第28話 生活の中で
夕方の台所は、少しだけ狭い。
古い流しの前に立って、鍋の火加減を見て、米の様子を確かめて、そのあいだに果穂の声を拾っていると、流奈はいつも自分の身体が家じゅうへ薄く伸びているみたいな気がする。
「ママ、これなに」
振り返ると、果穂が戸棚の前でしゃがみ込んでいた。いつの間に引っ張り出したのか、古い缶の蓋を両手で持っている。
「触らないでって言った」
「まだあけてない」
「開ける前ならいいわけじゃない」
「なか、からっぽ?」
「たぶん」
果穂は缶を耳元で振って、それから少しだけ残念そうな顔をした。
「おかし、はいってない」
「入ってたら先に食べてる」
「なんで」
「食べたいから」
「わるい」
環が縁側のほうで小さく息を漏らした。笑ったのかどうか曖昧な音だった。
流奈は鍋をかき混ぜながら、そちらへ目をやる。
環は家の中へ上がっている。上がるようになった、というほうが近い。最初は戸口で止まり、次は縁側までで、その次に果穂が勝手に手を引いた。ここ最近ようやく、流奈もそれをいちいち止めなくなった。
止めなくなっただけで、完全に慣れたわけではない。
果穂が缶を置くと、今度は戸棚の中を覗き込んだ。
背伸びして、奥のほうを指でつつく。
「これも?」
「触らない」
流奈がすぐに言う。
果穂は口を尖らせながらも、少しだけ手を引いた。
その拍子に、奥に立てかけてあったケースが一枚、手前へずれる。
軽い音がした。
環の視線が、そこで止まる。
透明なケースが、奥に重なるように六枚入っている。
色の違うジャケット。
擦れた角。
指で触った跡。
通っていた頃の盤が三枚。手作りの温度が残る一枚。メジャーに上がってからの盤。そして、この前渡した最後の一枚。
どれも見覚えがあった。
「……それ」
思わず声が出る。
流奈は一瞬だけ視線を向けた。
「何」
「……Clive」
「そうだけど」
何でもないみたいに返す。
環はそのまま黙って、棚の中を見る。
順番は揃っていない。
でも、ちゃんと持っている。
それがわかる並び方だった。
その中に――
自分たちの名前は、一枚もなかった。
環はそこで、何も言わなかった。
言えば崩れると、わかるくらいにはもうわかっている。
流奈も、それ以上は見せない。
果穂だけが何も知らずに、別の引き出しを開けようとしている。
「だめって言ってるでしょ」
「まだあけてない」
「同じ」
そのやり取りが、いつも通り続く。
環は視線を外した。
見なかったことにするわけではない。
ただ、今触れる場所じゃないと判断しただけだった。
縁側の柱にもたれた環は、果穂が放り出した絵本を膝に載せていた。読むでもなく開いたまま持っている。その姿が妙に落ち着かなく見えるのは、たぶん本人もまだ完全には馴染んでいないからだ。
果穂は缶を置くと、今度は縁側へ寄っていって環の膝に顎を乗せた。
「よんで」
「今、これ読む気分じゃねえだろお前」
「よんで」
「さっきまでお菓子探してたくせに」
「よんで」
「命令すんな」
文句を言いながらも、環は絵本を開き直す。ページをめくる手つきはまだぎこちない。果穂はそれを気にしない。読んでもらえること自体が大事なのか、すでに内容を半分覚えているのか、環が一度言葉を飛ばしても何も言わずに聞いている。
流奈はそのやり取りを横目で見て、鍋の火を弱めた。
義父は、子どもの前でこういう顔をしなかった。
それに気づくたび、流奈は自分の中にできる小さな緩みが嫌だった。違うところを数え始めると、いつか大きな違いにしてしまいそうで嫌だった。
だから、線は残す。
まだ全部は預けない。
そう思っていたのに、その日の夕方に限って、時間のほうが先に足りなくなった。
裏の小窓から風が入り、干していた洗濯物の端が大きく揺れる。空はまだ明るいが、山側の雲が少し重い。
流奈は戸口へ出て、物干しのほうを見た。洗い直した布団カバーが一枚、端で大きく翻っている。これ以上風が出ると、留めが外れて落ちるかもしれない。
その時、旅館の若い娘が坂の下から声をかけてきた。
「流奈さん!」
手を振りながら駆け上がってくる。
「女将さんが、明日の朝の伝票、渡し忘れてたって」
「今?」
「ごめんなさい、さっき気づいて。これだけ渡してって」
娘が差し出した封筒を受け取り、流奈は小さく息をついた。明日の仕込みに要るものの控えなのだろう。今夜のうちに見ておかないと、朝が面倒になる。
空を見る。
洗濯物も入れたい。
伝票も見たい。
鍋も火にかけたままだ。
果穂は眠くなりかけていて、でも今一人にしたら絶対に台所へ来る。
娘はそこまで察したらしく、「じゃ、これだけ」とすぐに下がっていった。助けてくれるわけではない。その距離感がこの村らしい。
流奈は戸口に立ったまま、ほんの少しだけ迷った。
すぐ戻るだけだ。
洗濯物を入れて、伝票を見て、火を止める。その数分だけ。
