聴いた?」
「うん」
「どうだった?」
「……好きでした」
言ってから、少しだけ顔を上げる。
大輝はほんの一瞬だけ目を丸くして、それから露骨に嬉しそうな顔をした。
「うわ、そういうの普通に言うじゃん」
「普通じゃだめなの」
「いや、いい。かなりいい」
この人は、喜ぶ時もまっすぐだ。
受け取ることを変に濁さない。そのまま顔に出す。
そこが眩しい。
大輝の隣でCDケースを並べていた唯が、くすっと笑った。
「よかったね、大輝」
「よかった」
「子どもみたい」
「うるさい」
そう言い合う空気が自然すぎて、流奈は少しだけほっとする。
唯は前に見た時と同じで、穏やかで、余計なところへ踏み込んでこない。なのに場にいることが当たり前みたいに見える。大輝の隣にその人がいるのは、とても自然だった。
それが少しだけ安心する。
大輝を見て眩しいと思うのと、あそこを奪いたいと思うのは、たぶん全然違う。
流奈はそこまで熱くはなれない。
なりたくもない。
「で、また買うの?」
唯がケースを一枚持ち上げた。
「……うん」
「ほんとに一号じゃん」
「何ですか、それ」
「だって大輝がまだ言ってるし」
まだ、ではなく、ずっと、かもしれない。
Clive初ライブで初めて「凄い」と言った子。
それがなぜか、ファン一号、になった。最初は大輝が勝手に言い出しただけだったのに、今ではCliveだけじゃなく、合同で一緒になるParanoidの連中まで普通にそう呼ぶ時がある。
嫌だ、と言うほどでもない。
でも好きにもなれない。妙にそこに残る呼び名だった。
「また増えてんじゃん」
後ろから声がして振り返ると、環がいた。
黒いTシャツの襟元を指で引っ張りながら、流奈の鞄を見ている。目つきは相変わらず悪いし、歓迎している感じもない。
「何が」
「CD」
「別に」
「Cliveばっかじゃん」
言い方が、少しだけ面白くなさそうだった。
流奈はその顔を見て、逆に少しだけ可笑しくなる。
「だってCliveの売り場にいるし」
「Paranoidもあるけど」
「知らないし」
「あ、そう」
環はあからさまに嫌そうな顔をした。
大輝がそれを見て吹き出す。
「何だよ環、拗ねてんの」
「拗ねてねえよ」
「顔がそう」
「うるせえ」
そのやり取りの横で、paranoidのベース尚人が「ファン一号は公平じゃないっすからね」と面白がるみたいに口を挟み、paranoidのボーカル司に「おまえは余計なこと言うな」と軽く頭を叩かれていた。
その雑さごと、もう少し前よりは見慣れてきた。
でも自分がそこへ入っている感じはまだない。
流奈はテーブルの端に置かれたフライヤーをなんとなく見た。今日も何組か出る合同だ。名前を知っているのは半分もない。けれどCliveの名前だけは、前より先に目に入る。
箱の奥では、ドラムが短く鳴った。リハの終わりを告げるみたいな音だった。客が少しずつ増え始めて、入口の前の空気がざわつく。
「始まる前に飲み物取ってきたら?」
唯が流奈に言った。
「今日暑いし」
「……うん」
その自然な言い方に、変に礼を言う隙もなかった。
流奈は鞄を持ち直して、ドリンクのほうへ向かった。
途中ですれ違った女の子二人が、ちらっとこっちを見る。片方は新しいCliveのTシャツを着ていて、もう片方は大輝の名前入りの缶バッジをバッグにいくつもつけていた。
その視線の意味を、流奈は深く考えないようにした。
考えても、ろくなことはない。
案の定、その夜のライブは最初から熱かった。
八月の箱は人が詰まるのも早い。ステージの前はすぐに埋まって、後ろまで空気が温度を上げていく。流奈はいつも通り、壁際の少し後ろにいた。手を上げるタイミングも、前で跳ねる感じもまだよくわからない。でも最初の頃ほど、自分だけ置いていかれている感じは強くない。
音が鳴っている間だけは、余計なことが少し黙る。
大輝のギターは今日も前へ出てきた。六月の初ライブの時より、少しだけ馴染んで、でもまだ新しい場所を必死に掴んでいるみたいに見える。その前のめりさごと眩しい。
