第24話 歌
ホテルの机は狭かった。
狭いくせに、環にはその天板の白さだけが妙に広く見えた。コンビニで買った缶コーヒー、開いたままのメモ帳、ボールペン、乗り継ぎの切符の半券。どれも小さいのに、そのあいだに手を置くと、何かを書かなければいけない場所みたいに見える。
村から戻って二日目の夜だった。
東京の空気は乾いている。窓を開けても海の匂いはしない。車の音と、どこか遠くの救急車のサイレンと、隣室のテレビの低い響きだけが壁の向こうで混ざっている。
環はペンを持ったまま、何も書けずにいた。
書きたいわけじゃない。
でも、頭の中に残っているものが、音でも言葉でもないまま引っかかっているのが気持ち悪かった。
果穂の目。
戸の前で流奈が言った「認めないから」。
潮の匂いだけが残るあの町。
そして、流奈が果穂を脚の後ろへ引いた、あの一瞬の動き。
思い出す順番がばらばらだ。
どれも同じ夜のことなのに、そこだけ切り取ると、別々の場面みたいに見える。
環はやっとメモ帳の端に一行だけ書いた。
潮の残る風
書いたあとで、何だそれと思う。
すぐ横へ線を引いて消す。
消しても、跡だけは残る。
今度は別のところへ書く。
閉じた戸の向こう
それも違う。
違うけれど、完全に違うとも言い切れない。
環は頭を掻いた。
「だっせえ……」
誰に見せるわけでもないのに、書いた言葉の見た目だけで少し腹が立つ。村から戻って以来、言葉が全部きれいすぎる気がした。きれいにしたくなんかない。きれいじゃないのに、紙へ置くと勝手に整ったふりをする。
流奈はそんなもの、すぐ見抜く。
そもそも見せるつもりもないのに、何で流奈に見せた時のことを考えてるんだと、自分でも少し苛立つ。
メモ帳を閉じようとして、やめる。
今閉じても、どうせ眠れない。
結局、もう一度開いて、今度は短い断片だけ書いた。
呼べない名前を風が先に知ってる
そこまで書いたところで、ようやく少しだけ呼吸が通った。
意味なんかまだない。
ただ、頭の中にあった嫌な引っかかりが、少しだけ外へ落ちただけだ。
環はペンを置いて、缶コーヒーを飲んだ。苦い。冷えてもいない。ただ苦いだけだ。
それでも、さっきまでよりは少しましだった。
◇
次の日のスタジオは、いつも通りうるさかった。
毅のドラムの音。尚人の適当なベース。司の歌う前の咳払い。床に這うシールド。積みっぱなしのケース。いつものように散らかっていて、いつものように誰も片づけない。
環はギターケースを開く前に、メモ帳をアンプの上へ置いた。
見せるつもりはなかった。
なかったのに、司はそういうものを見つける時だけ妙に目がいい。
「何それ」
リハ前の調整をしながら、司が横目で言う。
「何でもねえ」
「何でもねえ顔じゃねえだろ」
尚人がすぐ食いつく。
「うわ、歌詞?」
「違う」
「違う時にメモ帳広げんの?」
「黙ってろ」
環が取り返す前に、司がアンプの上からメモ帳を取った。
「おい」
「見せるために置いてんだろ」
「置いてねえよ」
司は最初のページを開く。
尚人が後ろから覗き込む。
毅は煙草の箱を弄んだまま、止めもしない。
数秒だけ、誰も喋らなかった。
それから尚人が先に吹き出す。
「見えない海、だって」
「殺すぞ」
「いや待って、閉じた戸の向こうもある」
「司、それ返せ」
「ちょっと待て」
司が言う。
「最後のやつ、これ」
「読むなって」
「呼べない名前を風が先に知ってる」
「読んだじゃねえか」
「読める位置にあるのが悪い」
環は本気で取り返そうとして、一歩前に出た。
司はメモ帳を片手で避けながら、もう片方の手で環の肩を押す。
