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フォルステリ  作者: 七奈 菜々
23/25

第23話 往復


 東京へ戻る電車の窓に、夕方の色が中途半端に映っていた。


 海沿いの小さな駅を出て、山の陰へ入って、また少し開けて、知らない町が後ろへ流れていく。来る時はただ早く着きたかったのに、帰りは逆に、どこまで離れたらあの家の戸が頭の中から消えるのかを考えていた。


 消えなかった。


 果穂、という名前。

 流奈が果穂を自分の脚の後ろへ引いた反射。

 「認めないから」と言った声。


 窓の外なんかほとんど見ていないのに、目だけは前を向いたままだった。


 乗り継ぎの駅で買った缶コーヒーはぬるかった。東京へ近づくにつれて、人が増える。スーツの男、買い物袋を持った女、部活帰りらしい高校生。どこにでもある夜の帰り道の顔が増えていくほど、さっきまでいた村の小ささだけが逆にくっきりする。


 町は小さかった。

 小さいくせに、ちゃんと流奈の生活があった。

 古い戸。

 春の風。

 果穂の声。

 知らない爺さんや、おばさまの目。


 そこへ、自分だけがうまく入れなかった。


 東京へ着いた頃には、もう完全に夜だった。


 駅前のネオンは明るい。人も多い。音も多い。コンビニの自動ドアが開くたびに暖房の匂いと揚げ物の匂いが混ざる。村では目立ちすぎたギターケースも、こっちではただの荷物になる。


