第19話 五年
朝の風は、春でもまだ少し海の塩気を含んでいた。
流奈は戸を開けると、最初に洗濯桶を外へ出した。夜のあいだに湿った布をもう一度風に当てる。次に小鍋へ水を入れて火にかける。振り返ると、まだ眠たそうな目をした果穂が薄い布団の上で身を起こしていた。
「かほ、顔」
「ん……」
「先に洗う」
果穂は小さく頷いて、ふらつく足で流奈のほうへ来る。四つになった身体はまだ軽い。けれど、抱き上げると前よりずっと意思がある。自分で歩き、自分で嫌がり、自分で笑う。生まれたばかりの頃みたいに、ただ守ればいいだけの重さではなくなっていた。
流奈は桶の水で果穂の顔を拭いた。冷たい、と言って顔をしかめるその様子に、春先の朝の浅い光が当たる。
「今日はおとなしくしてて」
「やだ」
「やだじゃない」
「おそといく」
「あとで」
口だけは一人前だと思う。
流奈は笑わずにそう思って、顔を上げた。坂の下から軽トラの音がしている。海は家から見えない。けれど風の中にだけ海がある。五年経っても、その感じは変わらない。
この町に来た時、流奈はただ隠れるための場所を探していた。母も義父もいない、誰も自分を知らない、子どもがいても変に説明しなくていい場所。それだけでよかった。
今は、そこへ暮らしが乗っている。
古い家の戸の建てつけは相変わらず悪いし、冬になれば隙間風は容赦ない。春になっても、油断すれば封筒の金はすぐに薄くなる。町の手伝い仕事は安定しないし、果穂が熱を出せばそれだけで何日ぶんかの予定が崩れる。
それでも、五年のあいだに流奈は、この町でどうやって息を継ぐかだけは覚えた。
旅館の朝の仕込みを手伝う日。
海産物の箱詰めをする日。
何も入らない日は家で果穂を見ながら繕い物をする日。
どれも立派な生活ではない。褒められるような母親でもない。ただ、日を繋いできた。
果穂の服を洗い、爪を切り、熱が出れば一晩中背中を撫でる。好きとか愛しいとか、そういう言葉より先に、「この子を死なせない」が五年かけて身体に染みついた。
それだけは、間違いなく本当だった。
朝飯を簡単に済ませて、流奈は果穂の髪を手早く結び直した。短い髪がまだ跳ねる。
「いい?」
「いたい」
「引っ張ってない」
「ひっぱった」
「気のせい」
「きのせいじゃない」
口を尖らせる果穂を見て、流奈は一瞬だけ唇を緩めた。
こういう顔を、自分がするようになるとは思わなかった。
果穂は流奈の顔をじっと見て、それから満足したみたいに流奈の脚へ抱きついた。甘えるのは一瞬だけで、そのあとはすぐに玄関の外へ出たがる。誰に似たのか、じっとしていない。
流奈は鍵をかけながら、坂の向こうを見た。
春の光は冬より長い。山の影の色も少し薄い。町は相変わらず小さく、相変わらず人が少ない。それでも、この五年で自分の足の幅くらいの居場所はできたのだと思う。
完全に馴染んだわけじゃない。
今も余所者だ。
でも、ここで果穂を育てている流奈を、町は見ないふりだけではなく、少しだけ見慣れはじめている。
それが救いかどうかは、まだわからなかった。
◇
東京へ出たのは、三年前だった。
Paranoidの名前がインディーズの界隈で少しずつ知られはじめて、ライブのたびに客の顔ぶれが変わるようになって、司が「次はでかいとこ押さえる」と言い出した頃だ。毅は口では軽く笑いながら、誰より機材の金勘定に強くなった。尚人は調子に乗る時と落ち込む時の差が相変わらず大きく、そのたびに司に蹴られていた。
環も前へ進んでいた。
進むしかなかった、と言ったほうが近いかもしれない。
流奈がいなくなってすぐの頃は、音を鳴らしているほうが楽だった。考えなくて済むからだ。ギターを持っている時だけ、何かを追いかける感覚が少しだけ別のものにすり替わる。
