第1話 帰れない夕方
連載開始しました。
現代より少し前の話で、全29話です。
全話投稿済みです。
よろしくお願いします。
窓を少し開けていても、外の空気はもうぬるかった。
初夏だった。制服の半袖が出始めて、教室では「もう暑い」と騒ぐ声が増えてきたのに、まだ夏休みの話を本気でするには早い時期だ。廊下に貼られた紙の年間予定表の終業式はずっと先にあって、七月はまだ遠い。
みんなが同じようにそれを待っている顔をしているのを見るたび、流奈は少しだけ変な気分になる。
休みになれば何かが変わる子たちと、自分はたぶん、最初から同じ場所にいない。
家に帰るのは嫌いだ。
いつも、びくびくしながらそっとドアを開けないといけない。外から見て、なんとなく今日はまだ帰ってなさそうだと思う日もある。けれど、それはただのなんとなくでしかない。灯りが少ないとか、車がないとか、そういうので勝手に少し安心して、結局中にいたこともある。
だから、ドアノブを回す前に、横の郵便受けを少しだけ開けて中を見る癖がついた。
いつからそうするようになったのか、もう覚えていない。
耳を寄せるほど露骨にはできない。ただ、息を止めて、中の音を拾う。
テレビの音はしなかった。代わりに、包丁がまな板を打つ音が聞こえる。母は帰っているのだろう。おじさんがいる日は、たいていテレビがついている。母が見ていなくても、おじさんはつける。だから、今はまだいない。
それを確かめてから、流奈はドアを開けた。
開けた瞬間に、夕飯の匂いがした。煮物の甘い匂いと、味噌汁の湯気っぽい湿り気。普通の家みたいな匂いだった。だから余計に嫌だった。
「おかえり」
母が台所から顔を出した。エプロンの端で手を拭きながら、少しだけほっとした顔をする。
「うん」
流奈は靴を脱いで、そのまま自分の部屋へ向かった。返事はした。それで十分だと思った。
「流奈、ご飯どうする?」
「いらない。あとでなんか食べる」
「また外?」
「うん」
階段を上がりながら、壁の時計の位置だけを見る。針は六時を少し回ったところだった。おじさんが帰る日は、もっと遅いこともある。けれど、絶対ではない。
絶対じゃない家には、長くいられない。
部屋に入ると、学校帰りの空気がそのまま溜まっていた。机の端には配られたままのプリント、透明のケースに入ったMD、椅子の背には朝脱いだカーディガン。壁の薄いところからは、下の居間で鳴っているテレビの音と、台所の包丁の音がぼんやり上がってくる。
流奈は制服のスカートに一瞬だけ触れ、それから手を離した。今の時間にそれを着て外にいると面倒だ。補導でもされれば、家に連絡がいく。問い詰められる。説明を求められる。だから制服は、学校と家の往復のときだけでいい。
ベッドの下からボストンバッグを引っ張り出し、着替えを二枚だけ押し込む。洗面台で化粧水の残りを見て、なくなりかけのリップも入れた。今すぐ出るわけじゃない。けれど、手ぶらで帰ってくる日を減らしたかった。少しずつ、抜けるための形を作っておきたかった。
鞄の内ポケットを指先で確かめる。封筒の角が、布越しに触れた。
家には置けない。
学費だってちゃんと払えない月がある。切羽詰まったお金は、悪気がなくても消えていく。だからこの金だけは、机にも引き出しにも置かない。持って歩くか、金が増えた日は駅のコインロッカーに鞄ごと押し込む。
まだ足りない。
見なくてもわかっていた。
「流奈」
階下から呼ばれて、流奈は肩を落とした。行かないと、また心配した顔をされる。
階段を下りると、母が食卓の端に立っていた。二人分の湯呑みが出ている。父親の席だった場所には、もう一つ大きい茶碗が置かれていた。
「お茶くらい飲んでいけば?」