 それが少しだけ腹立たしかった。


 ホテルの部屋は狭かった。


 ベッドが一つ。小さい机。壁に貼りついたみたいなテレビ。ユニットバスの白い匂い。ギターケースを広げたら、それだけで床の半分が埋まる。


 環はジャケットも脱がずにベッドへ座った。


 靴も脱がないまま、少しだけ俯く。


 会えた、とは思う。

 でも会ってどうなったのかと考えると、何一つ整理できない。


 流奈はいた。

 果穂もいた。

 でも、いたからといって何かが戻るわけじゃない。


 むしろ逆だった。


 いない間にできた五年が、ちゃんとあることだけを見せられた。


 ガラケーが鳴る。

 司だった。


「着いたか」


 短い声だった。


「着いた」

『で』

「……いた」

『そうか』


 それだけ言って、司は少し黙る。


『会えたんならよかったじゃねえか、とは言わねえぞ』

「言えねえだろ」

『言えねえな』


 環はようやく靴を脱いだ。片方だけベッドの下へ転がる。


『明日どうすんだ』

「東京戻る」

『戻ってるだろ今』

「一回スタジオ行く」

『そのあと』

「……また行くかも」


 電話の向こうで、小さく息を吐く音がした。

 呆れているのか、想定通りなのか、その両方かもしれない。


『仕事は』

「落とさねえよ」

『落としそうな顔してるから言ってんだよ』


 返せない。

 返せないくせに、否定はしたかった。


「落とさねえって」

『なら来い。昼からだ』

「わかった」

『あと』

「何」

『勝手に自分で美談にすんなよ』


 その一言だけ残して、司は切った。


 環はしばらくガラケーを見ていたが、やがて机の上へ放った。


 美談。

 そんなもんにしたいわけじゃない。

 していないつもりだ。

 でも、自分がどこかで「ようやく辿り着いた」と思っていたのも本当だった。


 実際は、辿り着いたんじゃない。

 やっと入口の前に立っただけだ。


 しかも、開いてはいない。


         ◇


 次の日、スタジオへ入る前に、環は少しだけ遠回りをした。


 Cliveのリハ場の前まで来て、やっぱり帰ろうかと一度だけ思う。何を言えばいいのかも決まっていない。ただ、見つけたことだけは言っておいたほうがいい気がした。


 扉を開けると、大輝が最初に顔を上げた。


「……何、珍し」


 軽く言ったくせに、環の顔を見た瞬間、その目が少しだけ変わる。


「いた」


 環はそれだけ言った。


 大輝は一拍遅れて息を止める。


「誰が」


 聞き返し方はわかっていたくせに、確認しないと怖いみたいな声だった。


「流奈」


 その名前が落ちた瞬間、唯が奥で手を止めた。


 大輝はすぐには喋らなかった。冗談も言わない。ただ環の顔を見て、それから小さく言う。


「……そっか」


 唯は無言のまま、物販箱の下を探った。少しして取り出したのは、一枚のCDだった。


「これ」


 環は受け取らずに見る。


 見覚えのある盤だった。Cliveの初回販売盤。まだ手売りの温度が残っていた頃のやつだ。


「流奈ちゃんの分で取ってたの」


 唯はCDを見たまま言う。


「来ると思って」


 環は返せなかった。


 大輝が横で、少しだけ目を伏せる。


「そのうちまた、何も言わずに立ってる気がしてた」


 唯は笑わなかった。


「でも来なかった」


 短い沈黙が落ちる。


 それから唯は、ごく小さく続けた。


「……あの時」


 そこで止まる。


 環が顔を上げると、唯はそれ以上は言わなかった。けれど、流奈の体調の悪さも、誤魔化し方も、急に消えたことも、全部うっすら繋がっている顔だった。


「持ってって」


 今度は大輝が言った。


「え?」

「お前が」


 環は眉を寄せる。


「何で俺」

「今さら俺が渡すのは違うだろ」

「唯が持ってても、たぶんこのまま箱の下だし」


 大輝はそこで少しだけ笑った。

 でも、軽い笑いではなかった。


「流奈ちゃん、001のまんまなんだよ」


「は?」


「ファンクラブ」


 唯が言う。


「最初のまま、欠番にしてないの」

「流奈ちゃんの番号だから」


 環はしばらく動かなかった。


 それを受け取ることが、過去の流奈まで手の中へ来るみたいで、少しだけ怖かった。


 けれど唯は引っ込めなかった。


「見つけたなら」

「今なら、まだ渡せるかもしれないでしょ」


 環はそこでようやく、CDを受け取った。


 軽いのに、妙に重かった。


         ◇


 昼になり入ったスタジオは、いつもより狭く感じた。


 録りかけの曲の続きをやるはずだった。毅は変わらない顔でドラムを叩き、尚人は遅刻して司に蹴られ、司は歌詞ノートを机に叩きつけるみたいに置いた。


 いつも通りだ。


 環だけが、そこにうまく馴染めていなかった。


「おい」


 二曲目の途中で、司が止めた。


 環はギターのネックを握ったまま顔を上げる。


「何」

「半拍早い」

「走ってねえよ」

「走ってる」

「走ってるな」

 毅がさらりと言う。

「うるせえ」

「集中しろ」

 司が切る。

「してる」

「してねえ」


 尚人がベースを肩に乗せたまま、半笑いで言った。


「村?」

「殺すぞ」

「いやでも絶対村じゃん」

「黙ってろ」

「そんなに気になるなら、また行けばいいだろ」

「……」

「お、図星」


 環はピックを握り直した。

 反論したくても、できない。


 その通りだからだ。


 会って終わったんじゃない。

 むしろ会ったせいで、前より落ち着かない。


「今日で終わり?」


 気づくと自分から訊いていた。


 司が眉を上げる。


「何が」

「録り」

「仮なら夕方で終わる」

「……そ」


 尚人がそこで吹き出す。


「行く気満々じゃん」

「うるせえ」

「ホテル取っとけよ、今度は」

「もう取った」

「え、もう?」

「昨日のうちに」


 尚人と毅が同時に顔を上げる。

 司だけが、やっぱりなという顔をした。


「馬鹿だな」

「知ってる」


 環はそれだけ返して、ギターを構え直した。

 今度は外さない。

 少なくとも音だけは。


 夕方、スタジオを出る前に、司が煙草を咥えたまま言った。


「行くのは勝手だ」

「行くよ」

「でも、前みたいに勢いで中まで入るなよ」

「……わかってる」

「たぶんわかってねえだろうけど、まあ前よりはましか」


 その言い方に、環は少しだけ顔をしかめた。

 でも否定はしなかった。


 前よりは、ましだ。


 たぶんそれくらいしか、今の自分には言えない。


         ◇


 ホテルは前と同じところを取った。


 駅前に一つしかないビジネスホテルで、フロントの男は前と同じ顔かどうかも怪しい。誰もこちらを覚えていない。そういう宿だった。


