第17話 知らない町
家を出る日、流奈は昼前になってから一度だけ家へ戻った。
前の夜は、ほとんど眠っていない。駅前で時間を潰して、明け方に少しだけ身体を丸めて、それでもちゃんと寝たとは言えないまま朝が来た。冷えた手をポケットに入れたまま、母が出る時間を待っていた。
母がいないのを確かめてから、流奈は家へ入った。
枕元のカレンダーには、十二月二十四日のところに丸がついていた。誰が書いたのかもわかる。母だ。毎年、誕生日のところだけ小さく印をつける。
流奈はそれを見て、少しだけ目を細めた。
だから何、と思う。
祝う気も、祝われる気もなかった。
ただ、今日出るのに都合がいい、それだけだった。
冬休みはもう始まっているだろう。
学校へ行かなくなって数日たった。
退学届ももう届いてるだろう。どうせ友達と呼べる人は居ない。それでも辞めれば噂にはなる。その前に消えたほうがましだと思った。家でも学校でも、余計な目が動く前に切ったほうがいい。
鞄の中身をもう一度だけ確かめる。茶封筒。着替え。下着。薄い化粧水。リップ。安い手帳。最低限のものしか入っていないのに、肩にかけるとずしりと重い。
この重さが、そのまま戻れなさの重さみたいだった。
母はいない。
台所にも居間にも、人の気配は薄かった。洗いかけのコップと、畳みかけの洗濯物だけが、まだ昼の途中に置かれている。
それでよかった。
母がいると面倒だった。
泣くか、怒るか、止めるか、そのどれかになる。話してわかる相手じゃないことはもう知っている。義父が帰る前に出るなら、母もいない時間のほうがいい。
流奈は玄関の前で一度だけ立ち止まった。
ポケットから家の鍵を出す。
しばらく掌に乗せてから、郵便受けの口へ落とした。
軽い音がして、消えた。
もうこれでいいと思った。
義父に返すでも、母に渡すでもなく、ただ家に戻した。それだけで十分だった。何かを書き残す気にもなれない。読まれて、泣かれて、探される材料を自分から増やしたくなかった。
時刻はまだ十二時を少し回ったくらいだった。
流奈は音を立てないようにドアを閉め、そのまま外へ出た。冬の空気は思っていたより冷たくて、息を吸うと喉の奥が少しだけ痛い。
駅へ向かう道の途中、店先には小さなリースが下がっていた。コンビニの入口には赤と緑の貼り紙が増えていて、スーパーの袋を提げた母親の横を、紙の帽子をかぶった小さな子どもが跳ねるように歩いていく。
世の中はもう、すっかりクリスマスの顔をしていた。
流奈には関係ないと思う。
それでも、関係ないものばかりが目についた。
駅へ向かう道を歩きながら、一度も振り返らなかった。
振り返ったところで、帰る家になるわけじゃない。
最初から町の名前に意味があったわけではない。駅のコンビニで何度か立ち読みした地方欄に、海沿いの山の小さな町のことが載っていた。若い者が出ていき、空き家が増えている。家賃は安い。電車は少ない。そこなら、誰も自分を知らないかもしれない。それだけだった。
電車を乗り継ぐたびに、人が減っていく。最後の車両には、買い物袋を抱えた年寄りと、作業着の男が一人ずついるだけだった。窓の外に海が見えたり、すぐに山の陰へ隠れたりする。知らない土地が後ろへ流れていくのを、流奈はぼんやり見ていた。
「……キャポさん、いるかな」
怖くないわけではない。
けれど、その怖さはまだましだった。何が起きるかわからない怖さであって、何が起きるかわかっている家の怖さじゃない。
降りた駅は思っていたより小さかった。改札はひとつだけで、観光案内板の文字は潮風に擦れて薄くなっている。駅前には古い自販機と、小さな商店と、食堂とも旅館ともつかない建物がひとつあるだけだった。
海は見えないのに、潮の匂いだけがした。
流奈はまず、その食堂兼旅館みたいな店へ入った。夕方にはまだ少し早い時間で、奥から出汁の匂いだけが漂ってくる。出てきたのは五十代くらいの女で、流奈を上から下まで見て、少しだけ目を細めた。
「泊まり?」
「……じゃなくて」
流奈は一拍迷ってから言った。
「安く借りられる家とか、ないですか」
女はすぐには答えなかった。
「誰かの紹介?」
「ないです」
「仕事は」
「探します」
