第2話 眩しい世界
肩に当てていた氷は、少しずつ角が丸くなっていた。
スタッフの女の人がもう一度様子を見に来て、赤くなったところへ薄く薬を塗り、ガーゼを小さく貼ってくれた。
「このくらいなら大丈夫そう。ひりつく?」
「ちょっと」
「そりゃそうだよね。ごめんね、巻き込んじゃって」
「別に」
流奈がそう返すと、女の人は苦笑いした。
「総元も悪い子じゃないんだけどね。煙草だけは昔から雑」
その言い方が少しだけ身内っぽくて、流奈は曖昧に頷いた。
帰ろうと思えば帰れた。
薬を塗ってもらった時点で、たぶんもう十分だった。ここから先までいる理由はない。なのに立ち上がるタイミングがうまく見つからない。
入口のほうは開場した客でじわじわ埋まってきていたし、ステージの裏では誰かの声と機材を動かす音が重なっている。今ここで「やっぱり帰ります」と言えば、さっきの大輝かスタッフか、どちらかがきっともう一度気を遣う。
それが面倒だった。
面倒だから座っているだけ。
そう思うことにして、流奈はパイプ椅子の端に浅く腰かけた。膝の上には鞄。肩には氷。逃げるならすぐ逃げられる姿勢のまま、けれどまだ動かない。
箱の中は暗かった。外がまだ少し青いせいで余計にそう感じる。天井は低く、壁は黒く、ところどころに貼られたポスターの色だけが浮いて見えた。古い布と機材の匂い、煙草の残り香、誰かの整髪料。学校とも家とも違う匂いだった。
落ち着くわけじゃない。
でも、妙に息がしやすい。
客が一人、また一人と増えていく。流奈は自分がここにいる理由を持っていないのがばれないように、なるべく動かないでいた。楽しみに来た顔もできないし、関係者みたいな顔はもっとできない。だから壁際で小さくなっているのがいちばんましだった。
照明がひとつ落ちた。
ざわついていた空気が、少しだけ前へ寄る。
流奈は無意識に背筋を伸ばした。帰るなら今かもしれないと思ったのに、立ち上がる前に、奥でドラムが二度鳴った。
腹の底に来る音だった。
その次に、低く歪んだ音が重なる。さっき、箱の奥から聞こえた確かめるような一音とは違う。もっとはっきりした、始まる前の音だった。
客のざわめきが、すっと引く。
ステージに明かりが灯って、人が出てきた。
さっき入口の前で煙草を落としていた男が、その中にいた。
大輝はもう、謝っていた時の顔をしていなかった。
ギターを肩にかけて、足元を軽く見て、それから何気ない顔で立ち位置につく。その動きに無理がない。慣れているんだなと思う。こういう場所に立つことも、光を浴びることも、見られることも。
最初の曲が始まった瞬間、流奈は氷を持つ手に少し力を入れた。
大きい、と思った。
単に音が大きいというだけじゃない。前から押してくる。耳だけじゃなくて、胸のあたりに先にぶつかってくる感じがした。ドラムが床の下から響いて、ベースが身体の輪郭を震わせて、その上をギターが切っていく。
逃げ場がないのに、嫌じゃなかった。
むしろ、そこに押し込まれているうちだけ、自分の中のいらないことが少し静かになる気がした。
Cliveは、大輝だけのバンドではなかった。
金髪のボーカルが客席を明るく煽り、銀髪のドラムが奥で音を締める。赤いメッシュの入った長い髪のベースは、派手に動かないのに曲の底を支えていた。
それでも流奈の耳には、大輝のギターだけがやけに前へ出て聞こえた。
ボーカルが真ん中にいるのに、その横で鳴る音が曲を前へ引っ張っていく。軽そうに見えた男が、音になると急に輪郭を持つ。さっきまで入口の前で謝っていたのと同じ人間なのに、別に見えた。
眩しい、と思った。
顔がいいとか、格好いいとか、そういう意味じゃない。
あんなふうに音を鳴らせることが。
人の前で、あんなふうに自分の熱を出していいことが。
間違えても、照れても、萎縮してもいないように見えることが。
流奈には、その全部が遠かった。
学校で当てられて声を出すだけでも、変に喉が乾くことがある。何を言っても、どう見られるかを先に考える。目立たないようにして、面倒を避けて、その場をやり過ごす癖ばかりが先に出る。
なのに、ステージの上の人間は逆だった。
見られるほど熱くなっていくみたいに見える。
自分にはできない、と思う。
それがすぐにわかった。
だから、目が離せなかった。
