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フォルステリ  作者: 七奈 菜々
16/25

第16話 最後の金


 夜の街へ戻るのは、思っていたより簡単だった。


 駅前の明るい通りを外れて、見慣れた自販機の灯りと、古いビルの影が増えるだけで、身体が勝手に前の歩き方を思い出す。肩をすくめず、早足になりすぎず、誰かに見られても困っていない顔をする。そういう小さい癖だけが、まだ残っていた。


 嫌だ、とは思う。


 でも、嫌かどうかで決められるところはもう過ぎていた。


 流奈が必要なのは金だった。

 出るための最後の金。

 ここから先、もう戻らないための金。


 それだけを考えていればよかった。


 街灯の下で、昔見た顔が流奈を見つける。


「流奈ちゃん久しぶりだね」


 笑いながら近づいてきたのは、前にも何度か見たことのある女だった。名前はもう覚えていない。年齢も知らない。ただ、夜の街で会えば話しかけてくる種類の人間だということだけ知っている。


「ちょっとだけ」


 流奈が言うと、女は目を細めた。


「戻ってきたんだ」

「戻ってないよ」

「じゃあ何」

「金が要るだけ」


 それだけ言えば十分だったらしく、女は少しだけ口元を歪めた。


「相変わらず可愛くないね」


 流奈は返さなかった。


 その夜、流奈は長くはいなかった。目立つこともしない。馴染みの顔に見つかりすぎないように、でも見つからなさすぎて仕事が切れないように、ちょうどいいところを選んで立つ。短い時間で入る現金仕事をいくつか繋いで、受け取った紙幣だけを鞄へ滑らせる。


