第25話 熱
環はそれからも、東京と村を行き来した。
長く居座るわけではない。ホテルを取り、昼に顔を出し、夕方には消える日もある。商店の前にいる日があれば、旅館の坂の下で見かける日もある。流奈はそのたびに「また来た」と思い、環はそのたびに、来たことだけを置いて帰った。
果穂は少しずつ、その顔を覚えた。
村の人たちも、最初みたいにあからさまには見なくなった。受け入れたわけじゃない。ただ、驚くことではなくなっただけだ。
それでも、環はまだ外にいた。
流奈の中でも、村の中でも。
その位置を、環もようやく壊さずに持てるようになり始めていた。
だから、その日は、流奈にとっても環にとっても、少しだけ意味が違った。
昼すぎから、果穂は少し静かだった。
朝のうちはいつも通りだった。坂の途中でしゃがみこんで石を拾い、旅館の裏では布巾を干している若い娘に話しかけて、商店の前では飴を欲しがって流奈に断られた。そういう、いつものうるささが昼を過ぎたあたりから薄くなる。
最初に変だと思ったのは、旅館の裏口でだった。
流奈が洗い終わった食器を拭いているあいだ、果穂はいつもなら勝手に庭の端へ行くか、若い娘の足元にまとわりついて邪魔をする。なのにその日は、木箱の上に座ったまま、ぼんやり表を見ていた。
「果穂ちゃん、眠いの?」
若い娘がそう声をかけると、果穂は首を振る。
「ねむくない」
「ほんと?」
「ほんと」
そう言う声にも少しだけ張りがない。
流奈は布巾を絞る手を止めて、果穂の顔を見た。頬がほんの少し赤い。走ったあとの赤みか、日差しのせいか、見分けがつかないくらいの色だった。
「果穂、こっち」
呼ぶと、果穂は素直に寄ってきた。いつもなら一度は「やだ」と返すのに、それもない。
額に手を当てる。
熱い、気がする。
でも、気がするだけかもしれない。
「どうしたの?」
若い娘が覗き込む。
「ちょっと、熱っぽいかも」
「え、大丈夫?」
「まだわかんない」
そう返しながらも、流奈の胸の奥は少しだけざわついていた。
この町へ来てから、果穂が熱を出したことは一度や二度ではない。子どもは急に熱くなって、急に下がる。夜になる頃にはけろっとしていることもある。だから、今ここで大げさに騒ぐほどじゃない。そう思おうとする。
けれど、果穂は流奈の脚に寄りかかったまま、動こうとしなかった。
若い娘が気を遣うように言う。
「今日は早めに上がる?」
「……そうする」
旅館の女将も「そのほうがいい」とすぐに言った。代わりの手はどうにかなるという顔だった。その気遣いがありがたくて、でもそのぶん、流奈は余計に気を張った。
一人で大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。
子どもの熱くらいで慌てるな。
今までもやってきた。
果穂を背に負うにはもう少し重い。だから流奈は片手で荷物を持ち、片手で果穂の手を引いて家へ向かった。果穂は歩く。歩くけれど、足が少し遅い。
坂の途中で、朝に会ったおばさまがまた戸口から顔を出した。
「あら、流奈ちゃん。もう帰り?」
「ちょっと、果穂が」
最後まで言う前に、おばさまは果穂の顔を見て眉を寄せた。
「果穂ちゃん、昼から顔赤かったよ」
流奈は足を止める。
「そうなんですか」
「旅館の前通った時も、あんまり元気なかったじゃない。大丈夫?」
「たぶん熱だと思うんで、寝かせます」
「流奈ちゃん、一人で大丈夫?」
その問いに、流奈はすぐ頷いた。
「大丈夫です」
そう答えるしかない。
大丈夫じゃないとしても、他に返しようがない。
おばさまは少しだけ言いたそうな顔をしたが、最後には「何かあったら呼びなさいね」とだけ言った。
流奈は頭を下げて、そのまま家へ急いだ。
◇
家へ着いてから、果穂の熱ははっきりした。
布団へ寝かせて、もう一度額に手を当てる。今度は迷わない。熱い。身体の芯からじわじわ上がってくるような熱だ。
「おみず」
果穂が小さく言う。
「持ってくる」
流奈は急いでコップを持ってきた。果穂は少しだけ飲んで、あとは首を振る。
「いらない」
「もうちょっと」
「いらない」
唇が乾いているのに、飲みたがらない。流奈は舌打ちしそうになるのを飲み込んだ。
「飲んで」
「やだ」
「果穂」
「やだ」
弱っていても、こういう時だけ妙に頑固だ。
流奈は深く息を吐いた。怒っても仕方ない。わかっている。けれど、熱を出すたびに自分の中の余裕が削られるのも本当だった。