 それでよかった。


 村へ着いたのは昼を少し過ぎた頃だった。


 環は駅前で少しだけ立ち止まる。前は見つけてすぐ追った。今は違う。違うようにしなければならないと、自分でわかっている。


 改札の向こうに山がある。

 海は見えない。

 けれど風の中に海がある。


 昨日と同じ匂いなのに、今日は少しだけ落ち着いて吸えた。


 商店の前を通ると、おじさんが棚を出していた。環は目が合った瞬間、少しだけ迷って、それから頭を下げる。


「どうも」


 おじさんは手を止めた。

 止めたが、追い払う顔はしない。


「……おう」


 ただそれだけ返して、また牛乳ケースを動かす。


 受け入れたわけじゃない。

 でも、完全な異物としても扱っていない。


 環はそれ以上何も言わずに通り過ぎた。


 坂の途中で、おばさまが洗濯物を干していた。

 前に流奈へ声をかけていた人だとすぐわかる。


 おばさまは環を見るなり、ああ、という顔をした。

 その「ああ」は、前みたいな「誰だ」ではなかった。見覚えのある余所者への顔だ。


「また来たの」


 訊き方は柔らかい。

 でも柔らかいだけで、中へ入ってきたわけじゃない。


「……まあ」

「そう」


 おばさまはそれだけ言って、洗濯物へ視線を戻した。


 その反応に、環のほうが少しだけ拍子抜けする。

 もっと警戒されると思っていた。されているのかもしれないが、少なくとももう驚きではないらしい。


 それが少しだけ、胸のどこかに残る。


 家の前までは行かなかった。


 行けば会えるかもしれない。

 でも行って、また戸口で止まって、それで何が変わるのかが見えなかった。


 だから坂の途中で止まり、旅館のほうを見たり、商店のほうへ下ったり、村の中を半端に歩いた。


 そのうち、旅館の裏口から若い娘が出てきた。


 手に濡れた布巾の束を抱えて、環を見るなり目を丸くする。


「あ」


 覚えている顔だった。


「……こんにちは」

 環が言うと、娘は少しだけ慌てたみたいに笑う。

「え、こんにちは」

「……」

「また来たんですね」


 その言い方が妙にまっすぐで、環は少し返事に詰まる。


「まあ」

「そっか」


 娘は布巾を抱え直した。

 それから、少しだけ探るように訊く。


「流奈さん、今ちょっと手が離せないんですけど」

「……別に会いに来たわけじゃねえよ」


 嘘だった。

 娘もたぶん、嘘だと思った顔をした。


 けれどそこは突っ込まずに、「そうですか」とだけ返す。


「果穂ちゃん、さっきまでいたんですけど、今はおばさんとこです」

「……そう」

「熱とかじゃないですよ」

「そんなこと聞いてねえ」

「顔がそんな感じだったんで」


 その返しに、環は思わず眉を寄せた。

 娘はそこで少しだけ笑う。笑うけれど、馬鹿にしている感じではない。村の中にいる人間の顔だった。


「旅館、まだ終わんないんで」

「うん」

「待つなら、商店の前のほうがいいですよ」

「何で」

「ここだと女将さんがうるさいんで」


 それだけ言って、娘は布巾を持ったまま戻っていった。


 待つ、という言葉がそのまま置かれたのに、環はしばらく動けなかった。


 待つ。

 追うでもなく、押すでもなく。

 今の自分にできるのは、たぶん本当にそれくらいだった。


         ◇


 結局その日は、果穂の顔だけ見た。


 商店の前で、果穂は小さな石を拾って遊んでいた。おばさまが少し離れたところで見ている。流奈はいない。


 果穂は環に気づくと、前回ほど警戒せずに目を丸くした。


「……きた」


「来た」

「なんで」

「……何でだろうな」


 果穂はその答えに納得していない顔だったが、追及もしなかった。子どもなりに、この人は変なことを言う大人だと思っているのかもしれない。


「ママいない」

「知ってる」

「おしごと」

「そうか」

「おばさんいる」

「見りゃわかる」


 果穂はそこで少しだけ笑った。

 声はまだ出ない。ただ、口だけが少しゆるむ。


 おばさまがその様子を見て、環へ言う。


「長くはだめよ」

「わかってる」

「果穂ちゃん、今日はもう帰るんだから」

「はい」


 はい、と返しながら、環は少しだけ自分でも驚いていた。

 前ならこんなふうに言われるのは苛立ったかもしれない。今は、むしろ当然だと思う。


 果穂が石を一つ見せる。


「これ」

「石だな」

「まるい」

「そうだな」

「ギターの人の」

「いらねえよ」

「なんで」

「石だから」

「きれい」

「……じゃあお前のだろ」


 果穂は少し考えてから、頷いた。


「じゃあ、かほの」


 その一言が、環の胸の奥に妙に残る。


 知らない五年の中で、この子はもうこんなふうに喋るようになっていて、自分はそこにいなかった。その当たり前が、こういう小さい瞬間ほど痛い。


 遠くで流奈の声がした。


「果穂」


 果穂がすぐに顔を上げる。

 環もそちらを見る。


 坂の下から流奈が歩いてくる。荷物を片手に持って、いつもの少しだけ速い足で。


 流奈は環を見ると、一瞬だけ足を止めた。

 でも前みたいに、その場で凍りはしない。


「……また来たの」

「来た」

「何しに」

「待ってた」

「ほんとに懲りないね」

「うん」


 流奈は少しだけ呆れたように息を吐く。


 完全に拒絶はしない。

 でも歓迎もない。

 それで十分だった。


 果穂が流奈の脚へ寄る。


「きたよ」

「見えてる」

「またきた」

「そうみたいだね」


 その会話の中に、前より少しだけ刺がない。


 流奈自身は気づいていないかもしれない。

 でも環にはわかる。

 戸口の前でぶつかった時より、今はほんの少しだけ言葉が地面へ降りている。


「帰るよ」

 流奈が言う。

「うん」

「今日はついてこなくていい」

「わかった」


 環は本当に、その場で止まった。


 流奈が少しだけ振り返る。

 振り返って、それ以上何も言わない。


 果穂だけが手を上げた。


「またね」

「……またな」


 小さなやり取りだった。


 でも、その「またね」は以前にはなかった。


 流奈は果穂の手を引いて坂を上っていく。環はその背中を、追わずに見送った。追えば前に戻る。今はそれだけはわかる。


 村の風が少しだけ強く吹く。

 海は見えない。

 けれど風の中にだけ海がある。


 ホテルに戻る道で、環は初めて少しだけ、自分の歩幅がこの町に合い始めている気がした。


 まだ外だ。

 流奈の中でも、村の中でも。


 でも、昨日みたいな完全な異物ではもうない。


 それだけで十分だとは思わない。

 でも、それしかないとも思った。

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