「一人?」
そこは頷くしかなかった。
全部を話すつもりはない。話したくもない。だから本当のことの中から、言っても困らないところだけを選ぶ。
「親いなくて」
「……」
「頼れる人もいなくて。少しのあいだ住めるとこ探してて」
女は何も言わず、流奈の腹を一瞬だけ見た。まだ目立つほどではない。それでも、見慣れた人ならわかるのかもしれないと思って、流奈は咄嗟にシャツの裾を引いた。
「困ってるのね」
その言い方が少し嫌だった。困っているのは本当でも、その一言にされると急に自分が薄くなる気がした。
「……まあ」
流奈がそう返すと、女は小さくため息をついた。
「うちに長くは置けないよ。でも、空いたままの家なら知ってる。海は見えないし、古いし、風も入るし、まともな暮らしって感じじゃないけど」
「安いなら」
「安いだけで住めるって思わないほうがいいよ」
そう言いながらも、女は店の奥へ声をかけた。出てきたのは細い老人で、事情を細かく聞くこともなく、ただ「見るか」とだけ言った。
案内された家は、町外れの坂の途中にあった。
海は見えない。けれど、風の音はよく入る。戸は少し反っていて、閉めてもきっちりは合わない。畳は日焼けしていて、流しの蛇口は強く締めないと水が落ちる。押し入れはかび臭く、窓ガラスには曇りが残っていた。
それでも流奈は、その場で「ここでいい」と言った。
ここが気に入ったからではない。ここ以上を選べる金も、時間もなかったからだ。
最初に払う金を封筒から出した時、紙の感触だけがやけにはっきりしていた。逃げるために貯めてきたものが、今は住むための金に変わる。その現実を、流奈は黙ったまま受け取った。
◇
暮らしはすぐには形にならなかった。
流しは使えるけれど、蛇口は気をつけないと夜じゅう水を落とす。畳は湿っていて、薄い布団だけでは背中が冷える。風が強い日は戸の隙間から音が入って、夜中に何度も目が覚めた。
それでも、少なくともここには母はいない。義父もいない。環もいない。誰にも見張られず、誰にも呼び止められず、自分の時間のまま戸を開けて閉められる。そのことだけは、流奈の胸を少しだけ楽にした。
封筒の金は減っていく。
家賃。
食べるもの。
洗剤。
生理用品の代わりに要るもの。
病院へ行くたびの金。
数字は冷たく減る。前みたいにちまちま増やす側ではなく、今は毎日少しずつ削れていく側にいる。その感覚は妙に落ち着かなかった。
最初のうちは、旅館の女の口利きで短い手伝いをいくつか回してもらえた。朝の皿洗い。海産物の箱詰め。旅館の布団を干す手伝い。どれも長くはできない仕事ばかりで、それでも働いたぶんだけ現金になるのはありがたかった。
誰も深くは聞かなかった。
どこから来たのか。
何で一人なのか。
父親はどうしたのか。
聞きたそうな目は何度かあった。でも、この町では聞かないことが礼儀なのだと、流奈は少しずつわかった。余所から来た人間に過度に親切なわけではない。ただ、見ないふりをしてくれるだけだ。
それが今の流奈にはちょうどよかった。
腹は少しずつ前へ出た。
靴下を履くたびに面倒だと思う。夜中、寝返りを打つだけで息が浅くなる。朝の気持ち悪さは完全には消えず、匂いにむせる日もある。けれど、立派な母になる感覚はやっぱりなかった。
ただ、自分の身体の中にあるものが毎日少しずつ場所を取っていく。
それだけが、事実としてある。
流奈はそれをなるべく考えないようにした。考えると、止まるからだ。止まれば、封筒の金だけが減る。
海沿いの山の町は、冬が深まると急に黙る。
日が落ちるのが早くなり、夕方には人通りが減る。風の音が家のまわりを回る。戸の隙間から入る冷気を、流奈は毛布を一枚増やすだけでどうにかしようとした。
冬のあいだ、環を思い出す日がまったくなかったわけではない。
キャポさんの水槽の泡の音。テーブルの端に雑に置かれたおにぎり。ギターの弦を軽く鳴らす指。思い出したあとで、流奈はすぐに頭の隅へ押しやった。
手紙は書かなかった。
電話をかけることも考えなかった。
頼れば何かが楽になるかもしれない。そう思わないわけでもない。けれど、その先の事を流奈はどうしても引き受けられなかった。助けを求めた瞬間に、自分がどこまで説明しなければならないのかがわからなくて、そこが怖かった。
