第22話 境界線
朝の風は、まだ少しだけ冷たかった。
春はもう深くなっているはずなのに、海沿いの山の町では、日陰へ入るとすぐに肌の表面が冷える。流奈は戸を開けて、最初に空を見た。薄い雲が高く流れている。雨にはならないだろうと思ってから、果穂の上着を一枚多く持つ。
「かほ、靴」
「はいてる」
「ちゃんと踵入れて」
「はいってるって」
果穂は口を尖らせながら、でも結局その場にしゃがみこんで、自分の靴の踵を押し込んだ。まだ小さい手がもたついている。流奈はそれを見て、直してやるか少しだけ迷って、やめた。時間はかかるが、自分でできるならそのほうがいい。
鍵をかける。
鞄を肩にかける。
果穂の手を取る。
それだけの、いつもの朝だった。
前と違うのは、戸を閉めたあとに少しだけ周囲を見る癖がついたことだ。
坂の下。旅館のほうへ折れる道。雑貨屋の前。誰もいないように見えて、それでもどこかに気配がある気がする。流奈はそのたび、何を探しているのかわからなくなる。
いるならいるで面倒だし、いないならいないで、それも妙に落ち着かない。
果穂が手を引いた。
「いこ」
「うん」
歩き出す。
坂の途中の草はもう濃くなっていて、朝露を少しだけ残している。
風に混じる塩気も、五年経てばもう身体のどこかに馴染んでいる。
道を折れたところで、おばさまが戸口を掃いていた。いつも朝が早い人だ。
「あら、流奈ちゃん、おはよう。今日は早いね」
「おはようございます」
流奈が返すと、おばさまは箒を止めて果穂を見る。
「果穂ちゃんも一緒? えらいねえ」
果穂は少しだけ流奈の脚の後ろへ隠れたあと、小さく「おはよう」と言った。
「おつかい?」
「ちがう」
「じゃあ、ママのお仕事についてくの?」
「うん」
そのやり取りはいつもの柔らかさだった。けれど、その次の瞬間、おばさまの視線が流奈の肩越しへ抜けた。
流奈も振り返らなくてもわかった。
少し遅れて、環が坂を上ってくる。
最初の何日かほど露骨ではない。それでも、ついてくる。追い詰めるような近さでは来ない。けれど、いなくなるわけでもない。旅館へ泊まっているらしいことも、町の誰かがもう知っている。
おばさまの目が、環を見たまま少しだけ細くなる。
「……お知り合い?」
訊き方は柔らかい。
でも、その柔らかさは流奈に向けたもので、環へ向けたものではなかった。
流奈は短く答えた。
「知り合いです」
それ以上は言わない。
おばさまは一拍置いてから、「そう」とだけ返した。環に挨拶もしない。追い返しもしない。ただ、流奈の側へ立つ目で、一度だけ上から下まで見た。
環も何も言わなかった。
言えばこじれるとわかっているのかもしれない。あるいは、ここで自分が何者でもないと、もう知っているのかもしれない。
流奈はそのまま歩き出した。果穂が少しだけ後ろを振り返る。
「くるの?」
環は答えに少しだけ詰まって、それから小さく言った。
「……まあ」
果穂は「ふうん」とだけ返した。その言い方が妙に子どもっぽくなくて、流奈は少しだけ眉を寄せる。
坂を下りながら、後ろに人の気配があるのがわかる。
追われている、というほどではない。
でも、自分の生活の輪の少し外に、まだ消えないものがついている感覚は落ち着かなかった。
◇
商店の前では、配達用の牛乳ケースが積み上がっていた。
小さい町の小さい店だから、朝は忙しい。野菜の箱、パンの納品、新聞の束。おじさんは店先でそれを捌きながら、果穂を見つけるとすぐに顔を緩めた。
「お、果穂ちゃん。今日は早いな」
「おはよ」
「元気か」
「げんき」
おじさんは笑って、棚に入れる前の飴玉の袋を持ち上げた。
「ひとりでおつかいできるようになったか?」
「まだ」
「まだかあ」
果穂は少し悔しそうな顔をした。そういう細かい感情の動きが、最近はもう顔に出る。
