第21話 拒絶
電車を降りた時、海の匂いは思っていたより薄かった。
潮が正面から来るわけじゃない。駅の向こうに山があって、風はその間を抜けてくる。春の終わりに近い空気はまだ少し冷たく、ホームの端には去年の錆みたいな赤が残っていた。
環は改札を抜けて、駅前の小ささに一度だけ立ち止まった。
動画の画面で見た通りの町だと思う。
思ったところで、だから何だという感じもする。
ここに来れば会える保証なんか、最初からなかった。
けれど、もう来ないという選択肢はなかった。
駅前の雑貨屋の前には、小さなラジオが置かれていた。聞き覚えのあるイントロが、ごく小さい音で流れている。気づいたのは環だけで、店番の婆さんは煎餅の袋を並べる手を止めもしない。
自分の音が、知らない町の日常に混ざっている。
それが妙に気持ち悪かった。
環は視線を外した。
探すしかない。
町は小さい。朝市の動画が撮られていたくらいだから、中心の場所もたぶん限られている。港のほうへ行くか、商店の並ぶ通りへ行くか、旅館や食堂に聞くか――そう考えながら歩き出した時だった。
子どもの声がした。
「はやいってば」
先に聞こえたのは女の声ではなかった。高くて、少しだけ鼻にかかった、まだ幼い響きだった。環が反射みたいに顔を向けると、通りの向こうから小さな影が駆けてくる。
黄色い帽子はかぶっていない。
けれど、顔を見た瞬間に、胸の奥が変なふうに鳴った。
四つか五つくらいの女の子だった。頬がまるく、目だけが妙に強い。帽子のない顔を真正面から見た瞬間、尚人の軽口が嫌なくらい戻る。どこがだよと思ったはずなのに、目元と口のかたちだけはもう誤魔化しにくかった。
そのすぐ後ろから、声がした。
「果穂、走らないで」
環の足が止まる。
画面越しじゃない。
今度は風の中で、その声が鳴る。
環は顔を上げた。
流奈がいた。
肩のあたりで揺れる髪。町へ来る前、頭の中で何度も思い出した顔とは少し違う。頬の線がわずかに細くなって、目元は前より乾いて見える。けれど、声も、立ち方も、果穂を追って少しだけ息を上げるところも、全部、流奈だった。
五年ぶん探して、ようやく辿り着いたのに、最初に出たのは名前だけだった。
「……流奈」
流奈が顔を上げる。
目が合った瞬間、その身体が固まるのがわかった。
驚いている。
でも泣かない。
逃げもしない。
ただ、次の瞬間には果穂を自分の脚の後ろへ引いた。
その動きだけで、環の腹の底が冷える。
庇われたのだ、とわかる。
まず子どもを隠す、その反射で。
「……何で」
流奈の声は低かった。掠れてはいない。ただ、息だけが少し浅い。
「何でここにいんの」
「動画」
環はそれしか言えなかった。
「見た」
「……」
「声でわかった」
流奈の目が一瞬だけ揺れる。
けれど、そこに懐かしさみたいなものはなかった。見つかった、という警戒だけが先に立っている。
果穂が流奈の脚の後ろから環を見る。
「だれ?」
環はその問いに答えられなかった。
流奈も答えない。
代わりに、果穂の肩へ手を置いて、短く言う。
「帰るよ」
そのまま踵を返す。
環は一拍遅れて動いた。
「待て」
「待たない」
「流奈」
「果穂、こっち」
名前を呼ばれて、果穂は素直に流奈の横へつく。けれど、何度か後ろを振り返る。知らない男がついてくるのが珍しいのか、怖いのか、その両方かもしれない。
環は距離を詰めすぎないようにしながら後を追った。
町の通りは狭い。魚屋の前、雑貨屋の脇、古い旅館の暖簾。人は多くないのに、いないわけでもない。だから余計に、環がこの町で完全な余所者なのが目についた。
最初に声をかけてきたのは、二十歳そこそこに見える娘だった。旅館の前で箱を運んでいた手を止めて、環を見るなり目を丸くする。
「あれ、もしかして」
流奈は足を止めない。
娘は環と流奈を交互に見て、それから少しだけ気まずそうに笑った。
「え、ちょ、え?」
何もわかっていない顔だった。環のことは知っている。けれど、どうしてこの町で、どうして流奈の後ろにいるのかはわからない。その混乱が顔にそのまま出ている。
流奈は振り向きもしなかった。
さらに坂を上ると、近所のおばさまらしい女が戸口から顔を出した。
「流奈ちゃん?」
