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フォルステリ  作者: 七奈 菜々
21/25

第21話 拒絶

 電車を降りた時、海の匂いは思っていたより薄かった。


 潮が正面から来るわけじゃない。駅の向こうに山があって、風はその間を抜けてくる。春の終わりに近い空気はまだ少し冷たく、ホームの端には去年の錆みたいな赤が残っていた。


 環は改札を抜けて、駅前の小ささに一度だけ立ち止まった。


 動画の画面で見た通りの町だと思う。

 思ったところで、だから何だという感じもする。


 ここに来れば会える保証なんか、最初からなかった。


 けれど、もう来ないという選択肢はなかった。


 駅前の雑貨屋の前には、小さなラジオが置かれていた。聞き覚えのあるイントロが、ごく小さい音で流れている。気づいたのは環だけで、店番の婆さんは煎餅の袋を並べる手を止めもしない。


 自分の音が、知らない町の日常に混ざっている。


 それが妙に気持ち悪かった。


 環は視線を外した。


 探すしかない。

 町は小さい。朝市の動画が撮られていたくらいだから、中心の場所もたぶん限られている。港のほうへ行くか、商店の並ぶ通りへ行くか、旅館や食堂に聞くか――そう考えながら歩き出した時だった。


 子どもの声がした。


「はやいってば」


 先に聞こえたのは女の声ではなかった。高くて、少しだけ鼻にかかった、まだ幼い響きだった。環が反射みたいに顔を向けると、通りの向こうから小さな影が駆けてくる。


 黄色い帽子はかぶっていない。

 けれど、顔を見た瞬間に、胸の奥が変なふうに鳴った。


 四つか五つくらいの女の子だった。頬がまるく、目だけが妙に強い。帽子のない顔を真正面から見た瞬間、尚人の軽口が嫌なくらい戻る。どこがだよと思ったはずなのに、目元と口のかたちだけはもう誤魔化しにくかった。


 そのすぐ後ろから、声がした。


「果穂、走らないで」


 環の足が止まる。


 画面越しじゃない。

 今度は風の中で、その声が鳴る。


 環は顔を上げた。


 流奈がいた。


 肩のあたりで揺れる髪。町へ来る前、頭の中で何度も思い出した顔とは少し違う。頬の線がわずかに細くなって、目元は前より乾いて見える。けれど、声も、立ち方も、果穂を追って少しだけ息を上げるところも、全部、流奈だった。


 五年ぶん探して、ようやく辿り着いたのに、最初に出たのは名前だけだった。


「……流奈」


 流奈が顔を上げる。


 目が合った瞬間、その身体が固まるのがわかった。


 驚いている。

 でも泣かない。

 逃げもしない。


 ただ、次の瞬間には果穂を自分の脚の後ろへ引いた。


 その動きだけで、環の腹の底が冷える。


 庇われたのだ、とわかる。

 まず子どもを隠す、その反射で。


「……何で」


 流奈の声は低かった。掠れてはいない。ただ、息だけが少し浅い。


「何でここにいんの」


「動画」


 環はそれしか言えなかった。


「見た」

「……」

「声でわかった」


 流奈の目が一瞬だけ揺れる。

 けれど、そこに懐かしさみたいなものはなかった。見つかった、という警戒だけが先に立っている。


 果穂が流奈の脚の後ろから環を見る。


「だれ?」


 環はその問いに答えられなかった。


 流奈も答えない。


 代わりに、果穂の肩へ手を置いて、短く言う。


「帰るよ」


 そのまま踵を返す。


 環は一拍遅れて動いた。


「待て」

「待たない」

「流奈」

「果穂、こっち」


 名前を呼ばれて、果穂は素直に流奈の横へつく。けれど、何度か後ろを振り返る。知らない男がついてくるのが珍しいのか、怖いのか、その両方かもしれない。


 環は距離を詰めすぎないようにしながら後を追った。


 町の通りは狭い。魚屋の前、雑貨屋の脇、古い旅館の暖簾。人は多くないのに、いないわけでもない。だから余計に、環がこの町で完全な余所者なのが目についた。


 最初に声をかけてきたのは、二十歳そこそこに見える娘だった。旅館の前で箱を運んでいた手を止めて、環を見るなり目を丸くする。


「あれ、もしかして」


 流奈は足を止めない。

 娘は環と流奈を交互に見て、それから少しだけ気まずそうに笑った。


「え、ちょ、え?」


 何もわかっていない顔だった。環のことは知っている。けれど、どうしてこの町で、どうして流奈の後ろにいるのかはわからない。その混乱が顔にそのまま出ている。


 流奈は振り向きもしなかった。


 さらに坂を上ると、近所のおばさまらしい女が戸口から顔を出した。


「流奈ちゃん?」


 呼びかける声は柔らかいのに、目は環のほうを見ている。


「知ってる人?」

「……うん」

「そう」


 それだけ言って、おばさまは引っ込まなかった。戸口の陰に立ったまま、流奈の背中よりも環の顔を見ている。警戒と、少しの詮索と、でも踏み込みすぎない距離。その町の空気が、そのまま人の目になったみたいだった。


