第18話 三年
第18話 三年
流奈が消えて、最初の一週間は駅前ばかり歩いていた。
部屋にも来ない。ライブハウスの前にもいない。駅裏にも、あの小さな公園にもいない。似たような背格好の女を見つけるたび足が止まるのに、近づけば全部違う。コンビニの白い灯りの下でも、自販機の影でも、流奈はいなかった。
最初は腹が立っていた。
何で何も言わねえんだ、とは思った。
何で勝手に消える、とも思った。
でも、その怒りは長く続かなかった。
少し落ち着くたびに、何も知らなかった自分のほうが戻ってくる。言わせるだけの場所にもなれていなかったくせに、置いていかれたみたいな顔をしている自分が、だんだん嫌になった。
十日を過ぎたあたりからは、それだけでは済まなくなった。腹が立つのと同じだけ、嫌な想像が増える。知らない男と歩いていた、という尚人の曖昧な目撃談が何度も戻る。夜の街へ戻ったのかもしれない。家に閉じ込められたのかもしれない。もっと遠くへ行ったのかもしれない。
どれも確かめようがない。
その頃、大輝と唯も流奈が来ないことに気づいていた。
最初は、たまたまだと思っていた。来る日も来ない日もある。箱の前にいても、物販を覗くだけで帰る日もある。そういう子だったから、三日や四日ではまだ変だとは言い切れなかった。
でも、さすがに一か月近く顔を見ないと違う。
スタジオの帰り、大輝が環に言った。
「なあ、流奈ちゃん最近来てないよな」
環はその時、うまく返せなかった。
「……知らねえ」
「いや、知らねえって」
「お前のほうが一緒にいたじゃん」
「病気とか?」
「家のこととか、何かあった?」
唯は横で何も言わなかった。
ただ、少しだけ困った顔をしていた。
その次の合同ライブの日、唯は物販の下から一枚だけCDを出した。
「これ、流奈ちゃんの分で置いとく」
大輝がそれを見て、少しだけ黙る。
「来たら渡そ」
環はその時、妙に腹の奥がざわついた。
来たら、と思う。
来る前提で置かれる一枚が、逆に来ていない事実を濃くする。
そのくせ環は、その場で何も言えなかった。
ただ待っていても来ないのだと、嫌でも認めるしかなくなった。
そこでようやく、環は学校を当たった。
もっと早く行くべきだったのに、校門へ行くのは何となく最後の札みたいな気がしていた。流奈がただ自分を避けているだけかもしれない。学校には普通に行っていて、自分だけが知らされないまま外に置かれているだけかもしれない。その可能性が潰れるのが怖かったのだと思う。
校門の前には制服姿の生徒が群れていた。黒に近い紺のブレザー、地味なスカート、鞄。流奈は夜だと私服ばかりだったから、昼の制服の群れの中にいる姿が妙に遠い。そこへ年上の男が立っているだけで、もう十分に浮いているのが自分でもわかる。
それでも環は帰らなかった。
一時間近く校門の脇に立って、やっと同じ学年らしい女子を捕まえた。
「すみません。橋本流奈って、最近来てる?」
女子は一瞬で警戒した。そりゃそうだと思う。環は自分が今どう見えているのか、嫌というほどわかっていた。年上の男。校門前。最悪だ。
「知り合いなんだけど」
そう付け足しても、女子の目は冷えたままだった。けれど、しばらくしてから小さく言った。
「……最近、来てないです」
心臓が嫌な打ち方をする。
「いつから」
「知らない。けっこう前から」
「家、わかる?」
「は?」
そこで女子の顔が完全に固くなる。環は自分に舌打ちしたくなった。焦ると踏み込み方まで雑になる。
「ごめん。返すもんがあって」
「先生に言ってください」
女子はそれだけ言って、もう足を止めなかった。
その日の収穫は、それだけだった。
けれどそれで十分でもあった。流奈は学校にもいない。自分だけを避けているわけではない。ちゃんと消えている。
