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フォルステリ  作者: 七奈 菜々
20/25

第20話 声


 レコーディングの合間、スタジオの空気は少しだけ弛んでいた。


 録り直したばかりのギターの残響が、まだ耳の奥にうっすら残っている。ブースの扉は半開きで、床にはシールドが蛇みたいに這っていた。司はソファの背に腕をかけて歌詞ノートを見ている。毅はペットボトルの水を半分まで一気に飲み、尚人は床に胡座をかいたままベースの弦を無意味に弾いていた。


 環はガラケーを灰皿の横に放って、冷めた缶コーヒーに口をつけた。


 まずい。


 でも、眠気も苛立ちも、そういう苦さでごまかすしかない日だった。朝から三本録って、一本ボツになって、司に二回睨まれている。集中していないわけじゃない。しているのに、何かがずっと半拍ぶんだけ遅い。


 ガラケーが震えた。


 画面に出た「母」の文字を見て、環は少しだけ顔をしかめる。


「珍し」


 尚人がすぐに食いつく。


「ママ?」

「うるせえ」


 環は立ち上がりもせずに通話ボタンを押した。


「もしもし」

『あ、環?』

「何」

『今ちょっと時間ある?』

「ない」

『あるじゃない』

「何だよ」


 電話の向こうの母は、妙に楽しそうだった。


『ちょっと、すっごいの見つけたんだけど』

「は?」

『動画見てたらね、あんたにそっくりの子が映ってるの』

「……何言ってんの」

『ほんとほんと。めちゃくちゃ似てるの。ちっちゃい女の子なんだけど、目元があんたで笑っちゃって』

「気のせいだろ」

『気のせいでわざわざ電話しないわよ。見てよ』


 尚人がこっちを見て、にやっとする。


「何だって?」

「黙ってろ」


 環は手で追い払うみたいにしながら、電話の向こうへ低く言う。


「どうせ地方のガキだろ」

『そうよ、たぶん地方の町おこし動画みたいなやつ。朝市で、ちっちゃい子が映っててね』

「知らねえよ」

『似てるから見なって言ってんの』

「何て動画」

『タイトルがね、“海風朝市 春の便り”』

「……」

『黄色い帽子かぶって走ってる子。絶対笑うから』


 環は一瞬だけ黙った。


 笑う、という言葉の軽さが妙に引っかかった。けれど、母は本当にただ面白がっているだけなのだと、その声でわかる。


 そこで司が顔を上げた。煙草の代わりにシャーペンを指で回しながら、環の顔色だけを見ている。


『今、パソコンの前いる?』

「いねえよ」

『じゃあ、誰かいるとこ?』

「いるけど」

『タイトルももう一度言うから、ちょっと見なさいよ』

「何で」

『いいから』

「……タイトル」

『“海風朝市 春の便り”ってやつ。たぶん最近の。女の子が黄色い帽子かぶってるとこ』

「黄色い帽子」


 環が繰り返すと、尚人が「何その情報」と吹き出しかけた。けれど司が無言でそちらを見ると、すぐに黙る。


『見たら電話して。感想聞きたい』


 そこでようやく、環は少しだけ息を吐いた。


「はいはい」

『じゃあね』


 通話を切ると、尚人がすぐ口を開いた。


「何、環んの隠し子?」

「殺すぞ」

「似てる子どもって何だよ」

「知らねえよ」


 吐き捨てるみたいに返しても、自分の声が少しだけ硬いのがわかる。


 司がノートを閉じた。


「で」

「……動画見ろって」

「見るか」


 それだけ言って立ち上がる。毅も無言で続き、尚人は「え、マジで?」と言いながらついてきた。


 スタジオ奥の狭い休憩スペースには、古いデスクトップが一台だけ置いてある。司が椅子を引いて座り、環はその横に立った。尚人と毅は後ろから画面を覗き込む。


「タイトル」

「海風朝市 春の便り」


 司が打ち込む。

 検索結果がいくつか並んで、その中に地方の観光協会だか商工会だかのチャンネルの動画が出た。サムネイルには、小さな港町の朝市らしい風景と、画面の端に黄色い帽子の子どもがいる。