眩しいと思う。
羨ましいとも思う。
恋にかなり近い熱なのかもしれない、と、最近は少しだけ自分でもわかる。
でもそこに手を伸ばしたいわけじゃない。
唯がいるから、ではなく、それ以前に、流奈の熱は奪うところまで育たない。遠くから見て、音だけ持って帰るくらいがせいぜいだ。
だから今日も、前へは行かない。
終盤、大輝が少し前に出た。ギターが鋭く入る。客席の空気がそこだけ持ち上がって、流奈はその熱の外側からそれを見ていた。
外側のままでも、ちゃんと届く。
そこがこの場所の変なところだった。
◇
ライブが終わると、箱の中に熱だけがしばらく残った。
客が物販へ流れ、出演者がケースを動かし、ドリンクカウンターの前に列ができる。誰かの汗と整髪料と、こぼれたアルコールみたいな匂いが混ざって、さっきまで音だったものが一気に人の手の届くところへ下りてくる。
流奈は物販の横で、買ったCDを袋へ入れてもらっていた。
「また増えたね」
唯が笑う。
「……ちょっとだけ」
「ちょっと、が三枚目」
「数えないでください」
言うと、唯はまた笑った。その隣で大輝が、「次はサインでもする?」と半分冗談みたいに言ってくる。
「いらない」
「即答」
「いらない」
「ひど」
そう言いながら大輝は楽しそうだった。
流奈は少しだけ肩の力を抜く。
このくらいの距離ならまだ楽だ。
その時だった。
「可愛いと得だよね」
後ろから、少し甘い声がした。
振り向くと、さっき入口の近くで見た女の子が二人いた。Tシャツのほうが紙コップを持ったまま立っていて、もう片方は流奈の鞄を見ていた。
「何がですか」
流奈がそう返すと、女の子は口だけで笑った。
「だって、来たばっかりなのに、もうそんな構われてるし」
「ファン一号、だっけ?」
隣の子が言う。
その言い方に、少しだけ刺があった。
流奈はすぐにわかった。
こういう空気は別に珍しくない。
可愛い、目立つ、構われる。
それだけで敵意の向く場所があることは、前から知っている。
「別に」
「別に、って」
コップを持ったほうが笑う。
「唯さんいるのに、そういう感じで入ってくるの、どうかと思う」
その一言で、流奈の中の何かが少しだけ冷めた。
驚くより先に、またか、と思う。
可愛いから。
構われてるから。
大したことしてない顔してるから。
そういうふうに見られる時の空気を、流奈は前から知っていた。
「違うんで」
「何が」
「別に、そういうのじゃ」
「じゃあ何」
その問いに答えようとした瞬間、紙コップの中身がぶちまけられた。
冷たい。
ジュースが胸元から腹のあたりまで一気にかかって、Tシャツが張りつく。甘い匂いが遅れて上がる。
周りの空気が一拍だけ止まった。
「あっ」
わざとか、手が滑ったのか、その子自身も一瞬だけ顔を固めた。
でも流奈の頭に最初に浮かんだのは、やっぱり、またか、だった。
ショックより先に、面倒が増えた、と思う。
「何してんの」
低い声が割って入った。
環だった。
たまたま大輝の近くにいたらしい。いつの間にか間へ入って、流奈の前に立つ。怒鳴るわけでも、手を掴むわけでもない。ただ、そこへ体を置いて話を切った。
「もういいだろ」
「だってこの子、」
「いいって言ってる」
声は低いのに、妙に静かだった。
その静かさのほうが、むしろ押す。
大輝が遅れてこっちへ来る。
「え、何、どうした」
唯もすぐ後ろから来た。かかったジュースを見て、顔をしかめる。
「最悪……ごめん、流奈ちゃん」
謝るのは唯じゃないのに、先にそう言う。
そのことが、余計に流奈を疲れさせた。
環は大輝のほうを見もせずに言った。
「お前そっち片しとけ」
「え」
「こっちはいい」
それだけ言って、流奈の腕ではなく、鞄の紐のほうを軽く引いた。
「来い」
流奈は一瞬だけ立ち止まる。
助かった、ではなかった。
男が出てきたら余計面倒、が先に立つ。
でもここで残るのももっと面倒だった。
環の後ろについて、箱の外へ出る。
環が流奈を引いて出ていったあと、その場だけ妙に静かになった。
