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フォルステリ  作者: 七奈 菜々
24/27

第24話 歌


 ホテルの机は狭かった。


 狭いくせに、環にはその天板の白さだけが妙に広く見えた。コンビニで買った缶コーヒー、開いたままのメモ帳、ボールペン、乗り継ぎの切符の半券。どれも小さいのに、そのあいだに手を置くと、何かを書かなければいけない場所みたいに見える。


 村から戻って二日目の夜だった。


 東京の空気は乾いている。窓を開けても海の匂いはしない。車の音と、どこか遠くの救急車のサイレンと、隣室のテレビの低い響きだけが壁の向こうで混ざっている。


 環はペンを持ったまま、何も書けずにいた。


 書きたいわけじゃない。

 でも、頭の中に残っているものが、音でも言葉でもないまま引っかかっているのが気持ち悪かった。


 果穂の目。

 戸の前で流奈が言った「認めないから」。

 潮の匂いだけが残るあの町。

 そして、流奈が果穂を脚の後ろへ引いた、あの一瞬の動き。


 思い出す順番がばらばらだ。


 どれも同じ夜のことなのに、そこだけ切り取ると、別々の場面みたいに見える。


 環はやっとメモ帳の端に一行だけ書いた。


 潮の残る風


 書いたあとで、何だそれと思う。

 すぐ横へ線を引いて消す。

 消しても、跡だけは残る。


 今度は別のところへ書く。


 閉じた戸の向こう


 それも違う。

 違うけれど、完全に違うとも言い切れない。


 環は頭を掻いた。


「だっせえ……」


 誰に見せるわけでもないのに、書いた言葉の見た目だけで少し腹が立つ。村から戻って以来、言葉が全部きれいすぎる気がした。きれいにしたくなんかない。きれいじゃないのに、紙へ置くと勝手に整ったふりをする。


