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フォルステリ  作者: 七奈 菜々
22/27

第22話 境界線


 朝の風は、まだ少しだけ冷たかった。


 春はもう深くなっているはずなのに、海沿いの山の町では、日陰へ入るとすぐに肌の表面が冷える。流奈は戸を開けて、最初に空を見た。薄い雲が高く流れている。雨にはならないだろうと思ってから、果穂の上着を一枚多く持つ。


「かほ、靴」


「はいてる」


「ちゃんと踵入れて」

「はいってるって」


 果穂は口を尖らせながら、でも結局その場にしゃがみこんで、自分の靴の踵を押し込んだ。まだ小さい手がもたついている。流奈はそれを見て、直してやるか少しだけ迷って、やめた。時間はかかるが、自分でできるならそのほうがいい。


 鍵をかける。

 鞄を肩にかける。

 果穂の手を取る。


 それだけの、いつもの朝だった。


 前と違うのは、戸を閉めたあとに少しだけ周囲を見る癖がついたことだ。


 坂の下。旅館のほうへ折れる道。雑貨屋の前。誰もいないように見えて、それでもどこかに気配がある気がする。流奈はそのたび、何を探しているのかわからなくなる。


 いるならいるで面倒だし、いないならいないで、それも妙に落ち着かない。


 果穂が手を引いた。


「いこ」


「うん」


 歩き出す。

 坂の途中の草はもう濃くなっていて、朝露を少しだけ残している。

 風に混じる塩気も、五年経てばもう身体のどこかに馴染んでいる。


 道を折れたところで、おばさまが戸口を掃いていた。いつも朝が早い人だ。


「あら、流奈ちゃん、おはよう。今日は早いね」


「おはようございます」


 流奈が返すと、おばさまは箒を止めて果穂を見る。


「果穂ちゃんも一緒? えらいねえ」


 果穂は少しだけ流奈の脚の後ろへ隠れたあと、小さく「おはよう」と言った。


「おつかい?」

「ちがう」

「じゃあ、ママのお仕事についてくの?」

「うん」


 そのやり取りはいつもの柔らかさだった。けれど、その次の瞬間、おばさまの視線が流奈の肩越しへ抜けた。


 流奈も振り返らなくてもわかった。


 少し遅れて、環が坂を上ってくる。


 最初の何日かほど露骨ではない。それでも、ついてくる。追い詰めるような近さでは来ない。けれど、いなくなるわけでもない。旅館へ泊まっているらしいことも、町の誰かがもう知っている。


