第15話 決意
病院へ行ってから、流奈は一度も封筒の金を数えていなかった。
数えたところで足りないのは知っている。知っていることを、もう一度数字にするのが嫌だった。下ろすのが怖い、産むのも無理だ、母の言葉は重い、時間は待ってくれない。そういうものが頭の中でまだ固まりきらないまま、封筒の厚みだけはいつも通り鞄の奥にあった。
その夜、流奈は駅前のファミレスのいちばん端の席にいた。
水だけで粘る客なんか珍しくもない時間だった。深夜を過ぎた店内は明るすぎて、逆に誰も他人を見ていない。皿の触れ合う音と、小さな話し声と、厨房の油の音が遠くで混ざっている。
流奈はそこで、初めて封筒の中身を全部出した。
一万円札、五千円札、千円札。
小銭は数えない。重さに意味はあるけれど、今いるのは細かい額じゃない。
十万八千円と、少し。
流奈はノートを開いて、数字を書いた。
家賃。
初期費用。
食費。
光熱費。
日用品。
検診。
薬。
交通費。
書いて、少し止まる。
前なら「部屋」「最初の金」「生きる金」くらいの雑な分け方で済ませていた。今回はそうもいかない。自分一人なら布団が薄くても、飯を抜いても、部屋が狭くてもどうにかなった。けれど、もう同じ計算では足りない。
流奈はノートの端に、もう一度書いた。
最低でも三十万。
できれば四十万。
やっぱり、と思う。
何度考えてもそこへ戻る。数字の置き方が少し変わっても、必要な額の感じは変わらない。前は「出るための金」だった。今はそこへ「出た先でしばらく保つための金」が重なっている。
この十万八千円で、逃げる準備は少しできる。
でも、生きる準備にはまだ足りない。
流奈はシャーペンを握り直した。
ここじゃ無理、と書く。
字が少しだけ濃くなる。
家では無理だ。
自分一人ならまだしも、子どもを抱えたままこの家にいる形は見えない。義父がいる家で、母が様子を窺って、何かあるたびに「ちゃんと考えましょう」と言う。その空気の中で腹が大きくなっていくのを想像すると、喉の奥が詰まる。
最初の頃は、下ろすことも考えた。
考えたというより、そうするしかないのかもしれないと思った。
産むのは無理だし、育てる未来も見えない。だったら、そこへ行く前に止めるしかない。
でも母は、下ろしては駄目だと何度も言った。
反対というより、懇願に近かった。
お願いだから、それだけは駄目。
何度もそう言われると、流奈のほうも前へも後ろへも進めなくなる。
それでも、もう駄目だと思った日があった。
一人で病院へ行って、下ろしたいと伝えた。
今ならまだ間に合うと思った。自分で決めて、自分で終わらせるなら、それしかないと思った。
でも、その「今なら」がもうぎりぎりの時期だった。
病院の空気も、看護師の声も、最初から少し急いていた。
早く決めなさい、という意味ではなく、時間のほうがもう余っていない、という顔だった。
けれど、後から母が来た。
どこで知ったのかは覚えていない。たぶん家を出る時の顔か、置いていったものか、そういうところで気づかれたのだと思う。
病院の受付の前で、母は駄目だと騒いだ。
そんなことさせられない。
もう少し考えましょう。
この子は混乱してるだけだから。
流奈はその横で、何も言えなかった。
言おうとしても、母の声のほうが大きかった。
周りの目が集まるのがわかった。
看護師が困った顔をするのも、受付の女が声を低くするのも、全部見えた。
結局、その日は何も決まらなかった。
帰り際に、もうこういう形で来ないでほしいと言われた。
やんわりした言い方だったけれど、意味はわかった。
情けなかった。
悔しかった。
それでいて、次にどうすればいいのかは余計にわからなくなった。
帰り際、看護師が流奈だけを少し呼び止めた。
困ったような顔をしていた。
怒っているわけでも、冷たいわけでもない。ただ、このまま返していいのか迷っている顔だった。
「あなた、本当はそんなことしたいわけじゃないでしょ」
流奈は一瞬、意味がわからなかった。
でもすぐに、何を言われているのかはわかった。
その歳で産んで、
この先の責任まで背負うこと。
看護師はたぶん、そういう意味で言ったのだと思う。
「今、ちゃんと考えなさい」
「勢いとか、意地とかで決める話じゃないの」
「一人で無理なら、大人と来て」
諭すつもりの声だった。
責めているわけではない。
むしろ、止めようとしてくれているのだとわかる。
でも流奈には、その言葉が別の重さで残った。
産むことを選ぶなら、そこまで背負う覚悟がいる。
じゃあ下ろすなら、それは何だ。
どちらにしても、自分が決める。
自分が引き受ける。
そう思った瞬間、下ろすことまで急に鈍った。
しかも看護師は続けた。
「次に来るなら、ちゃんと同意の確認ができる形で来て」