「落ち着け」
「落ち着いてる」
「落ち着いてねえよ」
毅がそこでようやく口を開いた。
「今のお前の話だろ」
平らな言い方だった。
茶化しでも、慰めでもない。
環はその一言に、すぐには返せなかった。
「違う」
「違わねえだろ」
司が言う。
「違うなら、何のつもりでこんなの書いてんだよ」
「……知らねえよ」
「知ってる顔だろ」
尚人はまだ半分面白がっている顔で、でも半分は本気で見ている。
「村じゃん」
「うるせえ」
「風に塩気あるとか、完全に村じゃん」
「それ以外もある」
「閉じた戸って何」
「お前に関係ねえ」
「関係ねえけど、重っ」
環は本気で舌打ちしたくなった。
でも、否定しきれないのも本当だった。
今のお前の話。
その通りだ。
違うと言いたいのに、違うなら何でこれを書いたのか、自分でもうまく説明できない。
司がメモ帳を閉じて、環に投げ返す。
「続けろ」
「は?」
「どうせ今のままじゃ消えねえだろ」
「……」
「ちゃんと曲にしろって意味じゃねえぞ」
司は少しだけ顎を上げる。
「でも、中途半端に散らかしたまま次のリフ持ってくるな」
それは命令に近かった。
けれど、追い詰めるための命令ではない。出すなら出せ、と言っているだけの声だった。
環はメモ帳を受け取ったまま、少しだけ黙った。
「……お前、こういう時だけまともだな」
「失礼だな」
「普段まともじゃねえって意味だよ」
「知ってる」
その返しに、尚人がまた笑う。
毅はやっと煙草に火をつけた。
環はメモ帳を見下ろした。
歌詞。
そう呼ぶにはまだ足りない。
でも、ただのメモだと言い切るには、もう少し濃い。
曲になるのかもわからない。
誰に聞かせるのかもわからない。
それでも今は、ここへ置いておくしかない気がした。
◇
その夜、環は自分の部屋へ戻った。
ホテルではなく、東京の古いアパートだ。鍵を回してドアを開けると、水槽のぶくぶくいう音が先にする。キャポさんは底のほうでぬるっと動いただけで、こちらに特別な興味もなさそうだった。
「お前はいいよな」
環が言うと、当然返事はない。
水槽のライトの白さが、部屋の端だけを静かに照らしている。テーブルの上にはガラクタみたいなピックと、灰皿と、空き缶と、録りかけのカセットが転がっていた。
村にはキャポさんはいない。
けれど、果穂はこの水槽のことをまだ見たこともないのに、「ちいさいキャポさん」と呼ぶかもしれないと思った瞬間、環は少しだけ変な顔をした。
そういう想像をするのが、まだ自分でも落ち着かない。
メモ帳を開く。
床に座ったまま、水槽の音を背中に聞いて、また一行だけ増やす。
まだ外のままでいい
書いて、すぐその下に足す。
消えないならそれでいい
今度は消さなかった。
これがいい言葉なのか悪い言葉なのかもわからない。ただ、流奈の前で言ったら絶対に嫌な顔をされるだろうな、とは思う。
そういうところまで込みで、今はまだ流奈へ渡すものではない。
環はメモ帳を閉じた。
ギターを持つ。
弦を軽く鳴らす。いつもの癖でリフを探しに行くけれど、今日は少し違う。速く前へ出る音じゃなく、もっと低くて、引っ張るみたいな音のほうがしっくりくる。
指が勝手に二、三音拾う。
そのつながりを忘れないうちに、もう一度鳴らす。
さっき書いた言葉を口の中だけで置いてみる。
まだ合わない。
でも、完全に違うとも思わなかった。
キャポさんのぶくぶくいう音。
東京の乾いた空気。
村の塩気のある風。
流奈の閉じた戸。
果穂の「またね」。
全部が同じ部屋の中にはないのに、何故か一つの音の中に混ざりかけている。
