第10話 来ない夜
流奈が十五歳だと知ってから、環は目に見えて変わったわけじゃなかった。
怒鳴らないし、説教もしない。流奈が部屋へ来れば、前と同じように「開いてる」と言うし、キャポさんを見ている流奈にちょっかいを出して、うるさいと返されれば少し笑う。
ただ、細かいところだけが変わった。
部屋へ入ると、前より先に水を出す。キャポさんを見る前に「飯、食った?」と聞く。帰ると言えば、駅前で時間を潰すくらいならここにいろ、みたいな顔をする。
そういうのが増えた。
その夜も、流奈はいつものみたいな顔で部屋へ来た。
ノックをすると、少ししてから「開いてる」と声がする。ドアを開けると、ぬるい部屋の空気と、水槽の機械音が先に触れた。窓は少しだけ開いていて、初夏の湿った風が薄く入っている。
「いた」
流奈がそう言うと、環はベッドに背中を預けたまま少しだけ口を曲げた。
「そりゃいるだろ」
「キャポさん」
「オレじゃねえのかよ」
「見ればわかるし」
「魚も見りゃわかるわ」
そのやり取りに、流奈はほんの少しだけ口元を緩める。
部屋の中はいつも通りだった。テーブルの端に灰皿。床に置きっぱなしのギターケース。冷蔵庫の上の雑誌。壁際の水槽の中で、キャポさんがぬるっと動く。
流奈は冷蔵庫から水を取って、丸椅子に座った。
すぐに環の声が飛ぶ。
「飯、食った?」
「まだ」
「何で」
「今来たし」
「コンビニ寄れよ」
「寄るほどでもなかった」
そう答えると、環は露骨に嫌そうな顔をした。舌打ちまではしないが、喉の奥で何かを飲み込んだみたいな顔だった。
テーブルの上には、いつの間にか買ってきたらしいおにぎりと小さい紙パックの味噌汁が置いてある。
「食え」
「いらない」
「いらなくねえだろ」
「環が食べれば」
「オレは別にある」
前なら、そこで軽口にして終わっていた。
今は終わらない。
流奈が断っても、環は片づけない。食べろとはそれ以上言わないくせに、そこに当然みたいに残しておく。帰るまで手をつけなかったら、最後に「持ってけ」と言う。
そういうのが増えた。
「学校は」
水をひと口飲んだところで、また来る。
「行った」
「ほんとに」
「何で疑うの」
「疑うだろ」
「何で」
流奈が少しだけ眉を寄せると、環はすぐには答えない。答えないまま、ギターの弦を指先で撫でる。鳴らすわけではなく、ただ音にもならない触れ方をするだけだ。
「……別に」
「それ便利だね」
「お前に言われたくねえ」
そう返しても、目だけは前より真面目だった。
流奈はキャポさんの水槽を見た。泡の音はいつも通りで、部屋の空気も、見た目だけなら何も変わらない。けれど、見られ方だけが違う。
前は放っておかれていた。いい意味でも悪い意味でも。
今は違う。環が、こっちのほうを気にしているのがわかる。キャポさんを見る横顔より、ペットボトルを持つ手の細さより、何より流奈がここに来る前と後の時間を勝手に気にし始めている。
それが少しだけ、息苦しい。
ありがたくないわけではない。でも、ありがたいと認めるのも違う気がした。
男はみんな大差ないと思っている。
優しいか、雑か、露骨かの違いだけで、結局はこっちから何かを取りたがる。
そう思っていたほうが楽だった。
なのに環だけは、ときどきその決め方の外へ出る。
それが一番、面倒だった。
「今日、遅かったな」
また言う。
「それ前も聞いた」
「今日は今日だろ」
「毎日報告しなきゃいけない感じ?」
「そういう言い方すんなよ」
「じゃあどういう言い方」
環はそこでまた口をつぐむ。
言葉が足りない顔をしている。でも、足りないままこっちへ来るのが、流奈にはあまり好きじゃなかった。
黙っていられるから来ているのに。話したくない日に、話さなくて済むから、この部屋へ来るのに。
最近の環は、その黙り方を少しずつ壊してくる。
流奈はペットボトルを置いた。
「今日、帰る」
「早くね?」
「うん」
「何で」
「気分」