「未成年なんだから、一人では進められないの」
「お母さんを説得できないうちは、来ても進められないの」
「まずそこをどうにかしないと」
流奈は何も言えなかった。
環の顔が一瞬だけ浮かんだ。
言えば、来るかもしれない。
書類でも何でも、付き添うくらいはするかもしれない。
でも、それを頼った瞬間に全部変わると思った。
妊娠したことも、
下ろしたいと思っていることも、
金がないことも、
家が無理なことも。
全部まとめて環に渡すことになる。
それは無理だった。
頷くことも、否定することもできないまま、その場を離れるしかなかった。
話せないまま日だけが過ぎた。
ぎりぎりだと思っていた時期は、そのまま過ぎた。
次に数えた時には、もう戻れる週数じゃなくなっていた。
制服の上からでも、腹のあたりが少しだけ気になる日が出てきた。まだ他人にはわからない。けれど、自分にはわかる。
もう、選ぶ話じゃなかった。
流奈はノートの余白に小さく書いた。
母 ×
家 ×
書いたあとで、少しだけ笑いそうになる。
子どもみたいだと思う。
でも、こうやって形にしないと頭の中が散る。
次に浮かぶのは、環だった。
浮かんだ時点で、流奈は少しだけ嫌な顔をした。
頼れば、部屋はある。
少なくとも今まで、自分はあの部屋で朝までいられた。水を飲んで、キャポさんを見て、黙っていても追い出されなかった。あれを“普通”だと思いかけていた自分もいる。
けれど、それは今までの話だ。
妊娠したこと。
出る金が足りないこと。
ここでは生きられないこと。
それを環に言った瞬間、あの部屋は別の意味になる。
キャポさんの水槽の音がして、黙っていられるだけの場所じゃなくなる。理由を聞かれる。これからどうするのかを聞かれる。環は何も知らないくせに、心配した顔でこっちの中へ入ってくる。
あの感じが、今の流奈には無理だった。
それに、環に言えば、たぶん放ってはおかない。
部屋へ来いと言うかもしれない。
金のことも、病院のことも、何とかしようとするかもしれない。
でもそれは、助かるってことと同時に、環のほうの生活まで変えるってことだ。
スタジオも、ライブも、東京へ出る話も、流奈は詳しく知らない。知らないけれど、ああいう男は一度そうと決めたら、自分の予定までずらしてくる気がした。
もしそれで環の音が狂ったら。
バンドの流れまで変わったら。
そんなの、流奈には責任を持てない。
助けてもらう、じゃない。
巻き込むほうになる。
それは嫌だった。
頼るのが怖い、というより、頼った後のほうが怖い。
もし拒絶されたら、たぶんもう立てない。
言葉で断られなくても、顔が少し変わるだけで駄目だと思った。
腹の中のものごと、自分まで厄介なものとして見られたら、その先は切れない。
それなら言わないほうがいい。
拒絶を聞かなければ、歪む顔を見なければ、息が詰まる沈黙に気づかなければ、まだ一人で抱えたまま歩ける。
ノートにまた書く。
環 ×
嫌いだからじゃない。
恨んでいるからでもない。
そこが面倒だった。
嫌いならもっと簡単なのに、流奈はそうできない。環の部屋が楽だったのは本当だし、夜をどうにかするための金が要らなくなって、そのぶん気持ちが緩んでいたのも本当だ。
何で忘れてたんだろう、と思う。
金は要ったのに。
ずっと要るのはわかっていたのに。
家を出るための金を貯めることだけは、前から切らさないようにしていたはずだった。昼を抜いて、服を買わないで、釣りを残して、そういう細い積み重ねだけでどうにかしてきたのに、環の部屋へ行くようになってから、その夜を越すための金を考えない日が少しずつ増えた。
あの部屋へ行けば、水はある。
黙っていても朝までいられる。
その夜だけなら、どうにかなる。
それで少し、計算が狂った。
そこで止まっていればよかったのに、と今さら思う。
でも、今さらでしかない。
流奈はテーブルの端に、持っていくものを書き出し始めた。
下着。
替えのシャツ。
羽織るもの。
化粧水。
リップ。
タオル。
保険証。
手帳。
封筒。
通帳はない。
途中で止まる。
学校のもの、どうしようと思う。
教科書。
制服。
上履き。
どれも邪魔だ。
でも、そのまま何も言わずに切るのも面倒だった。
流奈は少し考えてから、ノートの端に書いた。
退学届。
封書にして出す。
理由は適当に書くしかない。家のことも、腹の中のことも書けるわけがない。けれど、何も言わずに消えるよりは、その一枚だけ出して終わらせたほうがましだった。
教科書はいらない。
制服も、もう着ない。
持っていくのは最低限でいい。
次に、住む場所の条件を書く。
保証人なし。
駅から遠すぎない。
家賃安い。
知り合いがいない。
子どもがいても目立ちすぎない。
地名はひとつも浮かばない。