二曲目に入るころには、流奈はもう帰ることを考えていなかった。膝の上の鞄を抱えたまま、ただステージを見ていた。客が手を上げるタイミングも、体を揺らす感じもわからない。わからないまま一人だけ置いていかれている気がするのに、不思議と居づらさは最初ほど強くなかった。
音があるあいだは、立ち上がる理由のほうが見つからない。
客席の少し前で、女の子が隣の友達に何か耳打ちして笑っている。別のところでは男がTシャツの裾で汗を拭いていた。箱の空気が少しずつ温度を上げていく。
後ろのほうでは、別の出演者らしい男たちが壁際で見ていた。誰かの肩にタオルが掛かっていて、別の誰かはドリンクのカップを持っている。仲間なのか、ライバルなのか、よくわからない顔でステージを見ていた。
その中に、さっき入口の前にいた、目つきの悪い、感じの悪いギターもいた。
腕を組んで、壁にもたれたまま見ている。乗っているようにも見えないのに、ちゃんと最後まで見ているのが妙に引っかかった。
三曲目の途中で、大輝が少し前へ出た。ギターのフレーズが変わる。客席の空気がその瞬間だけふっと上がったのがわかった。歓声というほど大きくはない。でも、待っていた人たちだけが共有している小さな熱みたいなものがあった。
いいな、と思った。
羨ましいに近かった。
恋ではない。
その手前ですらなかった。ただ、自分にないものを、自分では届かない形で持っている人を見た時の感じだ。
眩しい人だな、と思う。
音の中に立っていられる人。
こっちは、せいぜい外から拾うことしかできないのに。
曲が終わるたびに拍手が起き、次の音が重なるたび、また空気が前へ動く。流奈は最初から最後まで、客にも関係者にもなれないまま椅子に座っていた。でも、そのどっちでもない場所から見ていても、ちゃんと何かが伝わってくるのが不思議だった。
最後の曲が終わる。
鳴っていた音が切れたあと、箱の中にはしばらく拍手と歓声だけが残った。ステージの上の人たちが軽く頭を下げて引っ込んでいく。明かりが少し変わる。
それでやっと、終わったんだとわかった。
流奈はすぐには立てなかった。
動き方がわからない、がいちばん近い。
ここで帰ればいいだけなのに、耳の奥にまだ音が残っている。外へ出たら、またいつもの夜になる。コンビニの光、駅前のざわめき、帰るには早い時間。そういう現実が、急に近くなるのが少し惜しかった。
惜しい、という感覚も珍しかった。
「お、いた」
声をかけられて顔を上げると、大輝がタオルを首にかけたままこっちへ来た。ステージの上にいた時の熱の残りがまだ少し顔にある。けれどもう、入口の前で謝っていた兄ちゃんに戻りつつもあった。
「肩、どう?」
「大丈夫です」
「ほんと? よかった……いや、よくはねえけど」
自分で言って少し笑う。
流奈はその顔を見て、やっと同じ人だと実感した。音を出していた人と、煙草を落として慌てていた人が、ちゃんと一つに戻る。
「最後までいたんだ」
「……帰るタイミングなくて」
「わかる。あのへん座るとそうなるよな」
わかるのか、と思ったけれど、口には出さなかった。
大輝はタオルで首を拭きながら、「でもありがと」と言った。
「事故みたいな流れだったのに、ちゃんと見てくれて」
「いえ」
「どうだった?」
まっすぐ聞かれて、流奈は少し黙った。
上手かったです、でも違う気がする。楽しかったです、も違う。言葉がうまく見つからないまま、最後にいちばん簡単なものだけが残った。
「……凄かったです」
大輝が一瞬だけ目を丸くする。
それから、少し嬉しそうに笑った。
「うわ、嬉しい。今日それ言われんの、なんか妙にくるな」
軽く返しているのに、受け取り方は変にまっすぐだった。
「いや、ほんと。ありがと」
流奈は視線を少し逸らした。真正面から喜ばれると、どこに顔を置いていいかわからなくなる。
「橋本さん、Cliveのファン1号だ」
「……何ですか、それ」
「Clive初ライブで、初めて“凄い”って言ってくれた子」
大輝は当然みたいに言う。
「それ、一号でよくない?」
「勝手……」
「いいのいいの。初ライブの初すごい、結構でかいから」
その時、近くを通った誰かが「何それ」と笑った。
「もうファンついたのかよ」
振り向くと、さっき壁際で見ていた連中のうちの一人が、ケースを持ったままこっちを見ていた。別の男も「しかも一号」と面白がるみたいに言う。
「ついた。公認」
大輝が得意げに頷く。
「公認って何だよ」と別の声がして、少しだけ笑いが広がった。
「煙草ぶつけたくせに何言ってんだよ」