「ちょ、待って、何したの」
大輝が遅れて声を上げる。
紙コップを持ったままの女は「いや、そんなつもりじゃ」と言いかけて、でも自分でも苦しくなったみたいに黙る。
唯が先に動いた。流奈を追うのではなく、その場に残ったジュースの染みと、固まった空気のほうを見る。
「今は追わないほうがいい」
「でも」
「大輝が行くと余計しんどいと思う」
その言い方で、大輝は一瞬だけ止まった。
正しいのがわかるぶん、余計に食う顔だった。
少し離れたところで司が小さく息を吐く。
「まあ、環のほうが早かったな」
「……オレ、遅」
大輝が低く言う。
毅が紙コップを片づけながら、「とりあえず店先で揉めんな」とだけ言った。
その間にも、何人かの視線がもう同じ意味を持ち始めていた。
あの子は、ただの客じゃない。
Cliveのファン一号で、顔のある子だ。
そこへジュースをかけた。
それだけのことが、その場にちゃんと残った。
◇
夜気に触れた途端、ジュースで濡れた服が余計に気持ち悪くなった。Tシャツが肌に貼りついて、甘い匂いが自分からする。
「……最悪」
ぽろっと出る。
「だろ」
環はあっさり言った。
ライブハウスの裏手に停めてあった原付の前で、ヘルメットを一つだけ流奈に渡す。百十の白い車体だった。新品ではないが、無駄にいじってもいない感じがする。
「乗って」
「どこ」
「銭湯」
一瞬、意味がわからなかった。
「何で風呂屋」
「何でって、そのまま無理だろ」
環は本気で不思議そうな顔をした。
「帰るのも無理だし、部屋連れてっていきなり風呂入れももっと無理だろ。見知らぬ男の部屋でそんなの普通やんねえし」
そこまで一気に言われて、流奈は黙る。
確かにそうだ。
そうなのに、男のほうからその線を普通に引かれるのは、少しだけ予想外だった。
「服は?」
「あとで何とかする」
「何とかって」
「何とかだよ。とりあえず洗え」
雑だ。
でも、言ってることは変にまともだ。
流奈は少しだけ警戒したまま、ヘルメットを被った。
「……帰れって言わないんだ」
「その格好で?」
環は一度だけ流奈のTシャツを見てから、呆れたみたいに目を細めた。
「言えるかよ」
その一言に、何も返せなかった。
原付の後ろに乗る。
手をどこに置けばいいかわからず、少しだけ迷ってから、服の裾をつまむみたいにして環のTシャツの端を持った。
「落ちんなよ」
「……うん」
エンジンがかかる。
駅前の明かりを抜けて、少し大きい道へ出る。夜の風が濡れた服の上を切っていって、冷たくて気持ち悪かった。なのに、箱の前に立ち尽くしているよりはましだった。
風呂屋は駅から少し離れたところにあった。遅くまでやっているらしく、入り口の明かりはまだ白く点いている。環は原付を停めると、「待ってろ」と言って近くの公衆電話の横に流奈を立たせ、そのままどこかへ走っていった。
十分もしないうちに戻ってくる。手にはビニール袋をぶら下げていた。
「何それ」
「服」
「早」
「近いから」
たぶん部屋まで取りに行ったのだろう。
聞く前に、環は袋を流奈へ押しつけた。
「タオルも入ってる。シャンプーとかは中で何とかしろ」
「何でそんな雑なの」
「女物ねえから」
言われて、少しだけ黙る。
ないのは当たり前だ。
でも、その当たり前に変な含みがないことに、逆に少しだけ戸惑う。
「じゃ、先入れよ」
「……うん」
銭湯の暖簾をくぐる時まで、流奈はどこか落ち着かなかった。
男に連れてこられて、風呂屋。
意味がわからない。
もっと別の面倒が増えるのが普通じゃないのか、と、頭のどこかがまだ疑っている。
脱衣所で袋を開けて、さらに意味がわからなくなった。
「……最悪」
環のTシャツ。
環のジャージ。
そして、トランクス。
生々しいとかではなく、ただ最悪だった。
女物なんてあるわけない。
それはそうだ。そうなのに、そこまで現実として出されると、急に腹が立ってくる。
でも濡れた服のまま帰るほうがもっと嫌だった。
流奈は顔をしかめながら、黙って風呂へ入った。