呼びかける声は柔らかいのに、目は環のほうを見ている。
「知ってる人?」
「……うん」
「そう」
それだけ言って、おばさまは引っ込まなかった。戸口の陰に立ったまま、流奈の背中よりも環の顔を見ている。警戒と、少しの詮索と、でも踏み込みすぎない距離。その町の空気が、そのまま人の目になったみたいだった。
環はようやく、ここでは自分が完全な余所者だと知る。
東京で、ライブハウスで、雑誌の小さな記事の中で、自分は前へ進んだつもりだった。けれどこの町では、ただの知らない男だ。しかも、果穂を連れた流奈の後ろを歩く、不穏な男にしか見えない。
それが、痛かった。
流奈は町の坂を折れて、小さな家の前で止まった。海は見えない。けれど風の音だけは入ってくる場所だった。古い戸。擦れた木。動画に映っていた朝市の光とは違う、生活の影のある家。
流奈は果穂を先に戸の内側へ入れようとした。
「……話させろ」
環の声は、自分でも驚くくらい低かった。
流奈は振り返らない。
「話すことない」
「あるだろ」
「ない」
果穂だけが、流奈と環を交互に見ている。
その仕草が、もうどうしようもなく現実だった。
目元と、見返してくる強さだけが、嫌になるくらい見覚えのあるものだった。
環は喉の奥で一度息を潰した。
「……その子、俺の子だろ」
流奈の手が止まる。
少しの沈黙のあと、ゆっくり振り返る。
「違う」
短く、硬かった。
「違わねえだろ」
「違う」
「流奈」
「違うって言ってる」
その言い方は、言い聞かせるみたいでもあった。
だから余計に、環は引けなかった。
「俺に何も言わないまま、それで違うって言うのか」
「言うよ」
即答だった。
「違う」
「……何を根拠に」
「根拠?」
流奈の目が一気に冷える。
「何しに来たの」
「……会いに来た」
「それで?」
風が戸の隙間で鳴った。
環は一瞬だけ、次の言葉を失う。
会いたかった。
確かめたかった。
置いていかれたまま終わりたくなかった。
でも、それをそのまま出したところで足りない。
足りないくせに、それ以外の言葉もまだ持っていなかった。
「……俺、知らなかったんだぞ」
「……」
「五年、何も」
「だから何」
流奈はその言葉を真正面から切った。
「今さら知って、何になるの」
流奈はその沈黙を見た。
「認めないから」
ぽつりと落ちた声は、怒鳴るよりよほど硬かった。
「……は?」
「あんなので出来たなんて認めない」
環は、そこで本当に言葉を失った。
果穂のことを言っているんじゃない。
それはすぐにわかった。
流奈が否定しているのは、果穂じゃない。
あの頃の自分と、あの距離と、あの触れ方と、そこから続いてしまった現実そのものだ。
だから余計に、何も返せなかった。
五年前、流奈は何も言わずに消えた。
その理由を知ってもなお、自分はどこかで、「自分は違う側だ」と思い続けていたのかもしれない。
でも流奈にとっては、違わないのだ。
違いきれないのだ。
見つかった瞬間に、過去ごと持っていかれそうになる。
主導権を奪われそうになる。
だから否定する。
環は喉の奥が熱くなるのを感じた。
「……それ、俺に言うかよ」
やっと出た声は、自分でも驚くくらい弱かった。
「言うよ」
「果穂は関係ねえだろ」
「果穂を否定してるわけじゃない」
流奈の返しは早かった。
「でも、あの時のまま受け取るのは無理」
「……」
「わかんないなら、それでいい」
果穂が、流奈の服の裾を引いた。
「ママ」
その一言で、空気が少し切れた。
流奈はすぐに視線を落として、果穂の頭に手を置く。環へ向いていた硬さが、その一瞬だけ別の方へ逸れる。
それを見て、環は余計に何も言えなくなった。
果穂がいる。
もう流奈一人の問題じゃない。
ここで怒鳴れば、全部が終わる。
でも引けば、また五年みたいに遠のく気もする。
どっちにも振れきれないまま、環は立ち尽くした。
流奈は果穂を庇うみたいに自分の前へ寄せたまま、低く言う。
「今日は帰って」
拒絶だった。
でも、二度と来るなではなかった。
環はその違いを、たぶん拾ってしまった。
「……帰れって言われて帰ったら、また消えるだろ」
反射でそう言うと、流奈の目がまた冷える。
「追ってきたのはそっち」