数分だけ、果穂から目を離す。
それを今までしなかったわけではない。でも、その間を環に預けるのは、初めてだった。
果穂は絵本の途中で環の膝へもたれて、半分眠そうな顔をしている。
環は流奈の視線に気づいて顔を上げた。
「何」
短い返事だった。
いつも通りの、余計なことを言わない声。
流奈は少しだけ唇を噛んで、それから言った。
「……ちょっと、見てて」
声が思ったより低く出た。
環の目が、わずかに動く。
でも、そこで大げさに何か言ったりはしなかった。
「どれくらい」
「すぐ」
「わかった」
それだけだった。
嬉しがりもしない。
茶化しもしない。
恩着せがましくもしない。
ただ、果穂が縁側から台所へ勝手に来ないように、身体の向きを少し変えただけだ。
それが、流奈には少しだけ意外だった。
流奈は洗濯物を取り込みに裏へ回った。風は思ったより強くなっている。布団カバーを外して、洗濯籠へ突っ込む。ついでに小窓も閉める。戻るあいだ、家の中から果穂の声は聞こえない。泣いていない。騒いでもいない。
急いで台所へ戻ると、果穂は環の膝に寄りかかったまま、さっきの絵本をまた開いていた。環は同じページを二回読んでいたらしく、果穂が眠そうな声で「そこ、さっきも」と言っている。
「うるせえ、知ってる」
「しらなかったでしょ」
「確認だよ」
「へた」
果穂はそう言って、少しだけ笑った。
流奈はその光景を見て、一瞬だけ動きを止めた。
壊れていない。
何も起きていない。
果穂はただ、眠くて少し機嫌がいいだけの子どもの顔をしている。
「終わった?」
環が訊く。
「……うん」
「鍋、見た」
「勝手に触ってないでしょ」
「火だけ落とした」
「そう」
流奈はそれ以上何も言えなかった。
助かった、と言えば簡単なのに、その一言がまだうまく口にできない。ただ、任せても壊れなかった、という事実だけが静かに残る。
果穂が半分閉じかけた目で流奈を見る。
「ねむい」
「わかる」
「ごはん?」
「少し食べてから」
「やだ」
「少しだけ」
「やだ」
「食べないと夜中に起きる」
「……すこしだけ」
その交渉をしながら、流奈は環から絵本を受け取った。ページの端に、果穂の小さな指の跡が薄くついている。
生活はこういう、どうでもいいみたいな手触りでできている。
五年前には、そこへ戻る日が来るとは思わなかった。
◇
果穂は寝つくのが早い日と遅い日がある。
その日は早いほうだった。熱を出したあとで少し疲れが残っていたのか、夜ご飯を半分食べて、風呂で少しぐずって、髪を拭く頃にはもう目がとろんとしていた。
流奈が布団へ寝かせると、果穂は小さく丸くなる。薄い掛け布団を顎のあたりまで引き上げてやると、一度だけ目を開けた。
「たまき、かえった?」
「まだ」
「なんで」
「……まだいるから」
「ふうん」
果穂はそれで納得したのか、すぐに目を閉じた。
その素直さに、流奈は少しだけ困る。
環がいることを、果穂はもう大きな出来事として扱わない。いる日があり、いない日があり、迎えに来る日があり、そうじゃない日がある。そのくらいの生活の揺れとして、もう身体で覚え始めている。
それがいいのか悪いのか、流奈はまだ決めきれなかった。
障子を少し開けると、外の縁側に環の影が見えた。座っている。帰ると言いながら、そのまま流れで茶を飲み、夕飯を少し食べて、果穂の寝る時間まで残っていた。
流奈が「もう帰れば」と言わなかったのは、自分でもよくわからない。
果穂の寝息が整うのを待ってから、静かに障子を閉める。
台所へ戻ると、使った茶碗が二つ並んでいた。流奈のものと、環のもの。そういう並びが家の中にあることに、まだ少しだけ違和感がある。
それでも流奈は茶碗を片づけ、火を落とし、戸を半分だけ開けて縁側へ出た。
夜の風は昼より冷たい。海は見えない。けれど、風の中にだけ海がある。遠くで誰かの家の戸が閉まる音がして、それからまた静かになる。
環は膝を立てて座っていた。流奈が出てくると、少しだけ顔を上げる。
「寝た?」
「うん」
それだけのやり取りのあと、少し沈黙が落ちる。
前なら、この沈黙にどちらかが耐えられなかったと思う。環が何か言って、流奈が切って、また変な空気になる。その繰り返しだった。
今は、沈黙のままいられる時間が少しだけ長くなった。
「今日」
環が先に言った。
「頼んだな」
「……うん」
「意外」
「こっちが?」
「お前が」
流奈は答えずに、縁側の端へ座った。手が届くほど近くはない。けれど、声を落とさなくても届くくらいの距離だ。
「別に、特別なことじゃない」
「お前にとってはそうでもないだろ」
環は真っ直ぐ言う。
茶化さない。軽くもしない。
流奈はその言い方に少しだけ息を詰めた。
「……任せても平気だっただけ」
「そうかよ」
「それだけ」