湯気の匂いがする。
身体を洗って、ジュースの甘い匂いが落ちていくにつれて、少しだけ人間に戻る感じがした。
湯船に肩まで浸かっても、気は抜けない。
ただ、ベタつきが消えたぶん、さっきまでよりずっとましだった。
風呂を上がって、借りた服を着る。
Tシャツは肩が落ちる。ジャージの紐はきつく締めてもまだ落ちそうだ。問題はトランクスで、もう、何も言いたくない。
ドライヤーの前の鏡に映った自分を見て、流奈は本気で少しだけ泣きそうになった。
惨め、というより、間抜けだ。
番台の横を抜けて外へ出ると、環がベンチに座っていた。見るなり一拍置いて、吹き出した。
「……っ、は」
「最低」
即答だった。
環は肩を震わせたまま、笑いを堪えようともしていない。
「いや、無理だろ、その格好」
「あんたがよこしたんだけど」
「知らねえよ、サイズ」
「ほんと最低」
「でも洗えただろ」
それを言われると、反論が少し弱くなる。
ベタつきはもうない。甘い匂いもしない。代わりに、環の洗剤か柔軟剤か、よくわからない匂いがする。そこも何か腹が立つ。
「帰る」
膨れたまま言うと、環はまだ口元を緩めながら立ち上がった。
「帰ってもいいけど、服まだ濡れてるだろ」
「……あ」
「だから洗うって」
そうだった。
そのためにここへ来たのだった。
環は原付のキーを指先で回しながら、「ほら」と顎で外を示す。流奈は不機嫌なまま、その後ろへもう一度乗った。
さっきより風が気持ちよく感じる。
腹が立っているのに、少しだけ楽だ。
◇
環の部屋に入った瞬間、先に聞こえたのは水槽の音だった。
ぶくぶくという小さな音と、機械の低い唸り。男の部屋、という言葉より先に、それが耳に入る。前に外で朝まで話した時、ずっと頭に残っていた音の予告みたいなものが、ここにある。
環は流奈の濡れた服が入った袋をそのまま洗濯機へ放り込み、洗剤を雑に入れて蓋を閉めた。
「回す」
「見ればわかる」
「その言い方、ほんとかわいくねえな」
「別に可愛くなくていいし」
返すと、環は少しだけ鼻で笑った。
部屋の中は、思ったより普通だった。脱ぎっぱなしの靴、テーブルの上の灰皿、壁際に立てかけられたギターケース。男の一人暮らしの部屋、という感じはたしかにある。
でもそれより先に、水槽が目に入る。
「……これ」
「キャポさん」
環が当たり前みたいに言った。
水槽の中で、ぬるっとした影が動く。魚というより、もっと別の生き物みたいだ。細長くて、古い顔をしていて、可愛いとはあまり言えない。
「変」
「変だよ」
環は全く傷ついた様子もなく、水槽の蓋を軽く叩いた。
中の影が底を這って、少しだけ上へ向く。
「これが肺魚」
「これが」
「何その言い方」
「魚っぽくない」
「まあな」
環は床にしゃがんで、水槽の横を指で軽くなぞった。
「でも、上で息する時ちょっと可愛い」
「さっき可愛くないって言ってた」
「全体では可愛くない。たまに可愛い」
その区分けがよくわからない。
流奈は水槽の近くへ寄った。
湿ったガラスの向こうで、キャポがゆっくり向きを変える。見ていると時間が少し遅くなるみたいで、不思議だった。
「名前、ほんとにキャポなんだ」
「キャポさんな」
「なんでさん」
「なんとなく」
「適当」
「そう」
環は立ち上がって冷蔵庫を開け、水のペットボトルを一本寄越した。
「ほら」
「……ありがとう」
流奈は受け取って、部屋の真ん中に置かれた丸椅子に座った。ブカブカの服の裾が膝の上でもたつく。最悪だと思うのに、その最悪さが性的ではなく、ただひたすら生活の不格好さとしてそこにあるのが、余計に調子を狂わせた。
「洗濯終わったら、乾燥だけコインランドリー持ってく」
「外?」
「すぐそこ」
「めんどくさ」
「洗うほうがめんどくさいだろ」
「そうだけど」
会話は雑なのに、流れだけは妙に普通だ。
流奈は水をひと口飲んだ。
何か言われるかもしれない。
何かされるかもしれない。
その感じはまだ消えていない。
なのに環は、本当に洗濯機を回して、魚を見て、水を飲んでいるだけだった。