 環はようやく、ここでは自分が完全な余所者だと知る。


 東京で、ライブハウスで、雑誌の小さな記事の中で、自分は前へ進んだつもりだった。けれどこの町では、ただの知らない男だ。しかも、果穂を連れた流奈の後ろを歩く、不穏な男にしか見えない。


 それが、痛かった。


 流奈は町の坂を折れて、小さな家の前で止まった。海は見えない。けれど風の音だけは入ってくる場所だった。古い戸。擦れた木。動画に映っていた朝市の光とは違う、生活の影のある家。


 流奈は果穂を先に戸の内側へ入れようとした。


「……話させろ」


 環の声は、自分でも驚くくらい低かった。


 流奈は振り返らない。


「話すことない」

「あるだろ」

「ない」


 果穂だけが、流奈と環を交互に見ている。


 その仕草が、もうどうしようもなく現実だった。

 目元と、見返してくる強さだけが、嫌になるくらい見覚えのあるものだった。


 環は喉の奥で一度息を潰した。


「……その子、俺の子だろ」


 流奈の手が止まる。


 少しの沈黙のあと、ゆっくり振り返る。


「違う」


 短く、硬かった。


「違わねえだろ」

「違う」

「流奈」

「違うって言ってる」


 その言い方は、言い聞かせるみたいでもあった。


 だから余計に、環は引けなかった。


「俺に何も言わないまま、それで違うって言うのか」

「言うよ」


 即答だった。


「違う」

「……何を根拠に」

「根拠?」


 流奈の目が一気に冷える。


「何しに来たの」

「……会いに来た」

「それで?」


 風が戸の隙間で鳴った。


 環は一瞬だけ、次の言葉を失う。


 会いたかった。

 確かめたかった。

 置いていかれたまま終わりたくなかった。


 でも、それをそのまま出したところで足りない。

 足りないくせに、それ以外の言葉もまだ持っていなかった。


「……俺、知らなかったんだぞ」

「……」

「五年、何も」

「だから何」


 流奈はその言葉を真正面から切った。


「今さら知って、何になるの」


 流奈はその沈黙を見た。


「認めないから」


 ぽつりと落ちた声は、怒鳴るよりよほど硬かった。


「……は?」

「あんなので出来たなんて認めない」


 環は、そこで本当に言葉を失った。


 果穂のことを言っているんじゃない。

 それはすぐにわかった。


 流奈が否定しているのは、果穂じゃない。

 あの頃の自分と、あの距離と、あの触れ方と、そこから続いてしまった現実そのものだ。


 だから余計に、何も返せなかった。


 五年前、流奈は何も言わずに消えた。

 その理由を知ってもなお、自分はどこかで、「自分は違う側だ」と思い続けていたのかもしれない。


 でも流奈にとっては、違わないのだ。

 違いきれないのだ。


 見つかった瞬間に、過去ごと持っていかれそうになる。

 主導権を奪われそうになる。

 だから否定する。


 環は喉の奥が熱くなるのを感じた。


「……それ、俺に言うかよ」


 やっと出た声は、自分でも驚くくらい弱かった。


「言うよ」

「果穂は関係ねえだろ」

「果穂を否定してるわけじゃない」


 流奈の返しは早かった。


「でも、あの時のまま受け取るのは無理」

「……」

「わかんないなら、それでいい」


 果穂が、流奈の服の裾を引いた。


「ママ」


 その一言で、空気が少し切れた。


 流奈はすぐに視線を落として、果穂の頭に手を置く。環へ向いていた硬さが、その一瞬だけ別の方へ逸れる。


 それを見て、環は余計に何も言えなくなった。


 果穂がいる。

 もう流奈一人の問題じゃない。


 ここで怒鳴れば、全部が終わる。

 でも引けば、また五年みたいに遠のく気もする。


 どっちにも振れきれないまま、環は立ち尽くした。


 流奈は果穂を庇うみたいに自分の前へ寄せたまま、低く言う。


「今日は帰って」


 拒絶だった。

 でも、二度と来るなではなかった。


 環はその違いを、たぶん拾ってしまった。


「……帰れって言われて帰ったら、また消えるだろ」


 反射でそう言うと、流奈の目がまた冷える。


「追ってきたのはそっち」

「だからって」

「だからって何」


 声は上がらない。

 でも一歩も引かない。


「ここはもう、あんたの知ってる場所じゃない」

「知ってるよ、そんなこと」

「わかってない」


 流奈は短く切る。