司はそのことをたぶん最初から知っていた。
「逃げるなよ」
何度も言われた。
探すなら探すで、やれ。
音をやるならやるで、逃がすな。
半端に沈んだまま入ってくるな。
司は甘くない。だからこそ環は、音のほうでは前へ押し出された。
インディーズの小さいレーベルに拾われて、レコーディングをして、初めてまとまった額のギャラをもらった時、環はそれをすぐに実感できなかった。紙の明細と、スタジオ代と、機材代と、交通費。大人の金の動きに自分が乗った感じが、しばらく現実味を持たなかった。
それでも、司の歌に自分のギターが乗り、毅のドラムと尚人のベースが前より大きい場所で鳴るようになっていくのは事実だった。
客が増える。
雑誌に小さく名前が載る。
地方のラジオで曲が流れる。
動画投稿サイトにライブ映像が上がる。
そういうことが一つずつ起きるたび、環は「ここまで来たのか」と思う前に、「ここまで来ても消えねぇんだな」と思った。
流奈のことだ。
五年も経てば、きれいに終わるものもあるはずなのに、そこだけは終わらなかった。
探さなかったわけではない。
最初の半年は、環にできる範囲でひどく探した。学校へ行き、家へ行き、駅前を歩き、繁華街を何度も回った。少し時間が経ってからは、地方へライブに行くたび、街の空気の中に似た背中を探すようになった。駅前のコンビニ、古い商店街、ライブハウスの裏口、そういう場所に流奈が立っていそうな気がして、無意識に目が止まることがあった。
それを尚人に知られて、「環ん、まだやってんの」と半分呆れられたこともある。
毅はそういう時、何も言わずに煙草を吸った。
司だけが一度、「探すのをやめろとは言わねえけど、探してる自分に酔うなよ」と言った。
腹が立った。
でも、その通りでもあった。
環は流奈を物語みたいに抱えていたわけではない。ただ、終わらせ方がわからなかった。五年前、玄関先で流奈の母から聞いた言葉――見たのよ、忘れ物を取りに戻った時に――それが、何をどう考えても音の外へ落ちていかない。
あの時、環は初めて自分の若さを知ったのだと思う。
違う側だと思っていた。
自分はもっとましだと思っていた。
でも、流奈にとって男はもう種類の違いではなく、信じた先が地獄になるかもしれないものだった。そこを理解するのが、自分は遅すぎた。
その遅さは、五年経っても消えない。
だからといって、環は立ち止まらなかった。
バンドは進む。
音は前へ行く。
止まりたい日でも、司は容赦なくスタジオを押さえ、毅はドラムのチューニングをし、尚人は遅刻して怒鳴られる。
その繰り返しの中で、環も前へ出るしかなかった。
プロになった、と周りは言うようになった。
環自身は、その言葉をまだ完全には飲み込んでいない。ただ、やめられないものが職業の顔をしはじめただけだと思っている。
Paranoidがメジャーへ上がったのは、三年前だった。
先に行った、という実感は環にはあまりない。ただ、インディーズの延長みたいな顔で東京へ出て、そのまま戻れなくなっただけだ。けれど外から見れば、それははっきりした線だったらしい。
Cliveがその線を越えたのは、さらにニ年ほど後だった。
その話は、大輝から普通に聞いた。打ち上げの端だったか、機材を片づけた帰りだったか、もう細かい場面は覚えていない。ただ、「うちらも決まった」と大輝が言って、唯がその横で少しだけ笑っていた顔は残っている。
後ろから追いついてきた、という感じではなかった。あいつらはあいつらの速さで前へ出たのだと思う。
それでも、五年は確かに過ぎた。
◇
村の雑貨屋の前には、小さなラジオがいつも鳴っていた。
朝は天気予報。
昼は演歌や昔の歌。
夕方になると、若い人向けの番組らしいものが混じることもある。