「これか」

「再生しろ」


 司がクリックした。


 動画は何の変哲もない地方の宣伝だった。

 朝の海。魚を並べる店先。年寄りの笑い声。野菜の段ボール。カメラはゆっくりと朝市を舐めるように動く。


 黄色い帽子の子どもが、画面の左から走り込んできた。


 小さい。

 四つか五つくらいだろうか。頬が丸く、目だけが妙に強い。環はそこで妙な違和感を覚えたが、まだそれだけだった。


「……何か、ちっさい環んいるじゃん」


 尚人が半分笑いながら言う。


「は?」


 環はそこで初めて、もう一度画面を見た。


 どこが、と思う。

 子どもは子どもで、丸くて、帽子の下の顔なんてまだよく見えない。


「目元?」

 毅が適当に言う。


「似てねえだろ」

 環は低く返した。


 でも、そのくせ妙に引っかかった。


 子どもはすぐに画面の外へ走っていく。カメラはそのまま朝市の魚へ寄っていき、店の婆さんが何かを話し始めた。


 そこで、画面の外から声がした。


『果穂、こっち』


 環の身体が先に反応した。


「……は」


『走らないで』


 短い、低い、少しだけ掠れた声。

 大きくはないのに、音の抜け方だけがやけにはっきりしている。


 司が画面から目を離して環を見る。


 環はもう、子どもの顔なんか見ていなかった。スピーカーの縁を見たまま、息を止めている。


「もっかい」


 環の声は、自分でもわかるくらい低かった。


「巻き戻せ」

「おい」

「早く」


 司は何も言わずに再生位置を戻した。尚人が「え、何」と半笑いのまま止まる。毅だけが、後ろで煙草の箱を握り直した。


 もう一度、朝市の風景。

 黄色い帽子の子ども。

 走って、消える。

 魚。

 婆さん。

 その外側から、


『果穂、こっち』

『走らないで』


 環は画面を見たまま、ほとんど息みたいな声で言った。


「流奈の声だ」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 尚人が一番先に「は?」と声を出したが、それも半拍遅れていた。毅は黙ったまま環の横顔を見ている。司だけが、画面を止めずに最後まで流し切ってから、静かに言った。


「……確かか」

「確かだ」


 今度は迷わなかった。


 顔じゃない。

 子どもの目元でも、黄色い帽子でもない。


 あの短く切るみたいな呼び方。

 「こっち」の音の抜け方。

 少しだけ低く、でも平らに聞こえる声。


 流奈だ。


 五年、思い出していたのは顔より先に声だったのかもしれないと、環は今さら知る。


「概要欄」

 環が言う。

「場所」


 司がすぐに画面の下へ視線を落とした。

 動画の概要欄。

 投稿者の名前。

 撮影協力。

 小さな町の名前。

 県名。

 「海沿いの山間部にある朝市」だの、「春の観光企画」だの、どうでもいい説明が並ぶ。


 でも、そのどうでもいい文字列の中に、行き先がある。


「ここか」


 司が画面を指す。


 環はその地名を目でなぞった。知らない町だった。聞いたこともない。海沿い。山のほう。電車の乗り継ぎが悪そうな場所。だからこそ、流奈がいる気がした。


 胸の奥で、止まっていた針が一気に振れた。


 会えるかもしれない、という熱と、会ってどうするんだという冷たさが同時に来る。五年ぶん何も知らない相手だ。顔を見て、すぐに何かが元に戻るわけじゃない。そもそも会いたいのかどうかさえ、流奈のほうはわからない。


 でも、それでも。


 会いに行くしかない。


 環は立ち上がった。椅子の脚が床を擦って、嫌な音がする。


「おい」

 尚人が慌てる。

「今から?」

「今から」


 環はもう画面を見ていなかった。頭の中では電車の時間と、明日の予定と、財布の中身だけが一気に走る。何を持って行く。どこまで乗る。最終は。泊まる場所は。そんなものは後でいい。とにかく先に動かないと、また何かが遠のく気がした。


 ガラケーを取って、母へかけ直す。

 ワンコールで出た。


『見た?』

「見た」

『でしょ? 似てたでしょ?』


 環は一瞬だけ黙って、それから短く言った。


「ありがとな」


 それだけで切った。


 電話の向こうで、母がたぶん「は?」みたいな顔をしているのが目に浮かぶ。けれどもう、それを説明している暇はなかった。


 尚人が目を丸くする。


「何その返し」

「うるせえ」

「マジで行く気かよ」

「行く」


 司が立ち上がる。


「毅、明日の入り時間、先方にずらせるか確認しろ」

「わかった」

「尚人、環のチケット取れ」

「え、オレ?」

「早くしろ」


 尚人が「うわマジか」と言いながらガラケーを取り出す。毅はもう壁際の電話へ向かっている。


 環だけが、その速さについていけなかった。


「……いいのかよ」

「うるせえ」


 司が言う。


「ここで行かなかったら、たぶんお前一生うるせえぞ」


 その言い方に、環は少しだけ口の端を歪めた。笑ったわけじゃない。笑えるほど軽くない。ただ、五年前からずっとそこで止まっていた何かに、ようやく手がかかった感じがした。


 ガラケーをポケットに押し込む。

 ケースを肩にかける。

 血が戻る、というのはこういう感じなのかもしれないと思う。五年間、どこかでずっと鈍かったものが、急に身体の隅まで走る。


 怖くないわけじゃない。


 むしろ怖い。

 会って、流奈がどんな顔をするのか。

 自分を見て、何を言うのか。

 あるいは、何も言わないのか。


 それでも、もう会いに行くしかない。


 動画の画面はまだ止まったままだった。黄色い帽子の子どもが半端な位置で横を向いている。その奥には魚の箱と、春の朝の光。どこにでもある地方の宣伝動画みたいな画面なのに、環にとってはそこだけが急に世界の中心になった。


「チケット取れた!」

 尚人が少し裏返った声で言う。

「乗り継ぎやばいけど、今出れば夜には着ける!」

「宿」

 司が言う。

「駅前のビジホ一個だけ空いてる」

「押さえろ」

「押さえた!」


 環は司を見る。


 司はいつもの顔に戻っていた。戻っているのに、目だけは少しだけ鋭い。


「会って終わると思うなよ」

「……わかってる」

「たぶんわかってねえだろうけど、行け」


 環は頷いた。


 それしかできなかった。


 五年止まっていたものが、ようやく動き出す。感動とか奇跡とか、そういう綺麗な感じではない。ただ、止まっていた針が急に振れて、息の仕方まで変わるだけだ。


 環はケースを肩にかけた。


 会いに行く。

 もう、それしかなかった。

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