 流奈はそんなもの、すぐ見抜く。


 そもそも見せるつもりもないのに、何で流奈に見せた時のことを考えてるんだと、自分でも少し苛立つ。


 メモ帳を閉じようとして、やめる。


 今閉じても、どうせ眠れない。


 結局、もう一度開いて、今度は短い断片だけ書いた。


 呼べない名前を風が先に知ってる


 そこまで書いたところで、ようやく少しだけ呼吸が通った。


 意味なんかまだない。

 ただ、頭の中にあった嫌な引っかかりが、少しだけ外へ落ちただけだ。


 環はペンを置いて、缶コーヒーを飲んだ。苦い。冷えてもいない。ただ苦いだけだ。


 それでも、さっきまでよりは少しましだった。


         ◇


 次の日のスタジオは、いつも通りうるさかった。


 毅のドラムの音。尚人の適当なベース。司の歌う前の咳払い。床に這うシールド。積みっぱなしのケース。いつものように散らかっていて、いつものように誰も片づけない。


 環はギターケースを開く前に、メモ帳をアンプの上へ置いた。


 見せるつもりはなかった。

 なかったのに、司はそういうものを見つける時だけ妙に目がいい。


「何それ」


 リハ前の調整をしながら、司が横目で言う。


「何でもねえ」

「何でもねえ顔じゃねえだろ」


 尚人がすぐ食いつく。


「うわ、歌詞?」

「違う」

「違う時にメモ帳広げんの?」

「黙ってろ」


 環が取り返す前に、司がアンプの上からメモ帳を取った。


「おい」

「見せるために置いてんだろ」

「置いてねえよ」


 司は最初のページを開く。

 尚人が後ろから覗き込む。

 毅は煙草の箱を弄んだまま、止めもしない。


 数秒だけ、誰も喋らなかった。


 それから尚人が先に吹き出す。


「見えない海、だって」

「殺すぞ」

「いや待って、閉じた戸の向こうもある」

「司、それ返せ」

「ちょっと待て」

 司が言う。

「最後のやつ、これ」

「読むなって」

「呼べない名前を風が先に知ってる」

「読んだじゃねえか」

「読める位置にあるのが悪い」


 環は本気で取り返そうとして、一歩前に出た。

 司はメモ帳を片手で避けながら、もう片方の手で環の肩を押す。


「落ち着け」

「落ち着いてる」

「落ち着いてねえよ」


 毅がそこでようやく口を開いた。


「今のお前の話だろ」


 平らな言い方だった。

 茶化しでも、慰めでもない。


 環はその一言に、すぐには返せなかった。


「違う」

「違わねえだろ」

 司が言う。

「違うなら、何のつもりでこんなの書いてんだよ」

「……知らねえよ」

「知ってる顔だろ」


 尚人はまだ半分面白がっている顔で、でも半分は本気で見ている。


「村じゃん」

「うるせえ」

「風に塩気あるとか、完全に村じゃん」

「それ以外もある」

「閉じた戸って何」

「お前に関係ねえ」

「関係ねえけど、重っ」


 環は本気で舌打ちしたくなった。

 でも、否定しきれないのも本当だった。


 今のお前の話。

 その通りだ。


 違うと言いたいのに、違うなら何でこれを書いたのか、自分でもうまく説明できない。


 司がメモ帳を閉じて、環に投げ返す。


「続けろ」

「は?」

「どうせ今のままじゃ消えねえだろ」

「……」

「ちゃんと曲にしろって意味じゃねえぞ」

 司は少しだけ顎を上げる。

「でも、中途半端に散らかしたまま次のリフ持ってくるな」


 それは命令に近かった。

 けれど、追い詰めるための命令ではない。出すなら出せ、と言っているだけの声だった。


 環はメモ帳を受け取ったまま、少しだけ黙った。


「……お前、こういう時だけまともだな」

「失礼だな」

「普段まともじゃねえって意味だよ」

「知ってる」


 その返しに、尚人がまた笑う。

 毅はやっと煙草に火をつけた。


 環はメモ帳を見下ろした。


 歌詞。

 そう呼ぶにはまだ足りない。

 でも、ただのメモだと言い切るには、もう少し濃い。


 曲になるのかもわからない。

 誰に聞かせるのかもわからない。


 それでも今は、ここへ置いておくしかない気がした。


         ◇


 その夜、環は自分の部屋へ戻った。


 ホテルではなく、東京の古いアパートだ。鍵を回してドアを開けると、水槽のぶくぶくいう音が先にする。キャポさんは底のほうでぬるっと動いただけで、こちらに特別な興味もなさそうだった。