その日、流奈は旅館への届け物を頼まれて、果穂の手を引いたまま店先を通った。春なのに風はまだ少し冷たく、果穂は鼻の頭だけ赤くしている。
ラジオから、聞き覚えのあるギターの音が流れた。
最初の一音でわかった。
流奈の足が止まる。
「おねえちゃん、どうしたの」
店番の若い女が笑いながら言う。流奈はすぐに首を振った。
「……何でもない」
何でもないわけがないのに、そう言うしかない。
ラジオの中では、司の声が鳴っている。その下で、環の癖のあるリフが少しだけ前へ出る。五年も経っているのに、流奈の身体はその音を覚えていた。
果穂は流奈の手を引いた。
「いこうよ」
「……うん」
歩き出してからも、背中のほうで音が続いている。誰もそんなふうには聞いていない。ただのラジオの曲として流している。けれど流奈だけが、その音の出どころに名前を持っている。
環。
心の中で呼んで、すぐにやめる。
もう五年だ。
環は音のほうへ行ったのだろうと思っていた。そうであってほしかった。自分とは違う場所で、ちゃんと前へ進んでいてほしいとも思っていた。
でも、こんなふうに知らない町のラジオから聞こえてくると、前へ進んだ時間の長さだけが急に現実になる。
果穂が流奈の横顔を見上げる。
「しってるの?」
「……知らない」
「いま、しってるかおした」
「気のせい」
果穂は納得しない顔をしたが、それ以上は言わなかった。その代わり、耳に残ったらしいリフを変な調子で鼻歌にしていた。
旅館へ荷物を届けると、台所の奥で若い板前見習いが雑誌を広げながら言った。
「今のバンド、最近すげえっすよね」
「ああ、都会の」
「動画も回ってるし」
「何て名前だっけ」
「Paranoid」
流奈は皿を置く手を止めなかった。
でも、指先だけが少し硬くなった。
若い板前見習いは気づかずに続ける。
「ギターの人、めっちゃ格好いいんすよ。うちの妹がキャーキャー言っててさ」
「へえ」
「今度、店のパソコンで見せますよ」
旅館の女将が「仕事しな」と笑う。軽い空気だった。誰にとってもそれはただの話題のひとつで、春の町に流れる新しい音のひとつでしかない。
流奈だけが、その音の向こうに五年を見ていた。
◇
果穂を寝かせたあと、流奈は戸を少しだけ開けて外の風を入れた。
海は見えない。けれど風の中にだけ海がある。春の夜の湿り気は、冬よりずっとやわらかい。果穂の寝息は薄い布団の向こうで小さく続いている。
五年。
そう思うと、長いようでいて、あっという間でもあった。
果穂はもう自分で歩く。
自分で喋る。
自分で笑う。
流奈はこの子を中心に生きるようになった。
それは美しい母性なんかではなく、もっと切実な習慣だった。明日の飯、明日の体温、明日の服。そういう細かいものを繋いでいくうちに、自分一人の人生ではなくなった。
それでも、止まったままのものがある。
環の声ではなく、ギターの音だけを先に思い出してしまうこと。
あの家に戻れなかったこと。
何も言わずに消えたままの自分を、どこかでまだ終わらせていないこと。
一方で環も、きっと五年を生きたのだろうと思う。
音のほうへ進み、
誰かに叱られ、
誰かに笑われ、
それでもギターを持って、今はラジオに流れる側にいる。
失った五年ではない。
それでも生きてきた五年だ。
流奈は戸を閉めた。
部屋の中は静かだ。果穂の寝息だけがある。
でも、その静けさの底で、何かがもうすぐ動く感じがした。
止まっていたものが、勝手にではなく、形を持って。
流奈は暗い部屋の中で、しばらく果穂の寝顔を見た。それから小さく息を吐いて、布団の横へ座る。
村の若い子が言っていた。
動画も回ってるし。
その言葉だけが、春の夜の中でまだ消えずに残っていた。