「うん」
断るのも面倒で、流奈は椅子に座った。湯呑みを持つと、じわっと熱が掌に移る。
母は向かいに座らず、少し離れた場所から流奈を見ていた。何か言いたい時の顔だった。言葉を選んでるふりをして、結局いつも、こっちが飲み込める形にして渡してくる。
「最近、ちゃんと寝てる?」
「まあ」
「学校は」
「行ってる」
嘘ではない。全部行っているわけじゃないだけで。
「ねえ、流奈」
来る、と思った。
母は視線をテーブルの木目に落としたまま、小さく言った。
「あの人のこと、お義父さんって呼んであげたら、変わると思うんだけど」
湯呑みの縁が、少しだけ鳴った。
流奈はすぐに顔を上げなかった。上げたら何か出る気がした。怒りでも、泣きたさでもなく、もっと面倒な何かが。
呼べるなら、呼んであげたい。
それで母が少しでも楽になるなら、そのくらいで済むなら、とっくにやっている。けれどそこだけは、どうしても無理だった。あれを飲み込んで呼んだら、自分の中で痛かったことまで、たいしたことじゃなかったみたいになる。
それに、まただ、と思う。
また母は、ウチが何を思っているかより、自分が回る形を選ぶ。
呼び方ひとつで変わるなら、とっくに全部終わっている。そんな簡単な話なら、ここまで帰りたくない家にはなっていない。
「……そう」
結局、それだけ言った。
母は流奈の反応の薄さに少し困ったように笑った。善意の顔だった。悪気のない人の顔だ。
それが一番、苦しかった。
「無理に仲良くしろって言ってるわけじゃないの。ただ、やっぱり家族なんだから」
流奈は湯呑みを置いた。
「もう行く」
「え、ちょっと。お茶まだ」
「あとで帰るし」
本当は、帰るつもりなんてない。ただ、そう言っておいたほうが話が早い。
母は立ち上がりかけて、結局その場で止まった。「暗くなるから気をつけてね」とだけ言う。
流奈は小さく頷いて、玄関へ向かった。
靴を履く前に、もう一度時計を見る。六時十二分。
まだ大丈夫。
そう思いながら出ていく自分が、もうずっと普通じゃないことも知っていた。
外へ出ると、空気が軽かった。日が落ちきる前の、ぬるく冷めた風が頬をなでる。
流奈は歩きながら、髪を耳にかけた。ショートに近いボブは、うつむくとすぐ前へ落ちてくる。制服ではなく、黒い半袖に薄いカーキのシャツを羽織り、膝の出ない丈のスカートを穿いている。高校生らしさを消したいわけじゃない。ただ、制服のまま夜に外を歩いていると、話が面倒になる。補導、家への電話、何してるの、なんで、どこにいたの。どれもいらない。
家を出るたび、少しだけ肩の力が抜ける。なのに完全には楽にならない。また戻る場所が、あそこしかないからだ。
駅前まで出る途中、コンビニのガラスに自分の姿が映った。年相応に見えないわけじゃない。けれど制服よりはましだった。ぱっと見で学生だと決めつけられにくい。それで十分だった。
商店街を抜け、少し裏に入ったところの小さな公園へ向かう。ベンチは二つ。片方は酔っ払いが寝ていることが多いから、流奈はいつも奥のほうを使う。今日は空いていた。
座って、鞄から茶封筒を出す。
角の擦れた、何の変哲もない封筒だった。中に入っているのは、通帳じゃなくて現金。銀行に置いておくのが怖いわけじゃない。家に置いておくのも十分怖い。でも、通帳が見つかるよりは、封筒のほうがまだ誤魔化しがきく。まとまった額になった日はロッカーに隠すけれど、今日は持っていた。
流奈は中身を膝の上に出した。
一万円札が八枚。五千円札が三枚。千円札が十三枚。小さく折ったメモには、前に自分で書いた数字が残っている。
八万。
九万五千。
十一万二千。
そこから少しずつ増やした。遊ぶ金じゃない。服でもない。どこかへ行くための金だった。