母のことも同じだった。
病院へ連れて行かれた日から、母の「子どもは授かりもの」という声が時々戻ってくる。流奈はそのたびに、腹の内側ではなく、自分の喉のあたりが狭くなるのを感じた。母は悪い人ではない。けれど、流奈を外へ逃がしてくれる人でもない。
結局、自分でやるしかなかった。
そう思って洗濯をして、米を研いで、寒い夜をやり過ごした。
春を越える頃には、朝の空気に少しだけ湿り気が混じり始めていた。
冷たいだけだった風に、海の湿った重さが混じり始める。海は鈍い色のままなのに、光だけが冬より長く残る。坂道の端の土がゆるみ、見たことのない小さな草が出る。知らない鳥の声が、前より近くで鳴く。
桜が散る頃には、腹はもう隠しようがなかった。
動くたびに重い。
息も前より浅い。
でも、流奈はどうにか日々を繋いでいた。
◇
痛みが来たのは、海風が少しだけ湿っていた朝だった。
最初は違うと思おうとした。腹が張ること自体は前からあったし、その日も起きた時から身体が重かった。流奈は流しに手をついて、息を整える。
けれど、時間を置いてまた来る。
また来るたびに、身体の奥のほうで何かが違うとわかる。
怖い、と思った。
部屋には誰もいない。
それが当たり前のはずなのに、その朝だけは急に心細い。
流奈は一人でそれを迎えた。薄い布団の上で、戸の外の風の音を聞きながら、どうしても止まらない波みたいな痛みを待った。
時間の感覚が曖昧になる。
まだ大丈夫だと思った次の瞬間に、そうでもない気がする。
水を飲もうとして、少しこぼす。
呼吸を整えようとして、余計に浅くなる。
怖い。
でも、それで誰かが来るわけでもない。
流奈はどうにかして外へ出た。坂を下りる足が、自分のものじゃないみたいに重い。旅館の女のところまで行けば何とかなるかもしれない。そう思って歩く。途中で一度、壁に手をついて息を止めた。
「どうしたの!」
声をかけてきたのは、近所で何度か見たことのある年配の女だった。流奈が答える前に顔色を見て、すぐに人を呼ぶ。そこから先は、時間が何度も途切れた。
白いタオル。
湿った手。
「息を吐いて」という声。
汗で首に張りつく髪。
歯を食いしばるたびに遠くなる意識。
出産は綺麗なものではなかった。
声を抑えようとしても漏れる。身体の形なんてどうでもよくなる。ただ終わってほしい、それだけを思う。終わって、早く、自分の身体を取り戻したかった。
何時間そうしていたのか、流奈にはわからない。
最後のほうは、自分がどこにいるのかさえ曖昧だった。
そのかわり、産声だけははっきり聞こえた。
高くて、細くて、でも妙に強い声だった。
終わった、と思う。
感動ではなかった。
安心より先に、それが来る。
終わった。
戻れないところまで、本当に来た。
白い布に包まれた小さなものを腕に渡された時、流奈はすぐにはうまく抱けなかった。軽い。軽いのに、現実の重みだけが信じられないくらいある。
果穂。
口の中で名前を転がしてみる。まだ自分の言葉になじまない、柔らかい音だった。
顔をじっと見る。
自分に似ているのか、誰に似ているのか、まだよくわからない。ただ、閉じた目の下で小さく息をしている。その生き方だけが、妙に重く胸の奥へ落ちる。
急に強い母にはなれない。
泣きながら誓うこともない。
感動的な言葉も浮かばない。
先のことはまだ見えないし、金だって足りないし、この町でこの先どう生きるのかも曖昧なままだ。
それでも、流奈は静かに思った。
この子だけは守らなきゃいけない。
それは優しい感情というより、もっと硬いものだった。自分がどうなるかより先に、この子をここで死なせない。そこだけが、初めてぶれない形で胸の真ん中に残る。
薄い布団の上で果穂を抱きながら、流奈は戸の外の音を聞いていた。海は見えない。けれど風の中にだけ海がある。初夏の湿った空気が、戸の隙間から細く入り込んでくる。
もう前の自分には戻れない。
それは悲しいというより、ただ確かなことだった。
流奈は果穂の小さな額に目を落とし、ゆっくり息を吐いた。腕の中の温かさだけが、今は嘘じゃなかった。