 おばさまの目が、環を見たまま少しだけ細くなる。


「……お知り合い?」


 訊き方は柔らかい。

 でも、その柔らかさは流奈に向けたもので、環へ向けたものではなかった。


 流奈は短く答えた。


「知り合いです」


 それ以上は言わない。


 おばさまは一拍置いてから、「そう」とだけ返した。環に挨拶もしない。追い返しもしない。ただ、流奈の側へ立つ目で、一度だけ上から下まで見た。


 環も何も言わなかった。


 言えばこじれるとわかっているのかもしれない。あるいは、ここで自分が何者でもないと、もう知っているのかもしれない。


 流奈はそのまま歩き出した。果穂が少しだけ後ろを振り返る。


「くるの?」


 環は答えに少しだけ詰まって、それから小さく言った。


「……まあ」


 果穂は「ふうん」とだけ返した。その言い方が妙に子どもっぽくなくて、流奈は少しだけ眉を寄せる。


 坂を下りながら、後ろに人の気配があるのがわかる。


 追われている、というほどではない。

 でも、自分の生活の輪の少し外に、まだ消えないものがついている感覚は落ち着かなかった。


         ◇


 商店の前では、配達用の牛乳ケースが積み上がっていた。


 小さい町の小さい店だから、朝は忙しい。野菜の箱、パンの納品、新聞の束。おじさんは店先でそれを捌きながら、果穂を見つけるとすぐに顔を緩めた。


「お、果穂ちゃん。今日は早いな」


「おはよ」


「元気か」

「げんき」


 おじさんは笑って、棚に入れる前の飴玉の袋を持ち上げた。


「ひとりでおつかいできるようになったか?」

「まだ」

「まだかあ」


 果穂は少し悔しそうな顔をした。そういう細かい感情の動きが、最近はもう顔に出る。


 流奈はそれを横目で見ながら、旅館に頼まれた醤油と味噌の伝票を鞄から出した。


「頼まれてた分、これです」

「ああ、はいはい」


 おじさんが伝票を受け取る。

 その時、背後に立つ環へようやく気づいたらしく、顔の筋肉がわずかに戻った。


 笑わない。

 追い払わない。

 でも、明らかに目が変わる。


 誰だ、という目だった。


 環はギターケースを肩にかけたまま、店先の端に立っている。町の景色に馴染まない。本人が悪いわけではなくても、馴染まないものは馴染まない。


「そっちは?」


 おじさんが訊く。


 流奈は伝票から顔を上げずに言った。


「知り合いです」


 その言い方は、おばさまに返した時と同じだった。


 それ以上ではない。

 それ以下でもない。


 おじさんは「ふうん」とだけ返した。興味がないわけではない。たぶん、町の誰もが同じくらい気にしている。でも、ここでずかずか聞くのは違うと判断した顔だった。


 果穂だけが、少し不思議そうに環を見た。


「ギターのおにいさん」


 ぽつりと言う。


 流奈の手が一瞬だけ止まる。

 環の目も、少しだけ動いた。


「知ってんのか」

 おじさんが笑い半分で言うと、果穂は小さく頷いた。

「きのうもいた」

「そうかあ」


 その「そうかあ」は、果穂に向いたものだった。環には向いていない。


 流奈は代金を払い、袋を受け取る。味噌と醤油だけで鞄の片側が少し重くなる。いつもなら果穂の手を引いてそのまま旅館へ行く。その流れを今日はどこかで見られている感じがする。