部屋を借りるなら初期費用がいる。安いところでも、前家賃と敷金みたいなものを取られるかもしれない。家具なんて要らないけど、布団は要る。食費もかかる。バイトを探す間の金もいる。最低でも三十万。できれば四十万。そこまであれば、息継ぎくらいはできる。
今あるのは、十万八千円と、少し。
全然足りない。
わかっていたことなのに、数えるたびに、金の少なさが腹にくる。
「……まだ無理」
誰に言うでもなく、流奈は紙幣を揃えた。
これだけあっても、家は出られない。逆に言えば、これだけしかなくても、ここまで来た。中二の終わりくらいから、ちまちま貯めた。小遣いの残り。昼を抜いた分。頼まれごとのお釣り。時々、もらった金。
最初は、いつかのためだった。
あの家から出られる日が来るかもしれないと思っていた。来なくても、持っていたほうがましだった。何もないよりは、まし。どこにも行けなくても、ゼロじゃないほうがまだ息ができる。
でも今は、いつかじゃ間に合わない気がしている。
帰りたくない、じゃなくて、帰れない夜を先にどうにかするための金がいる。あそこに戻る時間を少しでも減らすための金。今日をやり過ごして、明日も同じ顔をして学校へ行くための金。
そう考えると、十万八千円は急に頼りなく見えた。
封筒を鞄に戻し、空を見た。だいぶ暗くなってきている。家へ戻るには早い。戻ったところで、また時間を潰して出るだけだ。
どうせ同じ夜だ。
だったら、人の多い方へ行ったほうがましだった。
駅前の大通りへ戻ると、ライブハウスの前に人が溜まり始めていた。壁に貼られたフライヤーが風で少しめくれている。知らないバンド名が並び、その中に英字のロゴが混じっていた。開場前なのか、煙草を吸っている男たちが入口の脇に固まっている。
流奈はその前を、ただ通り過ぎるつもりだった。
別に音楽が嫌いなわけじゃない。でも、自分が入る場所だとも思っていない。外に漏れてくる低い音を、少し遠くから聞くくらいでよかった。
ちょうど前を横切った時だった。
箱から出てきた女の子が、後ろを振り向いたまま誰かの肩にぶつかった。押し出されるみたいに流奈の腕へ当たり、そのまま体勢が崩れる。踏みとどまる前に、目の前にいた男の胸へ肩からぶつかった。
火のついた煙草を持っていた。
指のあいだから滑った火が、左肩口の布へ落ちる。払うより先に、熱が一点で食い込んだ。
「あっ」
布が焦げる匂いがした。
熱い、というより、細い針を押し込まれたみたいな痛みが一拍遅れて走る。思わず肩を押さえて布を離すと、シャツの肩口に丸く焦げ穴が空いていた。縁が黒く縮れて、その奥の皮膚は赤いだけじゃなく、中心だけ少し強く焼けたみたいな色をしている。
「やっべ」
すぐ近くで男の声がした。
振り向くと、煙草を持っていた本人らしい男が目を見開いていた。派手すぎないのに目立つ顔だった。茶色がかった髪、慌てた目、慣れてる感じの服装。軽そうなのに、今はちゃんと焦っているのがわかる。
「ごめん、当たった? っていうか、穴空いてるじゃん。やば、ほんとごめん」
「……平気」
反射でそう言ったけれど、ひりつきは思ったより強かった。布越しじゃなく、直接皮膚に熱が入った感じが残っている。
「平気じゃねえだろ。見せて」
距離の詰め方が速くて、流奈は一歩引いた。
触られる、と思ったのは一瞬だった。実際にはまだ手は伸びてきていないのに、身体のほうが先に引いていた。
こういう時は、痛みより先に考える。どこまで騒ぎになるか。何を返せば終わるか。ここで面倒を大きくしないで済むか。
けれど男は触れてこなかった。代わりに、ライブハウスのドアの方へ「氷ある?」「薬箱! 火傷!」と大きめの声を飛ばす。