低い声が混じる。
見ると、あの感じの悪いギターが、呆れたみたいな顔でこっちを見ていた。
「それはほんとそう」
大輝があっさり認めて、また流奈の方を見る。
「でも、初ライブの一号は一号だから」
冗談みたいな言い方なのに、その場にいた何人かがもう普通に受け入れている感じがした。
流奈は少しだけ居心地が悪くなって、鞄の紐を握り直した。
嫌というほどではない。けれど、こうして急にどこかの人数に数えられるのには慣れていなかった。
“煙草をぶつけられた知らない子”で終わらなかったことだけが、妙に残った。
大輝は背後を振り返って、スタッフに何か呼ばれて「あ、そうだ」とまた流奈へ顔を戻した。
「このあと打ち上げあるんだけど、来る?」
流奈は反射で首を横に振った。
「いや、いいです」
「ほんとに? 飯くらい」
「大丈夫」
少しでも輪の中へ入ったら、そのぶん帰る時に重くなる気がした。知らない人に混ざって、ご飯を食べて、またうまく笑って、適当に話を合わせて。そういうのを考えるだけで疲れる。
大輝は少しだけ残念そうな顔をしたが、無理には押さなかった。
「そっか。じゃあ……またどっかで会ったらよろしく、ファン1号」
「それやめてください」
「やだ」
軽く笑って、大輝はまた呼ばれた方へ戻っていく。
流奈はその背中を見送ってから、小さく息を吐いた。
ここにいる理由は、もう本当はない。
でも帰るにはまだ早かった。
箱の中にいると、誰かがまた気を遣いそうで面倒だった。だから流奈は、客の流れに混ざるみたいにして外へ出た。
夜気は思ったより冷たかった。
火傷のところが少しひりつく。貼ってもらったガーゼの端を指で軽く押さえて、流奈はライブハウスの壁際に立った。
駅前の明かりをぼんやり見ていると、扉が開いて、また誰かが出てきた。
さっきの感じの悪いギターだった。
手に煙草は持っていたが、火はつけないままポケットを探っている。流奈に気づくと、一瞬だけ視線が肩へ落ちた。
「ファン1号、帰んねえんだ」
言い方は少し馬鹿にしているみたいなのに、嫌味っぽくはなかった。
「その呼び方、ほんとに嫌なんですけど」
「大輝が勝手につけたんだろ」
「そうですけど」
「じゃあ大輝に言えよ」
少し間があってから、流奈は「感じ悪いですね」と言った。
男はそこでほんの少しだけ口元を動かした。
「よく言われる」
その時、中から別の男の声が飛んだ。
「環ー、帰んねえの? キャポさん待ってんだろ」
「うるせえ」
環は面倒そうに返す。
「おまえが遅いだけだろ」
その男は適当に手を振って、また中へ戻っていく。
流奈はその背中を見送ってから、つい口を開いた。
「……キャポさん?」
環がこっちを見る。
「人じゃない」
「じゃあ何ですか」
「魚」
「魚にさん付けするんですか」
「して悪いかよ」
流奈は少しだけ黙ってから、「別に」と返した。
環はそこでやっと少しだけ笑った。笑ったというほどでもない、ほんの一瞬口元が緩んだ程度だった。
「肺魚」
「はいぎょ?」
「魚。だけど、空気吸うやつ」
「魚なのに?」
「魚なのに」
それだけではよくわからない顔をしたのが伝わったのか、環は煙草をポケットへ戻してから続けた。
「水の中だけじゃ足りなくて、たまに上がって息する。変なやつ」
「変なの」
「変だよ。見た目もそんな可愛くねえし」
「名前、何でキャポさんなんですか」
「空気吸う時、たまにそんな感じの音するから」
「キャポって?」
「そう。キャポ、って」
流奈は少しだけ想像してみた。魚が水面へ上がって、口を出して、変な音を立てるところ。可愛いのか、間抜けなのか、よくわからない。
「見たことないです、そんなの」
「普通あんま見ねえし」
「どんな魚なんですか」
「細長い。ぬるっとしてる。顔はちょっと偉そう」
「偉そうな魚」
「むかつく時ある」
「魚に」
「魚に」
環はそこで少しだけ視線を宙へやった。
「ほんとは別のやつ飼いたかったんだけどな」
「別の?」
「フォルステリ」
「なにそれ」
「肺魚の種類。もっとでかくなるやつ」
「じゃあ無理じゃないですか」
「無理。部屋ごと負ける」
「何それ」
「だからキャポさん」
「妥協じゃん」
「妥協って言うなよ。失礼だろ。」
そう言いながらも、少しだけ笑っていた。
「でも、ああいうのが一番変で好きなんだよ」
流奈はその言葉をすぐには返さなかった。
好きな魚の話をしているだけのはずなのに、少しだけ変な言い方だと思ったからだ。