環は小さく頷いた。そこで「よかった」とも「もっと早く言えよ」とも言わない。
それが、前とは違う。
流奈は膝の上で自分の指を見た。仕事で少し荒れた爪。洗い物で乾いた手。昔より骨ばって見える。こんな手で、今の生活を掴んでいる。
その今の中に、環が少しずつ入ってきている。
そのことを、流奈はもう完全には否定できなかった。
「流奈」
低く呼ばれて、顔を上げる。
環は少しだけ前を見たまま言った。
「好きなのは本当」
流奈は目を逸らさなかった。
真正面からそう言われるのは、五年前とは少し違う。昔はその言葉の前に欲しさがあった。焦りがあった。手に入れたいが先にあって、好きはその後ろから追いついてくるみたいな乱暴さがあった。
今も、たぶん、完全には変わっていない。
環もそれを知っている顔だった。
「今だって、好きと欲しいと守りたいの違いなんか、たぶんちゃんとわかってねぇ」
環は苦く笑うでもなく、ただ事実みたいに言う。
「たぶん今でも、ぐちゃぐちゃだ」
「……うん」
「でも前は、そのぐちゃぐちゃのまんま、オレの気持ちばっか先にしてた」
夜の風が、少しだけ強く吹いた。
「お前のこと見てるつもりで、全然見れてなかった」
その言い方に、流奈は返事をしなかった。
否定もしない。
慰めもしない。
ただ、それが今の環の口から出たことだけを受け取る。
「違う側だと思ってたんだよ」
環は前を見たまま続ける。
「自分は大丈夫だって」
「……」
「傷つける側じゃないって、勝手に思ってた」
「……」
「でも、そう思ってるだけじゃ足りなかった」
「うん」
「思ってるだけで、お前が平気になるわけじゃねえし、安心できるわけでもねえし」
そこで、環は一度だけ言葉を切った。
「だから……今度は違う形で傍にいたい」
流奈は小さく息を吸った。
それは綺麗な告白ではなかった。
誓いでもなかった。
でも、今の環に言えるいちばん正直な言葉なのだとわかる。
奪うでもなく、守ると決めつけるでもなく、ただ傍にいたいと言う。その曖昧さが、今の流奈にはちょうどよかった。
少し長い沈黙のあと、流奈は自分の膝を見たまま言った。
「あの頃のが何だったのか、今もわからない」
声は静かだった。
「恋だったのか、依存だったのか、寂しかっただけなのか」
「……」
「たぶん、全部少しずつ混ざってた」
「うん」
「だから、綺麗なものだったとは思ってない」
流奈はそこでやっと顔を上げる。
「でも今は、自分で選びたい」
その一言を口にした瞬間、胸の奥の何かが少しだけ動いた。
選ばれるでもなく、
差し出すでもなく、
流されるでもなく。
今の自分で、選ぶ。
その言葉は、環に向けたものでもあり、過去の自分に向けたものでもあった。
環はすぐには答えなかった。
軽くもせず、勢いで何かを言い返しもしない。
しばらくしてから、低く言う。
「じゃあ、待つ」
「……」
「待つし、いる」
「それも勝手」
「そうだな」
その返しに、流奈はほんの少しだけ口元を緩めた。
笑うつもりはなかったのに、そうなった。
環がそれに気づいて、でも何も言わない。
何も言わないことが、今は少しだけありがたかった。
家の中では、果穂の寝返りの音がした。小さな咳ひとつ。すぐにまた静かになる。
果穂は修復装置ではない。
賢い仲直り役でもない。
ただ、ここにある生活そのものだ。
朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、熱を出して、迎えに行って、寝かせる。その積み重ねの中に、環は少しずつ入ってきた。流奈はそれを、全部は拒めなくなった。
だから今こうして、二人だけで話している。
「今日」
流奈がぽつりと言う。
「見ててって言った時」
「うん」
「大げさに喜ばなくて、よかった」
「……そこ喜んだら終わるだろ」
「そうだね」
その返事に、また少しだけ気が抜ける。
全部許したわけじゃない。
何も解決していない。
過去は消えない。
怖さも、完全にはなくならない。
それでも、今の相手として向き合う始まりなら、ここに置けるかもしれないと思う。
流奈は立ち上がった。
「冷える」
「おう」
「帰るなら戸、ちゃんと閉めて」
「帰れって?」
「好きにして」
環は少しだけ笑った。
大きくはない。本当に、息の端だけで笑うみたいな顔だった。
「じゃあ、もう少ししたら帰る」
「そう」
流奈は障子を開けて家の中へ戻る。閉める直前、一度だけ振り返った。
環はまだ縁側に座っている。
外にいる。
でももう、関係ない人ではない。
その中途半端な位置が、今の二人にはちょうどよかった。
障子を閉める。
古い木が小さく鳴る。
果穂の横へ戻って布団をかけ直しながら、流奈は自分の胸のあたりに残る静かな熱を確かめた。
昔の続きではない。
今の生活の中で、ようやく向き合い始めただけだ。
それで十分だと、今夜は思えた。