環は二日後にもう一度学校へ行った。今度は校門の正面じゃなく、少し離れた角の電柱のそばで待った。前よりましなつもりだったが、ましなだけで、十分怪しい。尚人に話したら「通報されるぞ」と笑われた。
それでも行った。
三度目に行った時、ようやく別の女子が、流奈の家のあるあたりをぼかして教えた。親しそうではなかった。むしろ何でそこまで食い下がるのかと不審がる顔だった。ただ、「橋本んちは駅の向こうの古い住宅地のほう」とだけ、仕方なさそうに零した。
そこからは早かった。
通りを潰していけば家は見つかる。二階の窓。曇りガラス。どこかで見覚えのある薄いカーテン。流奈が歩いてきそうな道。
最初に見つけた時、環はそこでしばらく動けなかった。
流奈がここから、夜ごとあの部屋へ来ていたのかと思う。補導を避ける服に着替えて、時計を見て、戻る時間まで外を歩いていたのかと思う。
知らなかった。
知らないくせに、近くにいたつもりでいた。
最初にチャイムを押した時、出てきた母親は環を見るなり怪訝そうな顔をした。
「どちらさまですか」
「……流奈の、知り合いです」
我ながら薄い言い方だと思った。何だそれ、という顔をされるのも当然だった。
「今いません」
「どこ行ったかわかんないですか」
「わかりません」
その日はそれで終わった。
二度目は、もう少しはっきり「会わせてください」と言った。母親は困った顔をして、「本当にわからないんです」と繰り返した。
三度目でようやく、母親の顔に別の色が混じった。
玄関先のコンクリートに片足をかけたまま、環は息を整えた。昼はもう傾き始めていて、路地の端に洗濯物の影が長く落ちている。風はぬるくも冷たくもない。季節が変わる途中の、中途半端な匂いだけがする。
チャイムを押す。
少し待ってから、戸の向こうで足音がした。
出てきた母親は、前より疲れて見えた。化粧をしているのに頬だけが落ちていて、目の下に薄い影がある。環を見るなり、一瞬だけ「また来た」という顔をした。けれど、すぐにそれを消した。
「……何度もすみません」
環のほうが先に言うと、母親は曖昧に首を振った。
「いえ」
「流奈、ほんとにどこ行ったのかわかんないんですか」
答えを待つ前に、自分の声が少し低いのがわかる。責めるつもりじゃない。そう思って来たはずなのに、ここへ来るたび喉の奥に硬いものが立つ。
母親は玄関の框に手を置いたまま、少しだけ俯いた。
「……わからない、って言い切るのも違うのかもしれない」
環は眉を寄せた。
「どういう意味ですか」
母親はすぐには答えなかった。家の中から、時計の針の音だけが妙に近く聞こえる。
「……中で、少し話してもいい?」
環は一瞬だけ迷って、それから無言で頷いた。
通された居間は、どこにでもありそうな家の匂いがした。木の家具、洗剤、味噌の残り香。整っているのに、空気だけが落ち着かない。
母親は座布団を出したが、自分は座らないまま立っていた。座ったら言えなくなることを知っているみたいな立ち方だった。
「あなた、環くん、だったわよね」
「はい」
「流奈の……知り合いの」
その言い方は、探るでも責めるでもなく、ただ自分の知らない娘の外側を、無理に言葉にしているようだった。
環は少しだけ眉を寄せたが、そこには触れなかった。
「流奈、どこにいるんですか」
母親は少しだけ目を伏せた。
「……流奈を探してるのね」
環は何も言わなかった。
「ごめんなさい。私も居場所までは知らないの」
「……」
「でも」
母親はそこで言葉を切る。
「出て行った理由なら、なんとなくわかる」
環の眉が動く。
「理由?」
「あなたが何度も来るから」
母親は小さく息を吐いた。
「言わなきゃいけない気がしてたの」
母親は小さく息を吸った。
「三年前から、家の中が少しずつおかしかったの」
環は黙ったまま母親を見る。