「……何でフォルステリじゃないの」
前に聞いた名前を思い出して言うと、環が少しだけ嬉しそうな顔をした。
「覚えてたんだ」
「変な名前だから」
「フォルステリはオーストラリアの肺魚。もっと顔が古代魚ですって感じで、でかい」
「ざっくり」
「ざっくりでいいんだよ」
環は壁際に立てかけてあったギターを一本取った。ケースに入っていない、使い込まれたやつだ。座るでもなく、立ったまま、ぽろんと軽く弦を鳴らす。
箱で聞く音より、ずっと小さい。
でもその小ささのほうが、かえって耳に残る。
「それ、ライブで使うやつ?」
「いや、違う」
短く言って、また一音鳴らす。
「家にあったやつ。古い」
それ以上は言わなかった。
でも、何となくそれ以上聞かないほうがいい気がして、流奈も黙った。
洗濯機の回る音と、水槽の機械音と、ギターの短い音。
それだけで部屋が埋まる。
会話を無理に繋がなくていいのが、少し変だった。
「……変な部屋」
「褒めてる?」
「別に」
「またそれかよ」
環が笑う。
さっき銭湯の前で吹いた時みたいな大きい笑いではない。もっと小さくて、欲でも値踏みでもなく、ただ本当に少し可笑しくて笑っているだけの顔だ。
流奈はそこに少しだけ困る。
こういう時、普通は何かある。
助けたなら礼がいる。
服を貸したなら借りができる。
部屋に入れたなら、その先がある。
なのに、何も進まない。
「……何も言わないんだ」
思わず口に出る。
「何を」
「別に」
「お前、別に多いな」
環はギターを膝の上で持ち直した。
「何か返せとか?」
その言葉に、流奈の指先が少しだけ固まる。
見透かされた気がして、少し腹が立つ。
でも図星でもあった。
「そういう顔してる」
環はそれだけ言って、また弦を鳴らした。
「いらねえよ。ジュースかけられたの、お前のせいじゃねえし」
「でも服」
「洗えば終わり」
「でも風呂」
「洗っただけ」
「……トランクス」
「そこはまあ、悪かった」
少しだけ笑いを混ぜて言う。
その謝り方が、余計に腹立たしいのに、本気で責める気にもなれなかった。
洗濯機が止まる。
環はギターを置いて、「行くか」とだけ言った。コインランドリーは本当にすぐ近くだった。湿った夜道を二人で歩き、乾燥機に服を放り込む。回り始める丸い窓の向こうで、自分の服がぐるぐる回るのを見ていると、何だか全部がひどく馬鹿みたいだった。
部屋へ戻る。
キャポは相変わらずゆっくり動いている。
時間が進んでいるのに、何も起きない。
それがいちばん気味が悪い。
気味が悪いのに、少しずつ気が抜ける。
抜けるのに、警戒までは抜けない。
流奈は丸椅子に座ったまま、キャポの動きを見ていた。
「また見たいです」
口に出してから、自分で少し驚いた。
恋とか好きとか、そういうのではなく、本当にただ、この変な魚をもう一回見てもいいと思っただけだった。
環は一瞬だけこっちを見て、それからすぐ水槽に視線を戻した。
「だろ」
ただ、それだけ言う。
乗ってこない。
変に嬉しがらない。
そこで約束にもしない。
その返し方がちょうどよくて、流奈は黙った。
乾燥が終わって、服を取りに行って、着替え直す頃には、もう夜はだいぶ深くなっていた。
帰る支度をしながら、流奈は何度も考える。
何で助けたの。
何で風呂屋。
何でトランクス。
何で笑うの。
何で何も要求しないの。
どれも、よくわからない。
わからないまま、玄関へ向かう。
「じゃあ」
環がドアのところで言う。
「気ぃつけて帰れよ」
「……うん」
それだけで終わりそうになって、流奈は一度だけ部屋の中を振り返った。
水槽の機械音がまだ鳴っている。
キャポの影が、ガラスの向こうでゆっくり動いた。
男の部屋、というより先に、その音のある場所として記憶に残る。
知らない男の部屋だったはずなのに。
また来る、なんて言うつもりはない。
でも、ここなら少しくらい黙っていても平気かもしれない、とは思った。
それだけが、妙に強く残った。
次回から土曜日に2~3話づつ更新します。