流奈はそれを横目で見ながら、旅館に頼まれた醤油と味噌の伝票を鞄から出した。
「頼まれてた分、これです」
「ああ、はいはい」
おじさんが伝票を受け取る。
その時、背後に立つ環へようやく気づいたらしく、顔の筋肉がわずかに戻った。
笑わない。
追い払わない。
でも、明らかに目が変わる。
誰だ、という目だった。
環はギターケースを肩にかけたまま、店先の端に立っている。町の景色に馴染まない。本人が悪いわけではなくても、馴染まないものは馴染まない。
「そっちは?」
おじさんが訊く。
流奈は伝票から顔を上げずに言った。
「知り合いです」
その言い方は、おばさまに返した時と同じだった。
それ以上ではない。
それ以下でもない。
おじさんは「ふうん」とだけ返した。興味がないわけではない。たぶん、町の誰もが同じくらい気にしている。でも、ここでずかずか聞くのは違うと判断した顔だった。
果穂だけが、少し不思議そうに環を見た。
「ギターのおにいさん」
ぽつりと言う。
流奈の手が一瞬だけ止まる。
環の目も、少しだけ動いた。
「知ってんのか」
おじさんが笑い半分で言うと、果穂は小さく頷いた。
「きのうもいた」
「そうかあ」
その「そうかあ」は、果穂に向いたものだった。環には向いていない。
流奈は代金を払い、袋を受け取る。味噌と醤油だけで鞄の片側が少し重くなる。いつもなら果穂の手を引いてそのまま旅館へ行く。その流れを今日はどこかで見られている感じがする。
「持つ」
環が言ったのは、店を出て少し歩いてからだった。
流奈は振り返らない。
「いらない」
「重いだろ」
「重いよ」
「なら」
「でも、あんたはいい」
環はそこで黙った。
少し前の環なら、もう一言押したかもしれない。勝手に袋を取ろうとしたかもしれない。でも今はしない。しないくせに、そこにいる。
その中途半端さが、流奈にはまだ信用できなかった。
果穂は二人のやり取りを半分も理解していない顔で、道端の草を見ている。小さな白い花を見つけて、しゃがみそうになる。
「果穂、だめ」
「まだなにもしてない」
「しようとしてた」
「してない」
そう言い返す速さが可笑しくて、環が少しだけ息を漏らした。笑ったのか、呆れたのか、その中間みたいな音だった。
流奈はそれを聞いて、少しだけ目を細める。
義父は、そういう目で子どもを見なかった。
その違いに気づくたび、流奈は自分が嫌になる。
違うところを数え始めたら、何かが崩れる気がした。
だから流奈は、町の中ではなるべく硬いままでいた。
ここで一度でも境界を曖昧にしたら、あっという間に中へ入ってこられる気がしたからだ。
◇
保育所の前を通った時、ちょうど先生が門のところで子どもを迎えていた。
明るいエプロン姿で、しゃがんで子どもと目を合わせながら話す人だ。果穂も何度か世話になっていて、顔は覚えている。
「あら、果穂ちゃん」
先生はすぐに気づいて、柔らかく手を振った。
「今日はお休み?」
「おやすみ」
「そうなんだ。こんにちはは?」
「こんにちは」
果穂は少しだけもじもじしてから言った。
先生は笑って、それから自然に流奈を見る。
「お買い物ですか」
「旅館まで」
「そうなんですね」
そこまでは、いつもの調子だった。
でも次の瞬間、先生の目が環へ移る。
露骨ではない。けれど、一度見て、誰なのかを測る目だった。
「こちらは……?」
流奈は短く返す。
「知り合いです」
それだけで終わらせるつもりだった。
でも先生は一拍置いてから、また果穂のほうを見た。
「果穂ちゃん、ちょっとほっぺ赤いね」
「え?」
流奈はしゃがんで果穂の顔を見た。朝より少し赤い気もする。走ったせいかと思ったが、先生はもう一度やわらかく言った。
「熱っぽいほどじゃないかもしれないけど、少ししんどいのかなって」
「……そうですか」
「咳、出てません?」
「少しだけ」
