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フォルステリ  作者: 七奈 菜々
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第26話 迎え

第26話 迎え


 午後の光は、春の終わりを少しだけ越えていた。


 旅館の裏口へ回ると、干した布巾が風に鳴っている。坂の下からは商店のトラックの音がして、海は見えないのに、潮の匂いだけがどこかで混じっていた。


 流奈は濡れた手を拭きながら、時計を見た。


 少し押している。


 本当なら、もう果穂を迎えに行っている時間だった。今日は昼の団体が長引いて、旅館の皿が思ったより片づかない。女将は「こっちはいいから」と言うが、そう言われて本当に全部置いていけるほど、流奈はまだ図太くなれない。


「流奈ちゃん」


 若い娘が、布巾の束を抱えたまま裏口から顔を出した。


「果穂ちゃん、商店の前で待たせてる?」

「いや、今日はおばさんとこ」

「そっか。行けそう?」

「あと少し」


 その「あと少し」が、今日は少し長い。


 流奈は皿を重ねながら、何度目かわからない舌打ちを喉の奥で飲み込んだ。果穂は待てる子だ。待てるけれど、長く待たせれば拗ねるし、知らないことを勝手に始める。熱を出したばかりだから、あまり夕方まで外へ置いておきたくもなかった。


 裏口の柱に寄りかけていた環が、そこで口を開いた。


「行ってくる」


 短い声だった。


 流奈は手を止めた。

 振り返る。


「は?」


「迎え」

「……大丈夫」

「押してんだろ」

「あと少しで終わるから」


 環はそこで押し返さなかった。押し返さない代わりに、少しだけ視線を旅館の奥へやる。積まれた皿、鍋の音、女将の声。誰が見ても、押しているのはわかる。


 若い娘が、少しだけ空気を読まない明るさで言った。


「今日はギターのお兄さん一緒じゃないの、ってさっき果穂ちゃん言ってましたよ」


 流奈は眉を寄せた。


「……何それ」

「知らないけど、たぶん迎え来ると思ってたんじゃないですか」


 環はその言葉に一瞬だけ目を動かしたが、何も言わなかった。


 流奈のほうが先に目を逸らす。


 果穂がそう言ったのかと思うと、少しだけ胸のあたりが落ち着かない。慣れられている。いつのまにか、少しだけ待たれている。


 それが嫌なわけではない。

 でも、認めるには早い。


「……商店の前じゃなくて、おばさんとこだから」


 やっとそれだけ言うと、環は小さく頷いた。


「知ってる」

「道、ちゃんとわかるの」

「毎日見てる」


 その言い方に、流奈は一瞬だけ顔をしかめる。見てる、という言葉の響きがまだ好きじゃない。けれど、今それを責めている時間もない。


 女将が奥から声を飛ばした。


「流奈ちゃん、こっち終わるから果穂ちゃん迎え行ってきていいよ」

「……あと一枚で終わります」

「いいから」


 その「いいから」が今日は二度目だった。


 流奈は布巾を強めに絞った。旅館の中でも、外でも、少しずつ自分の段取りの外側から手が伸びてくる。助かる、と言ってしまえばそこで終わるのに、その一言が喉の奥で引っかかる。