「お前はいいよな」


 環が言うと、当然返事はない。


 水槽のライトの白さが、部屋の端だけを静かに照らしている。テーブルの上にはガラクタみたいなピックと、灰皿と、空き缶と、録りかけのカセットが転がっていた。


 村にはキャポさんはいない。

 けれど、果穂はこの水槽のことをまだ見たこともないのに、「ちいさいキャポさん」と呼ぶかもしれないと思った瞬間、環は少しだけ変な顔をした。


 そういう想像をするのが、まだ自分でも落ち着かない。


 メモ帳を開く。

 床に座ったまま、水槽の音を背中に聞いて、また一行だけ増やす。


 まだ外のままでいい


 書いて、すぐその下に足す。


 消えないならそれでいい


 今度は消さなかった。


 これがいい言葉なのか悪い言葉なのかもわからない。ただ、流奈の前で言ったら絶対に嫌な顔をされるだろうな、とは思う。


 そういうところまで込みで、今はまだ流奈へ渡すものではない。


 環はメモ帳を閉じた。

 ギターを持つ。


 弦を軽く鳴らす。いつもの癖でリフを探しに行くけれど、今日は少し違う。速く前へ出る音じゃなく、もっと低くて、引っ張るみたいな音のほうがしっくりくる。


 指が勝手に二、三音拾う。

 そのつながりを忘れないうちに、もう一度鳴らす。

 さっき書いた言葉を口の中だけで置いてみる。


 まだ合わない。


 でも、完全に違うとも思わなかった。


 キャポさんのぶくぶくいう音。

 東京の乾いた空気。

 村の塩気のある風。

 流奈の閉じた戸。

 果穂の「またね」。


 全部が同じ部屋の中にはないのに、何故か一つの音の中に混ざりかけている。


 環は何度か同じフレーズを繰り返して、それからギターを下ろした。


 今すぐ形になるわけじゃない。

 でも、前みたいに全部を飲み込んだままにはできない。


 そのことだけは、はっきりしていた。


         ◇


 数日後、環はまた村へ来た。


 ホテルに荷物を置いてから、坂の途中まで上がる。前より少しだけ慣れた道だ。風の向きも、商店の位置も、旅館の裏口へ回る細い道も、もう一度目の余所者ではなくなっている。


 けれど慣れたからといって、中へ入れるわけじゃない。


 そこはちゃんとわかっていた。


 旅館の前を通る時、裏口から若い娘の笑い声が聞こえた。女将の少し低い声も混じる。皿の触れ合う音。湯気の匂い。生活の音だ。


 その中に、自分の音はまだない。


 環はそれを、少し前ほど痛くは感じなかった。


 ただ、そういうものだと受け取れるようになってきただけかもしれない。


 商店の前まで下りると、果穂が牛乳ケースの横でしゃがんでいた。石を二つ並べて、何か考えている顔だ。


「何してんの」


 環が言うと、果穂は顔を上げる。


「みち」

「道?」

「うん」

「石で?」

「ここ、うみ」

「海あんのかよ」

「ある」


 即答だった。


 環は少しだけ笑いそうになって、でも笑わなかった。


 石二つ分の道の向こうに海があると言い張る、その感じが妙に村と似ている。見えないのに、そこにあるとわかっているもの。


「ギターの人」


 果穂が、石をひとつ持ち上げて見せる。


「これ、きいろい」

「……ちょっとだけな」


 前より自然に呼ばれて、環は一瞬だけ目を細めた。

 でも、そこで何か言うほどではない。

 そういうことをいちいち大きくしないほうがいいと、もう少しだけ知っている。


 坂の下から流奈が上がってきたのは、その少しあとだった。


 荷物を片手に持って、少しだけ速い足で歩いてくる。環を見つけた瞬間、止まりはしない。ただ、少しだけ目が細くなる。


「……また来たの」

「来た」

「何しに」

「別に」


 流奈が眉を寄せる。


「その“別に”、便利だね」

「お前に言われたくねえ」


 そこまで言ってから、環は少しだけ肩をすくめた。


「……顔見に」


 流奈は一瞬だけ黙る。

 果穂だけが石を握ったまま、二人を見ている。


「誰の」

「両方」

「雑」


 流奈はそう言ったが、前みたいな冷え方ではなかった。


 環は流奈のその変化を、拾ったとも拾わなかったとも言わないまま、ただそこに立っていた。


 言いたいことはまだ山ほどある。

 でも今は、歌のことも、ノートのことも、一つも出さない。


 出したところで、全部軽くなる気がするからだ。


 流奈は果穂の手を取る。


「帰るよ」

「うん」


 果穂は石をポケットへ入れた。

 環はそれを見て、何となく、自分のメモ帳の中身と同じだと思った。たいしたものじゃない。けれど、本人にとっては今ここで拾って持って帰るだけの意味がある。


 流奈が一歩歩き出して、それから少しだけ振り返る。


「ついてこなくていい」

「わかってる」

「ほんとに?」

「……たぶん」

「だと思った」


 そう言いながら、流奈の口元がほんの少しだけ動いた。


 笑ったわけじゃない。

 でも、切り捨てる顔でもない。


 それだけで十分だ、と環は思った。


 村の風が少しだけ強く吹く。

 その奥に、潮の匂いだけがかすかに残っていた。


 環はその場で止まったまま、流奈と果穂の背中を見送った。追わない。今日はそれでいい。


 手の中には、まだ誰にも聞かせていない言葉がある。

 音になりかけて、でもまだ音になりきらないものがある。


 それを抱えたまま、環は村の坂の途中に立っていた。


 まだ外だ。


 けれど、何も持たずに立っているわけでは、もうなかった。

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