第27話 内と外
昼下がりの村道は、朝より少しだけ柔らかい。
海は見えないのに、風の中には塩気が混じる。坂の途中に伸びた草はもう濃い緑でーんー
、石垣の隙間には小さな白い花が咲いていた。春の終わりに差しかかった光は強すぎず、でも影だけは少しずつ短くなっている。
流奈は商店の袋を片手に下げて、果穂の歩幅に合わせて坂を下っていた。
果穂は今日は機嫌がいい。熱を出した日のだるさは抜けて、足取りも軽い。道の端の花を見つけてはしゃがみそうになり、そのたびに「止まらない」と流奈に言われて、少しだけ唇を尖らせる。
「ママ、みて」
「見てる」
「ちょうちょ」
「うん」
「とまった」
「それも見てる」
果穂は満足したみたいに頷いて、また歩き出した。
その少し後ろを、環がついてくる。
前みたいに、ぴたりと背に貼りつくような距離ではない。少しだけ離れて、でもいなくならない。町の中ではそれくらいがちょうどいいと、環も覚えたのだろう。
流奈は振り返らずに、その気配だけを背中で拾っていた。
商店の前まで来ると、果穂が先に駆けだした。店先に並んだ牛乳ケースと、ガラス瓶に詰まった飴の色を見れば、止まりたくなるのはいつものことだ。
「はしらない」
「はしってない」
「走ってた」
「ちがう」
口だけは達者になったと思う。
流奈が追いつくより先に、果穂は商店の戸口の前でぴたりと止まり、中にいたおじさんへ向かって、妙に張り切った声を出した。
「こんにちは」
その声に、おじさんが顔を上げる。
「おう、こんにちは。今日は元気だな」
「げんき」
果穂はそう言ってから、後ろを振り向いた。流奈ではなく、少し遅れて歩いてきた環のほうを見る。
「たまきも」
流奈はそこで一瞬だけ足を止めた。
環はわずかに目を見開いて、それから、ひどく普通の顔で言った。
「こんにちは」
声に気負いがない。
大きくもなく、小さすぎもしない。
町の人に向けるために作った声ではなくて、ただそこにいる相手へ返す声だった。
おじさんは一拍だけ間を置いてから、「おう」と返した。
そのあとで、ほんの少しだけ目を細める。
「今日は一人じゃねえんだな」
問いは環に向いていた。
流奈ではなく。
環もそれがわかったのだろう。返事が一拍だけ遅れる。
「……まあ」
「買い出し?」
「付き添いみたいなもんです」
「ふうん」
おじさんはそれ以上掘らなかった。ただ、初めて会った時みたいな「誰だ」の色も、もうほとんどない。代わりに、町の中の動きのひとつとして見ている目になっていた。
果穂はそのあいだに飴の瓶を見つめている。
「だめだよ」
流奈が先に言うと、果穂は振り向きもせずに答えた。
「いってない」
「言う顔してる」
「してない」
環が少しだけ息を漏らした。笑ったというほど大きくはない。けれど、その音に果穂がすぐ反応する。
「わらった」
「笑ってねえ」
「わらった」
「気のせいだ」
そのやり取りを、おじさんは何も言わずに見ていた。
何も言わないけれど、前より目が静かだ。
流奈はそのことに気づく。
受け入れたわけじゃない。
でも、いちいち身構える対象でもなくなりつつある。
それはありがたいのか、面倒なのか、まだうまくわからなかった。
「流奈ちゃん」
奥からおばさまの声がした。
商店の横の細い路地から、洗濯籠を抱えた近所のおばさまが顔を出す。流奈に向ける目は相変わらず柔らかい。
「今日は旅館、もう終わり?」
「はい。買うものだけ買って帰ります」
「果穂ちゃん元気になってよかったねえ」
果穂はその言葉に満足そうに胸を張る。
「もうねつない」
「そう。よかった」
そこまではいつも通りだ。
でも次におばさまが言ったのは、少し前までなら出てこなかった言い方だった。
「じゃあ今日は、迎えじゃなくて一緒に買い物?」
流奈は答える前に、一瞬だけ詰まった。
迎え。
一緒に買い物。
知り合い、でもなく。
誰、でもなく。
生活の中の役割みたいな言葉に置き換えられている。
「……まあ、そんな感じです」