「でも私は、見ないふりをしてた」
「……」
「あの子も何も言わなかったし、私も、何て声をかければいいのかわからなくて」
「何があったんですか」
母親は、そこで初めて環のほうを見た。
「見てしまったのよ」
環はすぐには意味がわからなかった。
「……何を」
母親の唇が少し震える。
「忘れ物を取りに戻った時に」
そこで環の中の何かが、ゆっくり冷えていく。
母親は続けた。
「三年前よ。財布を忘れて、駅まで行ってから気づいて。それで家に戻ったの。いつもなら、まだ帰ってこない時間だったから」
「……」
「玄関、少し開いてて」
「……」
「二階で、物音がして」
環は何も言えなかった。
嫌な想像だけが先に形を持つ。
「最初、何かわからなかったの。でも、すぐに流奈の声だってわかって」
「……」
「見たのよ。あの人が、流奈を押さえつけるようにしていて……服も乱れてて」
「……」
「流奈、泣いてもいなかった」
母親はそこで一度、言葉を飲み込んだ。
「見たのに、動けなかった」
環は息を吸うのを忘れた。
「は?」
喉の奥で擦れた声が出る。
母親は泣いてはいなかった。泣いていないのに、その顔のほうがよほどひどかった。三年前のその瞬間に、まだ置いていかれているみたいな顔だった。
「信じたくなかったの」
「何を」
「そんなことが、この家で起きるなんて」
環は立ち上がりかけて、止まった。膝の上で拳ができる。
「……ふざけんな」
低く落ちた声に、自分でも驚く。
母親は少しだけ肩を揺らした。でも、否定しなかった。
「私も、そう思う」
「ふざけんなよ」
「……うん」
「見たんだろ」
「見た」
「見て、動けなかったって何だよ」
語尾が少し荒くなる。怒鳴ってはいない。でも、怒鳴らないでいるほうが難しいくらいには、腹の底で何かが煮えていた。
母親は居間の柱に手をついた。立っているのもやっとみたいな仕草だった。
「怖かったの」
「何が」
「あの人も、流奈も、全部」
「意味わかんねえよ」
環は吐き捨てるように言う。
「娘だろ」
母親はそこで目を閉じた。
「そうよ」
「だったら」
「そうよ!」
母親のほうが先に声を荒げた。
「娘なのに、動けなかったのよ!」
その叫び方は、環に返したものというより、自分にずっと言い続けてきた言葉をまた口にした感じだった。
「声も出なかった」
「……」
「止めなきゃって思ったのに、足が動かなかった」
「……」
「流奈が私を見た時の顔、今も忘れられない」
環はそこで初めて、母親の言葉の重さを聞いた気がした。
責任逃れではない。
許してほしいとも違う。
ただ、もう変えられない事実だけを口にしている。
「そのあと、あの子、何も言わなかった」
母親はぽつりと続ける。
「私も、何も言えなかった」
「何でだよ」
「言えると思う?」
母親の問い返しは弱いのに妙に鋭かった。
「見てしまって、それでも間に合わなかった人間が、何をどう言えばよかったの」
「……」
「ごめんね、って? 大丈夫、って?」
環は言葉を失う。
違うだろ、と言いたかった。何かあったはずだと言いたかった。けれど、その何かを今ここで自分が持っているわけでもない。
「流奈、そのあと、私の前で笑ったのよ」
母親は笑っていなかった。唇だけが少し歪む。
「何でもないみたいに」
「……」
「その顔のほうが、余計に怖かった」
環は、何も言えなかった。
母親は少しだけ俯いてから、さらに続けた。
「それからずっと、あの子は自分で決めるんだって思い込むようになったの」
「……」
「私が下手に触ったら、もっと壊す気がして」
「それで何もしなかったのかよ」
「何もしなかったつもりじゃないの」
「同じだろ」
「違うわ」
母親はそこで初めて、少しだけ環を睨むみたいに見た。
「私は、流奈を信じてたの」
「……」
「強い子だから、自分で決めるし、自分で何とかするって」