 環はそれ以上何も言わず、裏口から先に出ていった。


 若い娘がその背中を見送りながら、半分笑ったような顔で言う。


「ほんとに行きましたね」

「……行くって言ったから」

「流奈さん、迎え頼んだんですか」

「頼んでない」

「でも行くんだ」

「勝手に」

「ふうん」


 その「ふうん」は、前よりずっと軽かった。

 詮索というより、もう町の中の出来事として受け取っている音だった。


 流奈はそこで初めて、少しだけ息を詰めた。


         ◇


 商店の前で、果穂は牛乳ケースに腰かけていた。


 足をぶらぶらさせて、飴の入った瓶を見ている。熱を出した日の赤みはもうない。頬はいつも通りで、でも退屈している顔だった。


 環が近づくと、果穂は少しだけ目を丸くした。


「きた」


「来た」


「ママは?」

「あとから」

「おそい」

「仕事だろ」


 果穂は口を尖らせたが、立ち上がる。すぐに手を繋ぐわけではない。けれど逃げもしない。その距離が、最近少しずつ変わっている。


 商店のおじさんがレジの奥から顔を出した。


「あれ、今日は一人?」


 その問いは、流奈ではなく環に向いていた。


 環は一瞬だけ、自分へ向けられたことに戸惑った顔をする。


「……まあ」

「迎え?」

「そんなとこです」

「ふうん」


 おじさんはそれ以上詮索しなかった。けれど、最初の頃みたいな「誰だ」の目でもない。ただ、町の中の動きとして確認している顔だった。


 果穂が棚の端を指差す。


「ジュース」

「だめ」

「なんで」

「この前熱出してたやつが飲むもんじゃねえだろ」

「もうねつない」

「ない顔してねえ」


 環が言うと、果穂は不満そうに眉を寄せた。けれど、店のおじさんはそのやり取りを見て笑いもしない。妙に真顔で、少しだけ目を細めただけだった。


「今日は、温かいのにしとけ」


 そう言って棚の端から小さな紙パックを出す。子ども向けの甘いミルクだった。


「これなら飲めるだろ」

「いらない」

「さっきジュース欲しがってただろ」

「ジュースがいい」

「似たようなもんだ」


 環が言うと、果穂は納得していない顔のまま紙パックを受け取った。


 おじさんは会計を打ちながら、何でもないみたいに言う。


「流奈ちゃん、今日旅館?」

「はい」

「まだ押してんのか」

「らしいです」

「そうか」


 それだけだった。


 でも、その短さが逆に引っかかった。

 環はもう「流奈の後ろについてきた怪しい男」ではなく、「流奈の代わりに迎えに来た人」として、一瞬だけ仮置きされたのだとわかる。


 嬉しいわけではない。

 むしろ落ち着かない。

 けれど、その落ち着かなさを口にする相手もいない。


 果穂が紙パックのストローをうまく刺せずに、むっとした顔になる。

 環は少しだけ迷ってから、「貸せ」と言って受け取った。


「できる」

「できてねえ」

「いまやるとこだった」

「じゃあやれよ」

「もういい」


 拗ねたみたいに言う果穂に、環は少しだけ息を漏らした。笑ったというより、困ったみたいな音だった。


 ストローを刺して返すと、果穂は無言で受け取る。

 それから少しだけ飲んで、ようやく機嫌を直したみたいに小さく息をついた。


「かえる?」

「帰る」

「ママくる?」

「来るだろ」


 そう答えた時、坂の下から流奈が歩いてくるのが見えた。少し急いでいる。けれど走るほどではない。その速さに、流奈らしさが妙にある。


 果穂が先に気づいた。


「ママ」


 紙パックを持ったまま手を振る。流奈は一瞬だけ安心した顔をして、それからすぐにいつもの薄い無表情へ戻った。


「……遅くなった」

「別に」

「別に、じゃない」

「迎え来てたし」


 果穂が何の気なしに言う。


 その言葉に流奈の目が一瞬だけ揺れた。迎え。そういう語として、果穂の中ではもう置かれているのだとわかる。


 おじさんがレジの奥から声をかけた。


「流奈ちゃん、迎え頼んだの?」


 その言い方に、流奈はほんの少しだけ詰まった。


 預けてるの、ではない。

 知り合いなの、でもない。


 迎え頼んだの。


 それはもう、流奈の暮らしの端に環を置いた言い方だった。


「……今日は、たまたま」


 流奈は曖昧に返すしかなかった。


 おじさんはそれ以上追わず、「果穂ちゃん、今日はもう冷たいのだめだぞ」とだけ言って棚へ戻った。


 環はそのやり取りを黙って聞いていた。流奈のほうも何も言わない。果穂だけが紙パックを両手で持って、満足そうにしている。