家の中を見回す。
冷やす布。水。少しの薬。足りるかどうかがすぐにはわからない。前の熱の時に残っていた子ども用の薬は、期限がまだ大丈夫だったはずだ。たぶん。たしか。
流奈は押し入れの小箱を引っ張り出し、中身をかき回した。体温計。薬。小さな冷却シートが一枚だけ。どれも心許ない。
熱を測ると、思っていたより高い数字が出た。
その瞬間、流奈の背中に冷たいものが走る。
一人で大丈夫だと答えたばかりなのに、一人でいることが急に重くなる。町医者の場所も、開いている時間も頭には入っている。けれど、この熱で果穂を連れてまた坂を下りるのかと思うと、足が鈍る。
果穂は布団の上で眉を寄せていた。
「ママ、さむい」
「毛布かける」
「やだ」
「さむいんでしょ」
「あつい」
寒いのか暑いのか、自分でもわからないのだろう。熱のある子どもはそうだと知っている。知っているけれど、知っているだけで手が足りるわけではない。
流奈は台所へ立って、たらいに水を張った。布を濡らして絞る。果穂の額に乗せる。少しすると、それがすぐぬるくなる。
一人で大丈夫。
そう思っていたのに、熱が上がる速度がその言葉をどんどん薄くする。
戸の外で足音がしたのは、その時だった。
流奈は反射で身体を強張らせた。
「流奈ちゃん」
おばさまの声だった。
「さっき商店の前通ったら、あの人走ってったよ」
「……あの人?」
「ほら、ここ何日か来てる」
環だ、と思う。
思った瞬間に、少しだけ苛立つ。何で今、と思う。果穂がこんな時に限って、という苛立ちもあるし、こんな時に限って誰かに見られている感じも嫌だった。
おばさまは戸の外から続ける。
「薬と水、買ってた」
「……」
「息切らしてたよ」
流奈は返事をしなかった。
おばさまもそれ以上は踏み込まず、「何かあったら呼んで」とだけ言って足音を遠ざけた。
その数分後、本当に戸が叩かれた。
「流奈」
環の声だった。
流奈は少しだけ目を閉じた。
果穂の熱い額をもう一度触って、それから立ち上がる。
戸を半分だけ開けると、環は本当に息を切らしていた。髪が少し乱れていて、手にはコンビニ袋と、ドラッグストアの小さい袋がある。ペットボトルの水と、子ども用の飲み物と、冷却シートと、薬。
「……何」
流奈は硬く訊く。
「熱、だろ」
「見ればわかるでしょ」
「誰に聞いたの」
「見た」
環は短く言った。
「さっきから顔赤かった」
「……」
「あと、おばさんが」
なるほど、と思う。
思うけれど、その納得は気持ちを少しも柔らかくしない。
「いらない」
「嘘つけ」
「今、あんたに構ってる余裕ないの」
「余裕ねぇのと、無理してんのは別だろ」
環の声も低い。けれど、押し切るための低さではない。焦っているのを隠しきれないだけだ。
流奈が何か返す前に、家の奥から果穂の咳が聞こえた。
二人とも一瞬だけそちらを見る。
環はそこで押し入ってこなかった。
代わりに袋を少し持ち上げる。
「水と、熱冷まし。どっちが合うかわかんなかったから、店の人に聞いて買ってきた」
「……」
「あと、飲めそうなやつ」
流奈は袋を見る。
中身はたしかに、今この家に足りないものばかりだった。
悔しい、と思う。
助かった、より先に、それが来る。
「……そこ置いて」
やっとそれだけ言うと、環は小さく頷いた。
戸口の内側へは入らない。
袋だけをそっと置く。
その動きが、妙に慎重だった。
「他にいるもんあるか」
「……今はそれで足りる」
「町医者、まだ開いてる」
「わかってる」
「熱上がるなら連れてけ」
「わかってるって言ってる」
言い方がきつくなる。
でも環はそのくらいでは引かなかったし、逆に押してもこなかった。
「じゃあ、外にいる」
「は?」
「何かあったら走るから」
流奈は顔を上げた。
「いらない」
「いるかどうかは、お前が決めろ」
「今は果穂だけで手一杯なの。あんたのことまで増やさないで」
そう言って、流奈は自分の声が思ったより尖っていたことに気づいた。けれど、言い直す余裕もなかった。
環は少しだけ黙ってから、低く言った。
「でも、俺はそこにいる」
その言い方が、妙に引っかかった。
いる。
それだけの言葉なのに、押しつけにも、逃げにも聞こえる。
流奈は返事をしなかった。
戸を閉める。
閉めても、外に人の気配が残るのがわかった。
◇
熱は夕方になって、もう一段上がった。