 必要経費。

 そう思う。


 その一言にしてしまえば、少しだけ遠くなる。


 自販機の前で水を買って、細い路地の入口で封筒を確かめる。まだ足りない。けれど、前よりは厚くなっている。その事実だけを、流奈は無表情に受け取った。


 帰り道、コンビニのガラスに映った自分の顔は、少し疲れて見えた。

 でも、それだけだった。


 次の日も、その次の日も、流奈は数日だけ夜の街へ戻った。


 長くはいない。

 深入りもしない。

 必要なぶんだけ動いて、必要なぶんだけ受け取って、すぐに離れる。


 そこに快楽はなかったし、懐かしさもなかった。前みたいに夜をやり過ごすためでもない。必要な数字へ届くまでの、ただの作業だった。


 見知った顔が増えるたび、流奈は逆に口数を減らした。


「最近見なかったよね」

「うん」

「また来る?」

「来ない」


 乾いたやり取りだけが残る。


 それでよかった。

 何かを思い出すために来たわけじゃない。

 もう戻らないために、最後に通るだけだ。


 金を作る間、削れるものは削った。


 昼を抜く。服を買わない。コンビニで飲み物もなるべく買わない。家で使うものも最低限だけにする。封筒の中身を増やすために、どうでもいい出費から先に切った。


 それでも、Cliveのライブだけは切れなかった。


 行かないで残せば、そのぶん金は増える。そんな計算は最初からできている。


 それでも、あれだけは駄目だった。


 暗い箱の中で音が鳴って、大輝が歌って、知らない人たちが前を向いている。あの場所にいるあいだだけ、息を止めなくていい気がした。


 誰にも触られない。

 何も聞かれない。

 それでいて、完全に一人でもない。


 その感じが、流奈にはちょうどよかった。


 ライブのあと、出口のほうで唯に呼び止められた。


「流奈ちゃん」


 振り返ると、唯がケースをひとつ持っていた。


「これ」


 差し出されたのは、薄いCDケースだった。盤面に手書きの番号が入っている。


「身内用。四枚しか作ってないやつ」


 流奈は少しだけ目を瞬いた。


「……いいの」


「いいよ」


 唯はあっさり言う。


「大輝も、流奈ちゃんには渡していいって」


 後ろで、大輝が軽く手を上げた。


「唯とおそろい」


「言い方」


 軽いやり取りだった。


 重くならない。

 でも、軽すぎもしない。


 観客に配るものじゃないのはわかる。売るためのものでもない。少しだけ内側にいる人に渡すものだということも、言われなくても伝わる。


 流奈はケースを受け取った。


 軽いのに、妙にちゃんと重かった。


「……ありがとう」


「なくすなよ」


「なくさない」


「聴いたら感想ね」


「それは面倒」


「ひど」


 その後ろで、大輝が笑っていた。


 流奈はそれ以上は何も言わなかった。


 言わなくてもよかった。


 あの場所にいるあいだだけは、何かを返さなくてもいい気がする。もらって、そのまま持って帰ってもいい場所だった。


 だから、ここだけは切れなかった。


 金を作るために夜へ戻っているのに、そのあいだでCliveだけはやめられないのは、自分でも少しおかしいと思う。


 それでも、あそこまで切ったら、本当に何もなくなる気がした。


         ◇


 同じ頃、Paranoidのメンバーが集まった貸スタジオでは、尚人がペットボトルの蓋を閉めながら何気なく言った。


「そういやさっき、駅裏で見たかも」


 毅がドラムのセッティングを直しながら顔を上げる。


「何を」


「ほら、あの子。Cliveんとこのファン一号ちゃん」


 環の手が止まった。


「……どこで」


「繁華街のほう。なんか男と歩いてた」


 さらっと言ったつもりだったのだろう。けれど、その一言だけで環の顔色が変わる。


 司がすぐにそれを見た。


「環」


 呼んだ時にはもう遅かった。環はギターをケースに半端に押し込んで、立ち上がっていた。


「おい、どこ行く」


「ちょっと見てくる」


「ちょっとで済む顔してねえだろ」


 司が低く言う。けれど環はもう止まらない。


 階段を駆け上がって地上へ出る。夜気はまだぬるい。繁華街の入口まで走って、見慣れた看板と人の流れの中へ目を走らせる。駅裏、立ち飲み屋の前、古い雑居ビルの影、自販機の灯り。


 どこにもいなかった。


 似たような背格好の女はいる。薄いシャツを羽織った子も、俯いて歩く子もいる。けれど、全部違う。


 環は少し先まで歩き、また引き返し、路地を覗いて、結局どこにも流奈を見つけられなかった。


 当然だ、と思う。


 自分は何も知らない。流奈がこういう時どこを歩くのか、誰と話すのか、どこで金を作るのか、そのどれも知らない。知らないくせに、見つけられる気で走ってきた自分が滑稽だった。


 それでも、今夜は見つける気でいた。

 見つけたら連れて帰るつもりだった。

 狭い部屋でも、朝までいられる場所があるって言うつもりだった。


 テーブルの端に置いたままの合鍵が頭をよぎる。

 まだ渡してもいないのに、もう少しで間に合う気でいた自分が、余計に馬鹿みたいだった。


「……何やってんだ」


 小さく呟いても、誰も聞いていない。


 環はそのまま駅裏のガードレールにもたれた。コンビニの明かりが白く、遠くで電車の音が鳴る。流奈は見つからない。見つからないまま、嫌な想像だけが少しずつ増える。


 心配しただけで、何も届かなかった。

 届かなかったどころか、遠ざけた。


 そのことだけが、今さらみたいに胸の奥へ戻ってくる。


「……最悪」


 誰に向けたのでもない声が、夜の中へ落ちた。


         ◇


 流奈がもう一度封筒を開けたのは、四日目の夜だった。


 駅前のコンビニのイートインは、深夜を過ぎると人が減る。明るすぎる照明の下で、誰も他人を見ていない。温かい缶のお茶を一本だけ買って、流奈は壁際の席に座った。


 そこで封筒の中身をテーブルの上に並べる。


 一万円札、五千円札、千円札。

 前より厚い。角の揃いが少し悪くなっているのは、急いで突っ込んだ日があったせいだ。


 流奈はそれを一枚ずつ整えてから数えた。


 二十七万。

 三十一万。

 三十四万と、少し。


 そこで一度、手が止まる。


 前にノートへ書いた最低額は、三十万だった。

 できれば四十万。

 そこまでは届かない。けれど、出た先で少しのあいだでも足を止めるには、このあたりが境目だと流奈は思っていた。


 少しだけ余裕がある。

 全然充分ではないけれど、前みたいにただ足りない数字ではなくなった。


 封筒の厚みが、やっと逃げ道に見える。


「……これでいい」


 口に出すと、自分の声が少しだけ乾いて聞こえた。


 これで最後。


 その言葉は、思ったよりすんなり落ちた。


 もう二度と戻らない。

 このやり方にも、こういう夜にも、こういう顔の作り方にも。


 そう決めるのは、本当はもっと綺麗な場面でやるものなのかもしれない。けれど流奈には、こうして封筒の厚みを確かめる夜のほうがよほど本当だった。


 ノートを開いて、前に書いた数字の横へ小さく丸をつける。

 持っていく服。

 下着。

 化粧水。

 リップ。

 手帳。

 封筒。


 余計なものは持たない。

 学校のものも、もう要らない。

 置いていくものを決めるのは、少し怖い。でも、全部抱えるにはもう時間がない。


 流奈は札を封筒へ戻した。向きを揃えて、角を合わせて、内ポケットのいちばん奥へ入れる。ファスナーを閉める動きまで終えると、やっと息が抜けた。


 怖さは消えていない。

 病院のことも、腹の中のことも、知らない町へ出てからのことも、ひとつも楽にはなっていない。


 でも、これで止まれなくはなった。


 必要なぶんは作った。

 もう戻らないための金になった。


 紙コップや飲み終えたカップ麺の容器が残る店内で、流奈はしばらく動かなかった。ガラスの向こうでは、秋が近い夜の風が少しだけ乾いている。夏の終わりみたいな中途半端な涼しさが、自動ドアが開くたび足元へ入り込んでくる。


 もう戻れない、ではなく、もう戻らない。


 その違いだけが、今夜は少しだけはっきりしていた。


 流奈は鞄を引き寄せた。


 出発の準備へ入る。

 今度は本当に。


 封筒の重みが、肩にかけた鞄の底で静かに揺れた。 

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