けれど、そこを聞き返すほどでもなくて、流奈はただ短く頷いた。
「変なの」
「変だよ。見た目もそんな可愛くねえし」
「じゃあ、何で飼ってるんですか」
「何でだろうな」
環は自分でも少し考えるみたいに黙ってから、短く言った。
「死ににくそうだったから」
流奈はその言葉をすぐには飲み込めなかった。
冗談みたいでもあり、そうでもないみたいでもある。軽く言ったのに、変なところだけ残る言い方だった。
そこから先は、途切れずに続いた。
餌の話。水槽の大きさの話。肺魚は思ったより動かないこと。なのに、急に空気を吸いに上がること。環の部屋では夜になると水の音がずっとしていること。キャポさんは人に懐くわけじゃないのに、近くを通るとたまに上を向くこと。
環は、さっきまで箱の中で見た時より、ずっと普通の声で喋った。
口は悪いし、言い方もぶっきらぼうなのに、好きなものの話だけは途中で切れない。聞かれてもいないことまで少しずつ足されていく。
流奈は相槌を打ちながら、ときどき短く訊いた。
「夜も起きてるんですか」
「いる」
「怖くないんですか」
「何が」
「暗い部屋で、魚だけいるの」
「魚だけじゃねえし」
「でも喋らないじゃないですか」
「喋んねえな」
そう言って、環はまた少しだけ笑った。
その笑い方は、大輝みたいに明るく開いた感じじゃない。もっと小さい。でも、無理がない。
気づけば、ライブハウスの前の人影はだいぶ減っていた。
機材車が一台いなくなり、コンビニの袋を提げた誰かが駅の方へ歩いていく。夜は少しずつ薄くなっていくのに、流奈はまだ帰る気になれなかった。
魚の話をしているだけだった。
それなのに、時間の潰し方としては今まででいちばんましな気がした。
環は途中で一度だけ、「帰んなくて平気なの」と聞いた。
流奈が少し黙ると、「ああ、いいや」とすぐに引いた。
「別に、答えなくて」
それ以上踏み込まれなかったことに、流奈は少しだけ気が緩んだ。
聞かないでくれる大人なんて、あまりいない。
夜が長くなると、話すことも少しずつ雑になっていく。
「肺魚って、ずっと水にいるわけじゃないんですね」
「種類による。キャポさんは一応ずっと水だけど、上で息はする」
「変なの」
「だからそう言ってんだろ」
「でもちょっと見たいです」
言ってから、自分で少し驚いた。
見たい、なんて、今日初めて会った相手に向かって言うつもりじゃなかった。
環も少しだけ目を上げたが、そこで変に乗ってはこなかった。
「だろ」
ただ、それだけ言った。
その返し方が妙にちょうどよくて、流奈は黙った。
空が少し白み始める。
始発の時間が近いのか、駅のほうの空気が夜明け前の硬さに変わっていく。ライブハウスの前に落ちていた紙コップが、風で少し転がった。
「朝じゃん」
環が言う。
流奈は見上げた空を、また見た。
本当に朝だった。
帰れない夜を潰していただけのはずなのに、気づいたら朝になっている。しかも、知らない男と、魚の話だけをして。
変なの、と思う。
でも嫌ではなかった。
「じゃ」
環が壁から背を離す。
「気ぃつけて帰れよ」
「……はい」
それだけで終わりそうになって、流奈は小さく呼び止めた。
「あの」
「ん?」
「許山さんって、さっき呼ばれてましたよね」
「ああ」
「ウチ、橋本です」
もう箱の中で言っているのに、なぜかもう一度言いたくなった。
環はほんの一瞬だけ黙ってから、頷く。
「知ってる。ファン1号だろ」
流奈は少しだけ顔をしかめた。
「それ、嫌です」
「でももう通るだろ、その名前」
環は面倒そうに言って、それからほんの少しだけ目を細めた。
「橋本」
呼び直されたのは、それが初めてだった。
「じゃあな」
始発前の街は、まだ人が少ない。
流奈は鞄の肩紐を持ち直して、駅の方へ歩き出す。背中に視線が残っている感じは、すぐに消えた。
振り返らなかった。
ただ、肺魚という変な魚のことだけが、頭のどこかに残っていた。
水の中だけじゃ足りなくて、たまに上へ上がって息をする魚。
そんなのがいるんだ、と流奈は思う。
夜をひとつ潰しただけなのに、帰る前の空気が少しだけ昨日と違っていた。
ネオケラトドゥス・フォルステリ
通称「ネオケラ」なんですが、語呂の良さから「フォルステリ」を採用しています。
キャポさんはプロトプテルス・アンフィビウス と言う種類です。
ちなみにスタッフ女性の名前は「よーこ」さん。