果穂は水を少しずつしか飲まない。飲ませて、額を拭いて、体温を見て、また布を絞る。その繰り返しだけで時間が削れる。外はいつの間にか暗くなり始めていて、戸の隙間から入る風が朝より少し冷たい。
薬を飲ませる時、果穂は顔をしかめて泣きかけた。流奈は苛立ちそうになる自分を押さえながら、背中を撫でる。
「あとちょっと」
「やだ」
「飲まないと下がんない」
「やだ」
「果穂」
その呼び方に、いつもより少しだけ鋭いものが混ざる。
果穂は目に涙をためながら、どうにか飲み込んだ。
その小さな喉の動きだけで、流奈の胸のあたりが少し痛くなる。
しばらくして、また戸が叩かれた。
「……流奈」
今度の環の声は、さっきより少しだけ抑えられていた。
流奈はすぐには開けなかった。
でも三度目に小さく叩かれた時、仕方なく戸を開ける。
環は湯気の立つ小さな水筒を持っていた。
「女将さんが」
それだけ言う。
「白湯のほうが飲むかもって」
「……」
「あと、氷」
もう片方の手に、布で包んだ氷嚢みたいなものも持っている。
「商店のおじさんが持たせてくれた」
「……」
「使うなら」
その後ろの道の向こうで、昼のおばさまが洗濯物を取り込むふりをしながらこちらを見ていた。旅館の若い娘も、坂の下で一瞬だけ足を止める。あからさまではない。でも、見ている。
流奈はその視線ごと受け取る。
環は、ただ口だけ出している男じゃない。
今、実際に動いている。
村の人たちも、それを見ている。
それが急に恥ずかしいような、腹立たしいような、変な気持ちになる。
「……ありがとう」
言ってから、自分でも少し驚いた。
素直な礼ではない。
でも、言わないほうがもっと不自然だった。
環は一瞬だけ目を上げた。
けれど、そこでは何も返さない。ただ、水筒と氷を渡して、小さく頷くだけだった。
「熱、どうだ」
「まだ高い」
「飲めてるか」
「少しは」
「なら、もうちょい様子見て、下がらなかったら――」
「わかってる」
途中で切る。
でも、それ以上強くはならない。
環はまた一歩下がった。
「じゃあ、また外にいる」
「……勝手にすれば」
「勝手にはしてねえよ」
小さく返して、それ以上は言わない。
戸を閉める直前、流奈はその顔を少しだけ見た。
疲れている。走ってきた顔だ。ヒーローみたいな顔ではなく、ただ、息を切らして今できるものを集めてきた顔だった。
戸を閉める。
果穂は布団の中で少しだけ目を開けていた。
「だれいたの」
「……知り合い」
流奈がそう言うと、果穂は少しだけ頷いて、また目を閉じた。
外にはまだ人の気配がある。
そのこと自体が気に障るのに、完全には追い払えない自分もまた鬱陶しかった。
◇
熱が少しだけ落ち着いたのは、夜のだいぶ後だった。
果穂の呼吸がようやく浅くなり、額の熱も昼ほどの鋭さではなくなる。流奈は布団の横に座ったまま、何度目かわからない息を吐いた。
戸の外は静かだった。
でも、気配はまだ残っている気がした。
流奈はそっと戸を開けた。
環は縁側の端に座っていた。背中を壁に預けて、膝を立てている。寝てはいない。戸が動いた音で、すぐに顔を上げた。
「……下がった」
流奈が小さく言う。
環はそれだけで、肩の力を少し抜いた。
「そうか」
「もう大丈夫だと思う」
「ならいい」
短い。
けれど、その短さが今はちょうどよかった。
「帰らないの」
流奈がそう訊くと、環は少しだけ苦く笑う。
「帰るよ」
「……」
「もう少ししたら」
流奈はそれ以上何も言わなかった。
坂の下では、誰かの家の戸が閉まる音がした。町は小さい。何があったか、きっと明日には何人かが知る。果穂が熱を出したことも、環が薬と水を持って走ったことも、その全部が生活の中で自然に回っていく。
明日になれば、おばさまの目は少しだけ変わるかもしれない。
商店のおじさんの「誰だ?」の色も、少しだけ薄くなるかもしれない。
それでも、環はまだ外の人間だ。
そこは変わらない。
けれど少なくとも、怪しいだけの男ではなくなった。
流奈は戸を閉める前に、小さく言った。
「……水、助かった」
環は何も返さなかった。
返さないかわりに、ほんの少しだけ頷いた。
その頷きだけが、やけに静かに残った。
流奈は戸を閉めて、また果穂の横へ戻る。
熱の残る頬に手を当てると、昼よりずっとましだった。
明日になれば、また日常へ戻る。
迎えや買い物や、細かい暮らしの続きへ。
その時、環がまだそこにいるのかどうか。
流奈は、もう前みたいにただ無視するだけでは済まなくなりかけている自分に気づいて、少しだけ目を閉じた。