「それで放っといたのかよ」
「放っておいたつもりじゃないの」
「同じだろ」
「違うわ」
「違わねぇよ」
母親はすぐには折れなかった。
「流奈がいなくなった時も」
「……」
「警察には行かなかった」
「……」
「もう子どもじゃないし、私が騒ぐほうが違うと思ったの」
「……」
「ここにいられないなら、自分で出ていくし、どこへ行っても何とかするって」
「……」
「私は、あの子の決めたことを邪魔しないほうがいいと思ったの」
環の喉の奥が熱くなる。
「……ふざけんな」
「ごめんなさい」
「大丈夫なわけねぇだろ」
「でも、流奈は昔からそういう子で」
「わかってねぇよ」
環は声を押し殺すみたいに言った。
「見たんだろ。三年前に見て、それで何もしなくて、いなくなってからも探してなくて、何が大丈夫だよ」
「……」
「勝手に大丈夫だってことにしただけだろ」
母親はそれにすぐ返せなかった。
けれど、黙り込んで折れたわけでもなかった。
「勝手に、じゃない」
「……」
環は何も言わなかった。
違うだろ、とは思う。
でも、その言葉はたぶんもう遅い。
義父はここにいない。
母は弱かった。
そして自分は、何も知らなかった。
それだけが、全部ほんとうだった。
「流奈が信じなかったんじゃないんだな」
誰に向けたのでもない声が出る。
母親は何も返さない。
信じた先で、見ていても動かない大人がいることを、流奈は三年前に知ってしまった。
助けを求めても、間に合わないことがある。
正しい顔をした言葉ほど、あとからでは追いつかない。
それを、あの家の中で先に知ってしまったのだ。
環の中で、今までの流奈の顔がいくつも戻ってくる。
何を訊いても少しだけずれる目。
心配すると冷える声。
「前みたいにしてよ」と返した口調。
「勝手に入ってくるだけじゃん」と切った声。
全部、一本に繋がる。
「……俺、もう、それ言えねぇ」
小さく零れた声に、母親は目を上げた。
「何を」
「何で信じねぇんだって」
「……」
「言えねぇよ、もう」
母親は唇を噛んで、何も返さなかった。
居間の時計が、乾いた音で次の刻を打った。
「あなたが来るたび、言わなきゃとは思ってた」
母親が小さく言う。
「でも、流奈のことは、流奈が決めるべきだと思って」
「言えよ」
環は顔を上げずに言う。
「もっと早く」
「……ごめんなさい」
「それも違う」
母親の謝罪は、環には届かなかった。届く場所がもう違うのだと思う。
しばらくして、環は立ち上がった。
母親も何も言わず、玄関まで見送りに来た。
靴を履くあいだ、二人とも黙っていた。外はもう夕方で、路地の端に細い影が伸びている。家の中のぬるい空気より、外のほうがまだましだった。
「流奈が戻ってきたら」
母親が、後ろから言う。
環は振り返らない。
「戻ってきたら、ちゃんと――」
「戻ってこねえよ」
そこでようやく振り返る。
母親は言葉を失う。
「あの人はもう、ここを戻る家だって思ってない」
環の声は低かった。怒鳴るより、よほど冷たい。
「……俺だって、もう何で信じねぇんだって言えねえ」
母親は何も言えなかった。
環はそのまま玄関を出た。
門を出て、路地を曲がるまで、一度も振り返らない。夕方の風は少しだけ冷えていて、息を吸うたび喉の奥がざらつく。
何で信じねぇんだ。
昔なら、たしかにそう思っていた。
自分は違う。
自分ならちゃんとする。
そう、どこかで思っていた。
でも、もう言えない。
流奈は信じなかったんじゃない。
信じた先で何が起きるかを、三年前のあの家の中で先に知ってしまっただけだ。
環は歩きながら、唇をきつく噛んだ。
怒りたいのに、誰を殴ればいいのかわからない。
義父はここにいない。
母は弱かった。
自分は遅すぎた。
それだけが、全部ほんとうだった。