「わかってないから、今そうやって立ってるんでしょ」


 その言い方は、痛いくらい正しかった。


 環は一度だけ息を飲んだ。

 それでも、足は引かなかった。


「……仕事があるでしょ」


 その言葉は、追い返すための現実だった。


 環は少しだけ黙ってから答える。


「ある」


「じゃあ帰って」


「帰るよ」


 そこで一拍置いて、環は流奈を見た。


「でも、時間なら作ってきたから」


 流奈の眉がわずかに動く。


「……何それ」


「抜けてきた」


「は?」


「途中で」


 流奈は呆れたみたいに息を吐いた。


「馬鹿じゃないの」


「馬鹿だよ」


 環はそこで初めて少しだけ、自嘲みたいに口の端を歪めた。


「でも、片手間で来たわけじゃねえってことだけは、わかれよ」


 流奈はすぐには返さなかった。


 果穂だけが、二人のあいだを見上げている。


「知らない」


 低く、乾いた声だった。


「そんなの、今さら言われても」


「今さらなのはわかってる」

「わかってない」


 また切る。


「わかってるなら、もっと違う来方したでしょ」


 その言葉は痛かった。

 けれど環には、それに返す綺麗な言葉がなかった。


 会いたかった。

 確かめたかった。

 また消える前に、目の前にいるうちに、どうにか掴みたかった。


 そういうものを全部抱えたままここまで来た。

 順番なんて、もう最初からぐちゃぐちゃだった。


「……それでも来た」


 小さく言うと、流奈の目がほんの少しだけ揺れた。


 でも、それはすぐに消える。


「だから何」


 低く、硬い声だった。


 流奈は果穂の肩を抱き寄せる。


「来たからって、何か返すと思わないで」

「返せなんて言ってねえ」

「言ってるのと同じ」


 環はそこで、また言葉を失った。


 流奈から見れば、ここへ来て、立って、時間を作ったと口にすること自体が、もう一つの圧なのだと、その顔が言っていた。


 戸口の向こうでは、果穂がまだ環を見ていた。怖がっているわけではない。ただ、知らない男を判断しかねている目だった。


「……名前」


 環はほとんど無意識に言った。


 流奈が眉を寄せる。


「は?」

「果穂、って言ったよな」


 流奈は答えない。


 代わりに果穂が、小さく自分の胸を指した。


「かほ」


 環の胸の奥で、何かがまた鳴った。


 流奈はすぐに果穂の肩を抱き寄せる。


「果穂、中入って」

「やだ」

「入る」

「やだ」

「果穂」


 少しだけ強い声になると、果穂は唇を尖らせた。それでも泣かずに、流奈の脚へしがみつく。


 その仕草が、環にはどうしようもなく現実だった。


 五年、知らなかったものがここにいる。

 流奈の生活の真ん中にいる。


 怒りも、問いも、全部、そいつの前では形を変えるしかない。


 果穂がいる前で、これ以上強く出たら終わる。

 それだけは環にもわかった。


「……また来る」


 気づくと、そう言っていた。


 流奈の目が細くなる。


「勝手にすれば」

「止めねえのかよ」

「止めて止まるなら、最初からここまで来てないでしょ」


 その返しに、環は少しだけ口の端を歪めた。笑ったわけじゃない。もう何が正しいのか、自分でもわからなかった。


 ただ、完全に切られてはいない。

 でも信頼なんか、まだどこにもない。


 その距離だけが、はっきりしている。


 戸の向こうから、さっきのおばさまの視線がまだ薄く残っている気がした。坂の下では軽トラの音がする。海は見えないのに、風の中にだけ海がある。


 環は一歩だけ下がった。


 流奈は戸口から動かない。

 果穂はその横で、まだ環を見ている。


 迎えに来たんじゃない。

 取り返せるとも思っていない。

 けれど、会ってしまった以上、もういなかった頃には戻れない。


「……果穂」


 環が小さくその名前を口にすると、果穂は首を傾げた。


 流奈だけが、何も言わなかった。


 戸が閉まる直前、環はその家の暗さを見た。古い木の匂いと、春の風と、生活の気配。流奈が五年かけて作った場所だ。


 閉まった戸の前で、環はしばらく動かなかった。


 完全に決裂したわけじゃない。

 でも、遠さはそのままだ。


 それでも、果穂の名前だけが、やけに鮮明に耳に残っていた。

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