それだけ言って立ち上がると、環はそれ以上は止めなかった。ただ、玄関までついてきて、靴を履く流奈を少し低い位置から見ていた。
「また来る?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
流奈は少しだけ考えた。
「静かだし」
環は一瞬だけ変な顔をした。
たぶん、もっと別の言い方を期待していたのだろうと思う。でも、流奈にとってはいちばん近かった。
この部屋は静かだった。黙っていてもいい。少し寝ても怒られない。朝までいても、追い出されない。
それ以上の名前を、まだつける気にはなれなかった。
◇
次に環が流奈を見つけたのは、部屋ではなかった。
駅前の広場の端。植え込みの縁に腰をかけて、流奈はコンビニの袋を膝に乗せていた。中には小さい菓子パンと紙パックのジュースが見える。
声をかけた瞬間、流奈はほんの少しだけ嫌そうな顔をした。
「……何でいるの」
「こっちの台詞だろ」
「駅前なんだから、いても変じゃないし」
「お前は変だろ」
「何それ」
環は答えずに、その隣に立ったまま辺りを見る。人は多い。多いけれど、だから安全というわけでもない。改札から流れてきた人間が広場を横切って、コンビニの前では高校生みたいな男が笑っている。
流奈はそういうものに慣れている顔で、パンの袋を開けた。
「食うなら部屋で食えよ」
「別にここでもいいし」
「よくねえだろ」
「何で」
環はそこで少し苛立つ。
何で、ばかりだ。けれど、流奈からすればそうなのだろうとも思う。前までは、こっちが何を言おうと、流奈は好きなように時間を潰して、好きなタイミングで現れていた。そこに急に口を出し始めたのは自分のほうだ。
わかっている。わかっていても、ここに一人で座っているのを見ると口が勝手に動く。
「そのパンで終わりかよ」
「別にいいでしょ」
「よくねえって」
「何で」
「何でって……見てると腹立つ」
言ってから、自分でもひどい言い方だと思った。
流奈の手が止まる。パンを持ったまま、少し遅れて顔を上げる。
「……何それ」
「いや、そういう意味じゃ」
「どういう意味」
環は答えに詰まる。
放っておけない、とは思う。気になる、も本当だ。でもそれをそのまま言うと、また違う気がした。言葉がまとまらないまま、口だけが先へ出る。
「最初から来ればいいだろ」
流奈の顔から、少しだけ色が引く。
「何でそんなこと、あんたが決めるの」
「決めてねえよ。こっちのほうがましだって言ってんの」
「ましって何」
「ここより、って意味だろ」
流奈は環を見たまま、しばらく何も言わなかった。
環はその沈黙の意味を測り損ねる。怒るなら怒るでまだ楽だった。そうじゃなく、少しずつ体温が下がっていくみたいな黙り方をされると、何が地雷だったのか急にわからなくなる。
「……別に、今までだってこうしてたし」
やがて流奈が言う。
「今までと今は違うだろ」
「何が」
環はまた答えに詰まる。
違う、と言いたい。でも、何がどう違うのかを、今の環はきれいに言えない。ただ、十五歳だと知る前と後で、自分の見え方がまるで違ってしまっただけだ。
流奈はそこを容赦なく見る。
「急にそういうこと言い出すの、意味わかんない」
「意味わかんなくねえだろ」
「わかんないよ」
声は高くない。でも、少しずつ尖っていくのがわかる。
環はその場でしゃがみ込んで、流奈と同じ高さになった。
「お前さ」
「何」
「ちゃんと食えよ」
自分でも違うと思った。
違うのに、それしか出てこない。
流奈の顔が少し固まる。
「何それ」
「いや、だから」
「それ、今言うこと?」
環は舌打ちしたくなる。全部、自分に対してだ。
「……帰る」
流奈が立ち上がる。
「待てよ」
「何」
「いや」
また、何も言えない。
守りたい、も違う。放っておけない、も今はうまくはまらない。ただ、来ない日は気になって、見つけたら口を出して、口を出した結果、流奈がますます遠くなる。
流奈はしばらく環を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「今日は行かない」