流奈がそう答えると、先生は小さく頷いた。
「今日は無理させないで、早めに休ませてあげてくださいね」
「はい」
責める口調ではなかった。
でも、ちゃんと見ている大人の声だった。
流奈はその声に少しだけ息が詰まる。
見られること自体は嫌じゃない。嫌じゃないのに、見抜かれると足元が少し揺れる。
先生はそれ以上踏み込まなかった。
ただ、果穂へ向かって「また明日ね」と手を振り、それから環をもう一度だけ見た。
挨拶はしない。
追い払わない。
でも、流奈と果穂の側に立つ目だった。
環は会釈もしなかった。ただ、そこに立ったまま何も言わない。
その沈黙が、かえって外の人間の沈黙に見えた。
◇
旅館へ届け物を済ませた帰り道、空はすっかり明るくなっていた。
若い娘が裏口で洗った布巾を干していて、環を見るなり、今度は隠そうともせずに「あ」と言った。
「やっぱりそうだ」
環が足を止める。
流奈は止まらない。
「Paranoidの人ですよね」
「……まあ」
環の返事は曖昧だった。
娘は目を輝かせかけて、それから流奈の顔を見てすぐに熱を引っ込める。話しかけていい空気じゃないと察した顔だった。
「すみません、いや、なんか」
「いいよ」
環が先に切る。
娘はそれ以上言わずに、けれど環を見送る視線だけは少し熱かった。ここではただ浮いているだけの男が、外では名前で見つけられる。そのことが、流奈には少し遠かった。
それでも、ここでは違う。
ここでは流奈がいて、果穂がいて、その周りに旅館があって、商店があって、朝の挨拶がある。その輪の中に、環はまだ入っていない。
家へ戻る坂道に差しかかった頃、果穂が小さく咳をした。
流奈は足を止める。
「どうしたの」
「なんでもない」
声はいつも通りだった。
でも、少しだけ熱がこもっている気がした。
流奈は果穂の額へ手を当てる。はっきり熱いわけじゃない。ただ、朝よりあたたかい。
「帰ったら寝ようか」
「やだ」
「やだじゃない」
「ねむくない」
「寝る」
果穂は口を尖らせたが、それ以上は言い返さなかった。
環が一歩だけ近づく。
「熱あるのか」
「まだ決めつけないで」
「病院」
「そこまでじゃない」
流奈の返しは短い。
でも、その短さの奥に少しだけ焦りが混じる。先生に言われた言葉が、まだ耳のどこかに残っていた。
家の戸を開けて、果穂を先に中へ入れる。環は戸口の外で止まったまま、入ろうとしない。
その止まり方だけは、前よりましだった。
「……帰る」
環が言う。
流奈は戸を半分だけ閉めたまま、頷きもしない。
「そう」
「また来る」
「来なくていい」
「……何それ」
「来られても困る」
環は少しだけ言葉を詰まらせた。
「中に入れろって意味じゃねえよ」
「そういう話してない」
「わかってる」
環は少しだけ言葉を切った。
「でも、完全にいなくなる気はねえから」
押しているわけじゃない。
引いているわけでもない。
その中途半端さが、前より少しだけましで、だからこそ流奈には扱いづらかった。
「好きにすれば」
低く返す。
環はそれ以上言わなかった。
果穂が流奈の服を引いた。
「ママ」
「なに」
「ギターのひと、かえるの?」
「帰るよ」
「またくる?」
「……来るんじゃない」
流奈がそう言うと、果穂は戸口の隙間から環を見た。環は少しだけ目を細めて、それでも手を振ったりはしなかった。
そういうところも、少しだけ違う。
でも、その違いを今ここで言葉にしたくはなかった。
戸を閉める。
古い木が少し軋む。
外では風の中に海が鳴っている。町の人たちの目も、声も、その全部がまだ流奈の側に立っている。環はまだその外だ。流奈自身も、そう置いている。
その境界が、今日ははっきり見えた。
果穂がもう一度、小さく咳をした。
流奈は振り返る。
境界のことを考えるのは、いったんそこで終わった。