「だからって」
「だからって何」
声は上がらない。
でも一歩も引かない。
「ここはもう、あんたの知ってる場所じゃない」
「知ってるよ、そんなこと」
「わかってない」
流奈は短く切る。
「わかってないから、今そうやって立ってるんでしょ」
その言い方は、痛いくらい正しかった。
環は一度だけ息を飲んだ。
それでも、足は引かなかった。
「……仕事があるでしょ」
その言葉は、追い返すための現実だった。
環は少しだけ黙ってから答える。
「ある」
「じゃあ帰って」
「帰るよ」
そこで一拍置いて、環は流奈を見た。
「でも、時間なら作ってきたから」
流奈の眉がわずかに動く。
「……何それ」
「抜けてきた」
「は?」
「途中で」
流奈は呆れたみたいに息を吐いた。
「馬鹿じゃないの」
「馬鹿だよ」
環はそこで初めて少しだけ、自嘲みたいに口の端を歪めた。
「でも、片手間で来たわけじゃねえってことだけは、わかれよ」
流奈はすぐには返さなかった。
果穂だけが、二人のあいだを見上げている。
「知らない」
低く、乾いた声だった。
「そんなの、今さら言われても」
「今さらなのはわかってる」
「わかってない」
また切る。
「わかってるなら、もっと違う来方したでしょ」
その言葉は痛かった。
けれど環には、それに返す綺麗な言葉がなかった。
会いたかった。
確かめたかった。
また消える前に、目の前にいるうちに、どうにか掴みたかった。
そういうものを全部抱えたままここまで来た。
順番なんて、もう最初からぐちゃぐちゃだった。
「……それでも来た」
小さく言うと、流奈の目がほんの少しだけ揺れた。
でも、それはすぐに消える。
「だから何」
低く、硬い声だった。
流奈は果穂の肩を抱き寄せる。
「来たからって、何か返すと思わないで」
「返せなんて言ってねえ」
「言ってるのと同じ」
環はそこで、また言葉を失った。
流奈から見れば、ここへ来て、立って、時間を作ったと口にすること自体が、もう一つの圧なのだと、その顔が言っていた。
戸口の向こうでは、果穂がまだ環を見ていた。怖がっているわけではない。ただ、知らない男を判断しかねている目だった。
「……名前」
環はほとんど無意識に言った。
流奈が眉を寄せる。
「は?」
「果穂、って言ったよな」
流奈は答えない。
代わりに果穂が、小さく自分の胸を指した。
「かほ」
環の胸の奥で、何かがまた鳴った。
流奈はすぐに果穂の肩を抱き寄せる。
「果穂、中入って」
「やだ」
「入る」
「やだ」
「果穂」
少しだけ強い声になると、果穂は唇を尖らせた。それでも泣かずに、流奈の脚へしがみつく。
その仕草が、環にはどうしようもなく現実だった。
五年、知らなかったものがここにいる。
流奈の生活の真ん中にいる。
怒りも、問いも、全部、そいつの前では形を変えるしかない。
果穂がいる前で、これ以上強く出たら終わる。
それだけは環にもわかった。
「……また来る」
気づくと、そう言っていた。
流奈の目が細くなる。
「勝手にすれば」
「止めねえのかよ」
「止めて止まるなら、最初からここまで来てないでしょ」
その返しに、環は少しだけ口の端を歪めた。笑ったわけじゃない。もう何が正しいのか、自分でもわからなかった。
ただ、完全に切られてはいない。
でも信頼なんか、まだどこにもない。
その距離だけが、はっきりしている。
戸の向こうから、さっきのおばさまの視線がまだ薄く残っている気がした。坂の下では軽トラの音がする。海は見えないのに、風の中にだけ海がある。
環は一歩だけ下がった。
流奈は戸口から動かない。
果穂はその横で、まだ環を見ている。
迎えに来たんじゃない。
取り返せるとも思っていない。
けれど、会ってしまった以上、もういなかった頃には戻れない。
「……果穂」
環が小さくその名前を口にすると、果穂は首を傾げた。
流奈だけが、何も言わなかった。
戸が閉まる直前、環はその家の暗さを見た。古い木の匂いと、春の風と、生活の気配。流奈が五年かけて作った場所だ。
閉まった戸の前で、環はしばらく動かなかった。
完全に決裂したわけじゃない。
でも、遠さはそのままだ。
それでも、果穂の名前だけが、やけに鮮明に耳に残っていた。