「……部屋?」
「うん」
「何で」
「何でだと思うの」
その一言で、環は黙るしかなかった。
流奈は鞄を肩にかけ直して、そのまま駅のほうへ歩き出す。追うほどではない距離で、でも止められない距離で。
環はその背中を見送るしかなかった。
◇
それから二日、流奈は部屋に来なかった。
来ないかもしれない、とは思っていた。でも、本当に来ないと、部屋の静けさの質まで変わる。水槽の音だけが残って、ギターを触っていても妙に落ち着かない。
三日目の夜、ノックがした時、環はほっとした自分に少しだけ腹が立った。
「開いてる」
言うと、流奈はいつも通りの顔で入ってきた。いつも通りに見えるだけで、少し冷えているのがわかる顔だった。
「いた」
「そりゃいる」
流奈はキャポさんを見て、水を取って、丸椅子に座る。そこまでは前と同じだ。
でも、部屋の空気は前より薄い。
環はベッドの端に腰を下ろしたまま、少しだけ迷った。ここで何も言わなければ、たぶん今夜はこのまま終わる。けれど、それも違う気がした。
「この前」
口を開くと、流奈は視線だけを向けた。
「何」
「悪かった」
流奈はすぐには返さない。
「……どこが」
「言い方」
「ふうん」
「ふうん、で終わらすなよ」
「じゃあ何て言えばいいの」
環は息を吐いた。
「……お前がどうしてるか、気になるのは本当だよ」
「知ってる」
「でも、別に締めつけたいわけじゃねえ」
「知らない」
即答だった。
環はそこで少しだけ苛ついた。でも、苛つく資格がないことも同時にわかる。
「何でそうなるんだよ」
「何でって」
流奈はペットボトルを膝に置いたまま、環を見る。
「急に学校だとか、夜危ないとか、ここ来いとか言われたら、そう見えるけど」
「それは」
「何」
「……放っとけねえだけだよ」
言った瞬間、自分でも雑だと思った。
心配だ、よりもずっと未熟で、うまくない。
でもそのほうが、今の自分には近かった。
流奈の目が少しだけ変わる。
「放っとけないって、何」
「何って、そのままだろ」
「それ」
流奈は少しだけ呆れたみたいに息を漏らした。
「結局また、勝手に入ってきてるだけじゃん」
環は口をつぐむ。
「違うって言いたいなら、言えばいいじゃん」
言えなかった。
違うと言いたい。でも、何をもって違うのかがまだ言葉にならない。
流奈はそれを見て、視線を少し落とした。
「急にそういうふうになるの、困るんだよね」
平らな声だった。
「前みたいにしてよ」
「前って」
「放っといてくれる感じ」
少しだけ間があった。
「……何。保護者気取りなの?」
その一言が、思ったより深く刺さる。
環は何も返せなかった。
「ここ、黙ってられるから来てるのに」
流奈はそう言って、水をひと口飲んだ。
「そういうの増えるなら、今日はもういい」
しばらく行かない、とは言わない。
でも、今夜は切る。そういう言い方だった。
流奈は立ち上がって、玄関へ向かった。環はその背中を見ているしかない。
「流奈」
呼ぶと、一度だけ振り返る。
「何」
「……ごめん」
やっと出たのがそれだった。
流奈は少しだけ黙ってから、首を横に振る。
「謝られても、すぐは変わんないし」
それだけ言って、ドアを開けて出ていった。
階段を下りる足音が遠ざかる。部屋の中には、水槽の音だけが残る。
環はしばらくその場に立ったまま動けなかった。
放っといてくれる感じ。
ここ、黙ってられるから来てるのに。
どっちも耳に残る。残って、じわじわ痛む。
善意なら届くと思っていたわけじゃない。でも、気にしてると伝えれば少しは違うはずだと、どこかで勝手に思っていた。
違わなかった。
流奈にはまだ、自分は「勝手に入ってくる男」のままだ。
それを初めて、ちゃんと食らった。
環はベッドに腰を落として、顔を覆った。
「……最悪」
声に出しても、誰も聞いていない。
キャポさんだけが、水の中でいつも通りに浮いて、沈む。その変わらなさが、今はやけに遠かった。