「持つ」


 環が言ったのは、店を出て少し歩いてからだった。


 流奈は振り返らない。


「いらない」

「重いだろ」

「重いよ」

「なら」

「でも、あんたはいい」


 環はそこで黙った。


 少し前の環なら、もう一言押したかもしれない。勝手に袋を取ろうとしたかもしれない。でも今はしない。しないくせに、そこにいる。


 その中途半端さが、流奈にはまだ信用できなかった。


 果穂は二人のやり取りを半分も理解していない顔で、道端の草を見ている。小さな白い花を見つけて、しゃがみそうになる。


「果穂、だめ」

「まだなにもしてない」

「しようとしてた」

「してない」


 そう言い返す速さが可笑しくて、環が少しだけ息を漏らした。笑ったのか、呆れたのか、その中間みたいな音だった。


 流奈はそれを聞いて、少しだけ目を細める。


 義父は、そういう目で子どもを見なかった。

 その違いに気づくたび、流奈は自分が嫌になる。

 違うところを数え始めたら、何かが崩れる気がした。


 だから流奈は、町の中ではなるべく硬いままでいた。


 ここで一度でも境界を曖昧にしたら、あっという間に中へ入ってこられる気がしたからだ。


         ◇


 保育所の前を通った時、ちょうど先生が門のところで子どもを迎えていた。


 明るいエプロン姿で、しゃがんで子どもと目を合わせながら話す人だ。果穂も何度か世話になっていて、顔は覚えている。


「あら、果穂ちゃん」


 先生はすぐに気づいて、柔らかく手を振った。


「今日はお休み?」

「おやすみ」

「そうなんだ。こんにちはは?」

「こんにちは」


 果穂は少しだけもじもじしてから言った。


 先生は笑って、それから自然に流奈を見る。


「お買い物ですか」

「旅館まで」

「そうなんですね」


 そこまでは、いつもの調子だった。


 でも次の瞬間、先生の目が環へ移る。

 露骨ではない。けれど、一度見て、誰なのかを測る目だった。


「こちらは……?」


 流奈は短く返す。


「知り合いです」


 それだけで終わらせるつもりだった。

 でも先生は一拍置いてから、また果穂のほうを見た。


「果穂ちゃん、ちょっとほっぺ赤いね」

「え?」


 流奈はしゃがんで果穂の顔を見た。朝より少し赤い気もする。走ったせいかと思ったが、先生はもう一度やわらかく言った。


「熱っぽいほどじゃないかもしれないけど、少ししんどいのかなって」

「……そうですか」

「咳、出てません?」

「少しだけ」


 流奈がそう答えると、先生は小さく頷いた。


「今日は無理させないで、早めに休ませてあげてくださいね」

「はい」


 責める口調ではなかった。

 でも、ちゃんと見ている大人の声だった。


 流奈はその声に少しだけ息が詰まる。

 見られること自体は嫌じゃない。嫌じゃないのに、見抜かれると足元が少し揺れる。


 先生はそれ以上踏み込まなかった。

 ただ、果穂へ向かって「また明日ね」と手を振り、それから環をもう一度だけ見た。


 挨拶はしない。

 追い払わない。

 でも、流奈と果穂の側に立つ目だった。


 環は会釈もしなかった。ただ、そこに立ったまま何も言わない。


 その沈黙が、かえって外の人間の沈黙に見えた。


         ◇


 旅館へ届け物を済ませた帰り道、空はすっかり明るくなっていた。


 若い娘が裏口で洗った布巾を干していて、環を見るなり、今度は隠そうともせずに「あ」と言った。


「やっぱりそうだ」


 環が足を止める。

 流奈は止まらない。


「Paranoidの人ですよね」

「……まあ」


 環の返事は曖昧だった。

 娘は目を輝かせかけて、それから流奈の顔を見てすぐに熱を引っ込める。話しかけていい空気じゃないと察した顔だった。


「すみません、いや、なんか」

「いいよ」


 環が先に切る。


 娘はそれ以上言わずに、けれど環を見送る視線だけは少し熱かった。ここではただ浮いているだけの男が、外では名前で見つけられる。そのことが、流奈には少し遠かった。


 それでも、ここでは違う。


 ここでは流奈がいて、果穂がいて、その周りに旅館があって、商店があって、朝の挨拶がある。その輪の中に、環はまだ入っていない。


 家へ戻る坂道に差しかかった頃、果穂が小さく咳をした。


 流奈は足を止める。


「どうしたの」

「なんでもない」


 声はいつも通りだった。

 でも、少しだけ熱がこもっている気がした。


 流奈は果穂の額へ手を当てる。はっきり熱いわけじゃない。ただ、朝よりあたたかい。


「帰ったら寝ようか」

「やだ」

「やだじゃない」

「ねむくない」

「寝る」


 果穂は口を尖らせたが、それ以上は言い返さなかった。


 環が一歩だけ近づく。


「熱あるのか」

「まだ決めつけないで」

「病院」

「そこまでじゃない」


 流奈の返しは短い。


 でも、その短さの奥に少しだけ焦りが混じる。先生に言われた言葉が、まだ耳のどこかに残っていた。


 家の戸を開けて、果穂を先に中へ入れる。環は戸口の外で止まったまま、入ろうとしない。


 その止まり方だけは、前よりましだった。


「……帰る」


 環が言う。


 流奈は戸を半分だけ閉めたまま、頷きもしない。


「そう」


「また来る」

「来なくていい」

「……何それ」

「来られても困る」


 環は少しだけ言葉を詰まらせた。


「中に入れろって意味じゃねえよ」

「そういう話してない」

「わかってる」


 環は少しだけ言葉を切った。


「でも、完全にいなくなる気はねえから」


 押しているわけじゃない。

 引いているわけでもない。


 その中途半端さが、前より少しだけましで、だからこそ流奈には扱いづらかった。


「好きにすれば」


 低く返す。


 環はそれ以上言わなかった。


 果穂が流奈の服を引いた。


「ママ」

「なに」

「ギターのひと、かえるの?」

「帰るよ」

「またくる?」

「……来るんじゃない」


 流奈がそう言うと、果穂は戸口の隙間から環を見た。環は少しだけ目を細めて、それでも手を振ったりはしなかった。


 そういうところも、少しだけ違う。


 でも、その違いを今ここで言葉にしたくはなかった。


 戸を閉める。

 古い木が少し軋む。


 外では風の中に海が鳴っている。町の人たちの目も、声も、その全部がまだ流奈の側に立っている。環はまだその外だ。流奈自身も、そう置いている。


 その境界が、今日ははっきり見えた。


 果穂がもう一度、小さく咳をした。


 流奈は振り返る。


 境界のことを考えるのは、いったんそこで終わった。

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