環は何度か同じフレーズを繰り返して、それからギターを下ろした。
今すぐ形になるわけじゃない。
でも、前みたいに全部を飲み込んだままにはできない。
そのことだけは、はっきりしていた。
◇
数日後、環はまた村へ来た。
ホテルに荷物を置いてから、坂の途中まで上がる。前より少しだけ慣れた道だ。風の向きも、商店の位置も、旅館の裏口へ回る細い道も、もう一度目の余所者ではなくなっている。
けれど慣れたからといって、中へ入れるわけじゃない。
そこはちゃんとわかっていた。
旅館の前を通る時、裏口から若い娘の笑い声が聞こえた。女将の少し低い声も混じる。皿の触れ合う音。湯気の匂い。生活の音だ。
その中に、自分の音はまだない。
環はそれを、少し前ほど痛くは感じなかった。
ただ、そういうものだと受け取れるようになってきただけかもしれない。
商店の前まで下りると、果穂が牛乳ケースの横でしゃがんでいた。石を二つ並べて、何か考えている顔だ。
「何してんの」
環が言うと、果穂は顔を上げる。
「みち」
「道?」
「うん」
「石で?」
「ここ、うみ」
「海あんのかよ」
「ある」
即答だった。
環は少しだけ笑いそうになって、でも笑わなかった。
石二つ分の道の向こうに海があると言い張る、その感じが妙に村と似ている。見えないのに、そこにあるとわかっているもの。
「ギターの人」
果穂が、石をひとつ持ち上げて見せる。
「これ、きいろい」
「……ちょっとだけな」
前より自然に呼ばれて、環は一瞬だけ目を細めた。
でも、そこで何か言うほどではない。
そういうことをいちいち大きくしないほうがいいと、もう少しだけ知っている。
坂の下から流奈が上がってきたのは、その少しあとだった。
荷物を片手に持って、少しだけ速い足で歩いてくる。環を見つけた瞬間、止まりはしない。ただ、少しだけ目が細くなる。
「……また来たの」
「来た」
「何しに」
「別に」
流奈が眉を寄せる。
「その“別に”、便利だね」
「お前に言われたくねえ」
そこまで言ってから、環は少しだけ肩をすくめた。
「……顔見に」
流奈は一瞬だけ黙る。
果穂だけが石を握ったまま、二人を見ている。
「誰の」
「両方」
「雑」
流奈はそう言ったが、前みたいな冷え方ではなかった。
環は流奈のその変化を、拾ったとも拾わなかったとも言わないまま、ただそこに立っていた。
言いたいことはまだ山ほどある。
でも今は、歌のことも、ノートのことも、一つも出さない。
出したところで、全部軽くなる気がするからだ。
流奈は果穂の手を取る。
「帰るよ」
「うん」
果穂は石をポケットへ入れた。
環はそれを見て、何となく、自分のメモ帳の中身と同じだと思った。たいしたものじゃない。けれど、本人にとっては今ここで拾って持って帰るだけの意味がある。
流奈が一歩歩き出して、それから少しだけ振り返る。
「ついてこなくていい」
「わかってる」
「ほんとに?」
「……たぶん」
「だと思った」
そう言いながら、流奈の口元がほんの少しだけ動いた。
笑ったわけじゃない。
でも、切り捨てる顔でもない。
それだけで十分だ、と環は思った。
村の風が少しだけ強く吹く。
その奥に、潮の匂いだけがかすかに残っていた。
環はその場で止まったまま、流奈と果穂の背中を見送った。追わない。今日はそれでいい。
手の中には、まだ誰にも聞かせていない言葉がある。
音になりかけて、でもまだ音になりきらないものがある。
それを抱えたまま、環は村の坂の途中に立っていた。
まだ外だ。
けれど、何も持たずに立っているわけでは、もうなかった。