曖昧に返すと、おばさまは「そう」とだけ言った。納得したわけでもなければ、追及したわけでもない。町の中で起きていることとして、ひとまずそのまま置く顔だった。
それから、おばさまは洗濯籠を抱え直して、環のほうを見た。
「坂の上、今日は風強いから気をつけなさいよ」
流奈は目を上げた。
それは、ごく普通の一言だった。
余所者へ向ける警戒ではなく、たまたまそこにいる人へ向ける注意の声だった。
環も少しだけ意外そうな顔をしたが、すぐに「どうも」と返した。
おばさまはそれで終わる。
それ以上、親しくもしない。
でも、もう完全に無視もしない。
その温度が、今の距離なのだと流奈は思う。
◇
商店を出て、坂を上り始める。
果穂はさっき買ってもらった小さな菓子袋を大事そうに持っていた。熱を出したあとだから一個だけ、と流奈が決めて、それを果穂はまだ不満そうに受け入れている。
「あとでね」
「いま」
「あとで」
「ひとつだけ」
「それをあとでって言ってる」
「いまがあとで」
「違う」
果穂の屁理屈に、環がまた小さく笑いそうな音を出す。
流奈はそれを聞きながら、少しだけ前を見る。山の影が短くなって、坂道の白い光が増えている。遠くで軽トラの音がして、その奥に波の低い気配もある。
「環」
果穂が不意に呼ぶ。
前は「ギターのお兄さん」だったのに、今はもう名前で呼ぶ。
流奈はその変化を、まだ完全には飲み込めていなかった。
「なに」
「おかしい」
「何が」
「わらうのに、わらってないっていう」
「……そういうこともある」
「へんなの」
「お前もだいぶ変だろ」
「へんじゃない」
「変だよ」
果穂は少し考えてから、「そうかな」と小さく言った。
その素直さが子どもっぽくて、流奈は一瞬だけ気が抜ける。
坂の中ほどまで来たところで、旅館の若い娘が下りてきた。手には空の籠を持っている。二人と果穂を見ると、すぐに気づいた顔になる。
「あ、よかった。ちょうど」
流奈へではなく、先に環へ向く。
「商店寄るなら、卵頼めるか聞こうと思ってたんですけど」
その一言に、環のほうが少しだけ戸惑った顔をした。
「……もう買ったあと」
「あ、そっか」
「明日でいいなら聞くけど」
「じゃあ、お願いします」
若い娘は、そこまで言ってから「あ」と気づいたように流奈を見る。
「勝手にすみません」
「別に」
流奈は短く返した。
内心では、そのやり取りのほうに少し驚いていた。
若い娘が環へ何かを頼む。
それを環が自然に受ける。
たいしたことではない。
卵ひとつの話だ。
でも生活というのは、そういうたいしたことのないやり取りの積み重ねでできている。
若い娘は果穂に手を振る。
「またね」
「またね」
果穂は即答した。
そのあと少し考えて、環のほうも見上げる。
「たまきも、またね」
「……またな」
若い娘は笑いそうになって、それをこらえた顔をした。おもしろがりすぎると壊れるものがあると、もう知っている顔だった。
流奈はその顔を見て、少しだけ気持ちが落ち着く。
村の人たちは、土足で入ってくるわけじゃない。
ただ、少しずつ見慣れていく。
◇
家の前まで来ると、果穂が先に戸口へ走った。
「はしらない」
「はしってない」
「走ってる」
「いまのはちがう」
言いながら、鍵を開けるのは結局流奈だ。果穂はもう自分でできると思っているが、まだ少し届かない。
戸を開ける。
果穂を先に入れる。
環は、いつものようにそこで止まった。
その止まり方は、もう不自然ではなくなっていた。勝手に踏み込まない。待てと言われなくても待つ。そういうことを覚えた結果の距離だ。
「じゃあ」
環が言う。
流奈は買い物袋を持ち替えながら、短く返した。
「うん」
それで終わるはずだった。
けれど、果穂が戸の内側から顔を出した。
「こんにちは」
誰に向けたのかと思えば、坂の下から上がってきた知らない爺さんだった。前に一度、環へ「誰だ、お前」と言ったことのある人だ。
爺さんは果穂へ向かって「おう」と返してから、ついでのように環を見る。