「いや、大丈夫です」
流奈はすぐそう言った。こういう時、先に平気と言う癖がある。本当に平気かどうかは別として、そう言ったほうが早く終わるからだ。
けれど男は納得しなかった。
「いや、オレの煙草だし。大丈夫じゃないだろ。服まで駄目にしてるし」
中からスタッフらしい女の人が顔を出して、「どうしたの」と眉をひそめる。事情を聞くと、すぐに「とりあえず中入って」と流奈に言った。
「いいです、ほんとに」
「いやいや、外で氷当てるのも変だし。ちょっと見せて。ほら、火傷してるじゃん」
断る隙もなく、肩を気にする視線だけが集まる。大騒ぎってほどじゃない。でも、このまま立ち去るには少し面倒な空気になっていた。
流奈は小さく息を吐いた。
こういう親切にも、たまに値段がある。あとで何かを返す流れになることもある。けれど今ここで意地を張って長引かせるよりは、少し乗って、早めに切ったほうがましな時もある。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
「ほんとごめん」
男が頭を掻きながら道を開ける。さっきまでの軽い雰囲気とは違って、本気で申し訳なさそうなのが少し意外だった。
ライブハウスの中は、外より暗くて、ひんやりしていた。機材の匂いと、少し古い布の匂いが混じっている。壁に貼られたポスターや、雑多に積まれたケースが目に入る。知らない場所なのに、学校とも家とも全然違う空気で、それだけで少し現実が遠のく。
「こっち座って」
パイプ椅子に座らされて、流奈は肩のシャツを少しずらした。焦げた布が肌に貼りつきかけていて、離すとひりっとした。丸く赤くなった皮膚の中央だけ、少し色が強い。
「うわ、これ痛かったでしょ」
スタッフの女の人が眉をひそめる。「服、くっついてなくてよかった」と言いながら、氷をタオルに包んで渡してきた。
「冷やしとき。これ、跡残るかもしれないし」
じん、とした冷たさが沁みる。
さっきの男は、少し離れたところでまだ気にした顔をしていた。
「ほんとごめん。オレ、総元。大輝」
いきなり名乗られて、流奈は一瞬だけ目を上げた。
「……橋本」
「橋本さん。マジでごめん。服まで駄目にした」
軽そうなのに、謝る時だけ変にまっすぐだった。
「別に」
流奈はそれだけ返した。
別に、は便利だ。許してもいないし、責めてもいない。そこに置いておけば、だいたいの会話は先へ進む。
謝られて、そこで気が楽になるほど単純でもない。ただ、こっちが平気と言ったからってそのまま流す男よりは、少しましだった。
大輝はまだ何か言いたそうにしていたが、奥から「そろそろ音出し!」と呼ばれて顔を向けた。
「あ、やべ」
それからまた流奈の方を見る。
「終わるまでそこいられる? ほんとすぐ手当て済ませるし」
終わるまで。
その言い方で、流奈は初めて、ここがただの店じゃなくて、これから何か始まる場所なんだと気づいた。
客の気配が少しずつ増えている。外のざわめきも、壁越しに近くなっていた。
帰るタイミングを、変な形で失ったなと思う。
「……たぶん」
「すぐ戻る」
大輝はそう言って奥へ消えた。
流奈は氷を肩に当てたまま、椅子に浅く座り直す。帰れない家から出てきて、帰るつもりもない街を歩いて、気づけば知らない箱の中にいる。
予定外ばかりだった。
でも、家にいるよりは少し息がしやすかった。
安心とは違う。ただ、ここではまだ、誰の機嫌を先に読まなくてもいい気がした。
暗い箱の奥から、ギターの音がひとつ鳴る。短い、確かめるみたいな音だった。
流奈は顔を上げた。
まだ帰れずにいる。
ただそれだけの夕方が、少しだけ違う夜に変わり始めていた。