 町の空気が、少しだけ動いたのがわかる。


         ◇


 帰り道、風は午前中より柔らかくなっていた。


 果穂は紙パックを飲みきって、空になった箱を振っている。流奈はそれを取り上げようとして、「まだ」と拒否され、諦めた。


 坂の途中で、旅館の若い娘が洗濯物を抱えて出てきた。


「あ、流奈さん」


 それから果穂を見る。


「よかった、元気そう」

「熱、もう下がったみたい」

「ほんとですか。よかった」


 そこで娘は環へ目を向けた。前よりずっと自然だった。


「果穂ちゃん、本当にギターのお兄さん待ってたんですね」


 流奈は少しだけ足を止めた。

 環は、何も言わない。


 娘はにやりとするでもなく、ただ言葉としてそこへ置いただけだった。


「迎え来てくれてたんですね」

「……勝手に」

「でも助かったでしょ」

「……それはそうだけど」


 流奈は言ってから、少しだけ目を伏せた。


 その一瞬の間で、若い娘は何かを察した顔をした。けれど、深追いしない。洗濯物を抱え直して、「じゃ、また」と軽く言って去っていく。


 果穂がその背中を見送ってから、ぽつりと言う。


「ギターのおにいさん」


「なに」

「なんでギター?」


 環は少しだけ首を傾げた。


「……知らねえ。ギター持ってるからじゃねえの」

「おなまえあるのに」

「あるな」

「あるよ」


 果穂が流奈を見る。

 流奈は返事を少し迷ってから、短く言った。


「……環」

「たまき?」

「そう」


 果穂は口の中で一度その音を転がした。


「たまき」


 環は何も言わなかった。

 でも、その呼ばれ方に少しだけ目の色が変わったのを、流奈は見た。


 坂を上る手前で、おばさまがまた戸口から顔を出した。今度は洗濯籠を抱えている。


「あら、帰り?」


「はい」


 流奈が答えると、おばさまは果穂の顔を見て、それから環を見た。


「もう熱は大丈夫そうね」

「たぶん」

「よかった。迎え頼んだの?」


 また、その言い方だった。


 流奈は小さく息を止めた。


 前なら「知り合い?」と聞いてきた人が、もうそこを飛ばしている。頼んだの。つまり、頼めるくらいには関わる人、として見ている。


「……たまたまです」

「そう」


 おばさまは笑いもしないし、納得したふりもしない。ただ「そう」とだけ言って、それ以上何も言わなかった。


 その「そう」は、前みたいな警戒一色のものではなかった。

 まだ外ではある。

 でも、完全な外ではない。


 流奈はその微妙なずれを、どう受け取ればいいのかわからなかった。


 家の前まで来ると、果穂が環のほうを振り返る。


「またね」


 小さい声だった。


 環は一拍遅れて、少しだけ目を細めた。


「……またな」


 流奈は鍵を取り出す手を止めない。止めないまま、横目でそのやり取りだけを見る。


 家の戸を開ける。

 果穂を先に入れる。


 環は戸口の外で止まった。


 その止まり方がもう自然になりつつあるのが、流奈には少し怖かった。前より礼儀がある。前より押してこない。だから余計に、生活の端へ入り込んでくる。


 前みたいに乱暴なら、まだ楽だった。

 違うと思いかけた瞬間のほうが痛いと、流奈はもう知っている。

 だから、少しだけましになった今のほうが、むしろ怖かった。

 信じかける前に止めないと、その先で足を取られる気がした。


「今日はありがとう」


 言うつもりはなかったのに、口が先に動いた。


 環が少しだけ目を上げる。


「別に」

「別に、ではないでしょ」

「……じゃあ、どういたしまして」


 少しだけ間の悪い返しだった。

 その不器用さに、流奈は一瞬だけ昔の環を思い出しかけて、すぐにやめた。


「明日、果穂の様子見て、また旅館行く」

「わかった」

「来なくていいから」

「それは考える」


 流奈は眉を寄せる。

 けれど、それ以上は言わなかった。


 戸を閉める直前、流奈は思う。


 環はまだ“流奈の外”にいる。

 でももう、“流奈の暮らしの端”にはいる。


 その違いだけが、今日ひどくはっきりした。


 戸を閉める。

 古い木が少しだけ鳴る。


 果穂はもう靴を脱ぎ散らかして、奥の布団へ転がっている。流奈はそれを拾い上げながら、さっきのおばさまの言い方を思い返した。


 迎え頼んだの?


 その問いが、まだ喉の奥に残っていた。

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