「今日はお前もいたのか」
それは流奈抜きの言葉だった。
環は一瞬だけ間を置いてから、「いました」と答える。
「ふうん。東京、明日も行かねえのか」
「明日は戻ります」
「そうか」
それだけだ。
身内に向けるような親しさではない。
でも、前みたいな排除の色も薄い。
まだ少し外。
でも、関係ない人ではない。
その位置が、言葉ひとつでわかる。
爺さんが去ってから、流奈は戸口に手をかけたまま小さく息を吐いた。
環も同じことを感じたのかもしれない。少しだけ苦笑みたいな顔になっている。
「……慣れねえ」
ぽつりと言う。
「何が」
「普通に話しかけられんの」
流奈はその返しに、少しだけ眉を上げた。
「前は誰だって顔されてたのに」
「今もされてる」
「薄くなった」
「薄くなっただけ」
「十分だろ」
そう言う環の声に、得意げな感じはなかった。本当にただ、事実を確認しているだけだった。
流奈は戸口の木に指をかけたまま、少しだけ黙る。
たしかに薄くなった。
でも、完全には消えていない。
それが今の環の立ち位置で、その曖昧さは、流奈と環のあいだの距離にもよく似ていた。
「……まだ少し外だね」
気づくと、そう言っていた。
環が目を上げる。
「村でも」
「うん」
「お前の中でも?」
「……そうだよ」
流奈は嘘をつかなかった。
今さら優しく取り繕う気もない。
中へ入れたわけじゃない。
でも、完全な外に置けるほど無関係でもなくなっている。
その中途半端さを、まだ流奈は嫌っていたし、でも少しだけ受け入れ始めてもいた。
環はそれを聞いて、少しだけ頷いた。
「じゃあ、まだ外でいい」
「……」
「その代わり、関係ない人には戻る気ねえけど」
その言い方に、流奈はすぐ返せなかった。
押してくるわけじゃない。
でも引くわけでもない。
その在り方が、最近いちばん扱いに困る。
戸の内側で、果穂が買ってきた菓子袋をがさがさ鳴らしている。開けられなくて困っている音だとすぐにわかる。
「ママー」
「今行く」
流奈はそう返してから、環を見る。
「今日はありがとう」
「今日は、な」
「調子乗らないで」
「乗ってねえよ」
少しだけ間の悪い返しだった。
でも、その間の悪さは前から変わらない。
流奈は戸を閉める前に、もう一度だけ環を見た。
村の中でかなり自然に立てるようになってきた。
でもまだ完全には馴染み切っていない。
その薄い膜が、今の二人にはちょうどいいのかもしれないと、少しだけ思った。
果穂が「またね」と小さく言ったのが、家の奥から聞こえてくる。
環はその場に立ったまま、すぐには動かなかった。
帰る気配はあるのに、足だけが一歩目を出さない。
流奈が眉を寄せる。
「何」
「……ああ」
環は短く息を吐いて、ギターケースの外ポケットに手を入れた。
少しだけ迷ってから、薄いケースを一枚取り出す。
透明のプラスチックが、夕方の光を鈍く返す。
「これ」
差し出されたそれを、流奈はすぐには取らなかった。
視線だけ落とす。
見覚えのあるロゴだった。
「……何であんたが持ってんの」
「預かってた」
「誰に」
「大輝と唯」
流奈の指が、わずかに止まる。
それでもまだ、手は伸びない。
環はそのまま続ける。
「この前、東京で会った時」
「……」
「来ると思ってたやつ、残してるって」
流奈はそこでようやく手を伸ばした。
触れるだけみたいにケースを受け取る。
重さはほとんどない。
なのに、指先だけ少しだけ感覚が遅れる。
「……そう」
流奈はそれ以上何も言わなかった。
開けもしない。
見もしない。
ただ持ったまま、戸の内側に半歩だけ下がる。
環はそれを見て、小さく肩をすくめた。
「じゃあな」
「……うん」
短い返事だった。
戸を閉める。
古い木が小さく鳴る。
閉まった戸の向こうで、果穂が「これあかない」と騒いでいる。
流奈は買い物袋を置きながら、その声のほうへ向かう。
外にはまだ風の中に海がある。
そしてその少し外側に、環がまだ立っている感じが、何となく消えずに残っていた。