でも条件だけでも書くと、少しだけ現実になる。行ったことのない町でも、この条件に合うところを探すしかない。探し方はまだわからない。でも、何もないよりはましだ。
流奈は必要額の横に、もう一度数字を書いた。
あと二十万以上。
短く書くと、それが余計に遠い。
二十万。
今までみたいにちまちまでは届かない。
昼を抜くとか、お釣りを残すとか、そういう遅い貯め方では間に合わない。腹の中のものは待ってくれないし、季節も待ってくれない。秋が来て、冬が来て、制服の上にカーディガンを羽織る頃には、今よりもっと隠しづらくなる。
時間のほうが先に尽きる。
流奈はそこで、ようやく次の言葉を自分の中に置いた。
荒く作るしかない。
ノートには書かない。
書かなくても、意味はわかる。
前みたいに夜へ戻る。
知らない男の顔色を見て、短い時間を切って、まとめて金に変える。前より少し減っていた回数を、また戻すだけだ。
できるかどうかじゃない。
そこに戻りたいかどうかでもない。
今は、そこへ戻るしかないかどうかだ。
身体の内側が少しだけ冷える。
嫌だと思う。
嫌だと思うけれど、数字は動かない。
母は助けてくれない。
環には頼れない。
家には置けない。
ここでは産めない。
だったら、足りない分を作るしかない。
流奈は封筒の中身を一度全部揃え直して、それからまた元通りにしまった。札の角が擦れないように、向きを合わせる。こういう時ほど手つきだけは妙に落ち着いている。
封筒を鞄の奥へ戻して、ファスナーを閉める。
それで終わりにしたくて、ノートも閉じた。
でも、閉じたところで中の計算までは消えない。
最低でも三十万。
できれば四十万。
あと二十万以上。
数字だけが、頭の内側に残る。
店内の明るさが、妙に白かった。深夜とも朝方ともつかない時間のファミレスは、静かなくせに落ち着かない。外へ出たら、また夜の空気が待っている。
流奈は鞄を肩にかける。
今夜からまた戻る。
前みたいに。
いや、前より少し悪く。
その言い方しか浮かばなかった。
覚悟、というほど綺麗なものじゃない。
決意、と呼ぶにはみっともない。
出たいから出るんじゃない。
出るしかないから出るだけだ。
テーブルの上には、ノートの跡だけが残っていた。そこに書いた条件も数字も、まだ何ひとつ現実にはなっていない。なのに、それでももう始まっている感じがする。
流奈は会計を済ませて、店を出た。
駅前のポストの前で、一度だけ足を止める。
さっき書いた封書を取り出す。
退学届。
軽いのに、妙に目立つ。
少しだけ指が止まる。
それでも、そのまま投函口へ滑らせた。
軽い音がして、消えた。
それで終わりだった。
怖いのは消えない。
病院のことも、この先のことも、何も楽になっていない。
それでも、止まっているほうがもっとまずい。
流奈は小さく息を吐いて、鞄の紐を握り直した。
今夜から、足りない分を作りに行く。
そう決めたわけではない。
そうするしかないと、ようやく数字に追いつかれただけだ。
流奈はそのまま、夜の駅前へ歩き出した。
◇
環はその日、ギターを弾いていても指先に意識が乗らなかった。
同じところをなぞっても、音だけが先に出る。頭の中では別のことを考えているのが、自分でもわかった。
流奈の顔が浮かぶ。
最近、あいつは少し変だ。
来る日も来ない日もあるのは前からだった。でも今のそれは、ただ機嫌が悪いとか、家に居づらいとか、そういういつもの濁し方と少し違う気がする。
十五だと知った日から、たぶん自分も変わった。
見てしまう。
気にしてしまう。
前よりずっと、帰ったあとまで考える。
うざいな、と環は思う。
でも今さらそこをやめられる感じもしなかった。
食わせるくらいなら、何とかなる気がした。
今のバイトを少し増やせばいい。
寝る時間が減るくらいならどうにでもなる。
金を稼ぐなら、普通のバイトをさせればいい。保証人が要るなら、自分がなればいい。
狭くても、今の部屋に二人で詰め込めば、少なくとも夜に駅前へ立つよりはましだ。
キャポさんの水槽の前で、黙って座ってるだけでもいい。
朝まで居る場所があるだけで、あいつは少し楽そうだった。
だったら、それでいい気がした。
前に断られたのは知っている。
合鍵なんか要らない、みたいな顔をされたのも覚えている。
でも、それで引くのも違うと思った。
クリスマスだし、という理由をつければ渡しやすい。
それだけで受け取るならそれでいい。
受け取らなくても、渡すところまでは行く。
環はテーブルの端に置いた小さな鍵を見た。
ただの合鍵だ。
でも、それを渡すと決めるのは、前とは少し違った。
何かを返してほしいわけじゃない。
そうなったら嬉しい、みたいな甘い話でもない。
ただ、あいつの今を少しでもましにしたかった。
それだけは、もう誤魔化せなかった。




