第14話 授かりもの
その日、家に戻ったのは着替えのためだけだった。
日はまだ高かったが、秋口の光は夏より薄い。玄関を開けた瞬間に、煮ものの甘い匂いと、干しかけの洗濯物の湿り気が混じって流れてきた。いつもの家の匂いだった。
だから余計に、さっさと済ませて出たかった。
「おかえり」
母の声が台所から飛んでくる。
「うん」
流奈はそれだけ返して、そのまま階段へ向かった。居間の時計はまだ義父の帰宅には早い時間を指している。今のうちに制服を置いて、着替えて、顔を見せて、また出る。そのつもりだった。
部屋に入って、鞄を床へ置く。脱ぎっぱなしだった服を拾って、引き出しを開ける。そこまではいつも通りだった。
けれど、立ち上がった瞬間に、喉の奥がひゅっと狭くなった。
何でもないはずの洗剤の匂いと、下から上がってくる味噌の匂いが、急に混じって鼻に刺さる。腹が痛いわけではない。ただ、込み上げるものを抑えるために、流奈は咄嗟に口を押さえた。
少しだけ俯いて、息を浅くする。
おさまれ、と思う。
吐くな。
ここで吐いたら終わる。
しばらくそのままでいると、どうにか波は引いた。目の奥がじんとしただけで済んだことに、流奈は小さく息を吐く。
駄目だ、と思った。
こんなのが続くなら、隠しきれない。
流奈は着替えを掴み直した。逃げるみたいにシャツを脱いで、別の服を頭からかぶる。鏡の中の自分は、少し青いだけで、そこまで変には見えない。
まだいける。
今なら出られる。
そう思って部屋を出た瞬間、階段の下から母に呼ばれた。
「流奈」
足が止まる。
「ちょっと来て」
その声が、妙に静かだった。
流奈は数秒だけ動けなかった。逃げるなら今だと思った。でも、ここで無視をすれば、もっと面倒になるのもわかる。
仕方なく階段を下りると、母は居間と台所の境に立っていた。
手に、小さなビニール袋を持っている。
駅前のドラッグストアの袋だった。
それを見た瞬間、流奈の背中が冷えた。
「これ、あんたの部屋のごみ箱に入ってた」
母の声はまだ抑えられていた。
だからこそ、もう誤魔化せないのがわかった。
「……知らない」
「知らないわけないでしょ」
母は袋の口を少し開けた。中の箱までは見えなかったが、見えなくても十分だった。
「どういうこと?」
流奈は答えなかった。
答えたくない、では足りない。今ここで何か言葉を出したら、その瞬間に全部が現実のほうへ寄る気がした。
「流奈」
もう一度呼ばれても、喉は動かなかった。
「ねえ、どういうことなの」
「……何でもない」
「何でもないわけないでしょ!」
母の声が跳ねた。
居間の空気が一気に固くなる。流奈は反射で玄関のほうを見た。まだ早い。でも、こうやって立ち止まっているあいだにも時間は進む。
「病院は?」
急にそこを聞かれて、流奈は目を伏せた。
「行ってない」
「何で行かないの」
「……行けないし」
「何で行けないのよ」
何で。
そんなの、こっちが聞きたい。
金が要る。
一人で行って済むのかもわからない。
親だの同意書だの言われたら終わる。
でも、そこまで説明する気にはなれなかった。説明したところで、母は結局、自分の理解できる言葉に置き換えるだけだとわかっているからだ。
「誰の子なの」
その問いだけが、やけにまっすぐ落ちてきた。
流奈は黙った。
「流奈」
「……関係ないでしょ」
「関係あるわよ!」
母はほとんど叫んだ。
「あるに決まってるでしょう、こんな大事なこと!」
大事なこと。
その言い方が、少しだけ嫌だった。急に“正しい側”に立たれた感じがした。
「どうするつもりだったの」
流奈は唇を噛んだ。
答えなければ長くなる。
答えても長くなる。
「……下ろすしかないと思ってる」
口に出した瞬間、母の顔が変わった。
怒りだけではない。もっと別の、強く拒絶するみたいな色が混ざる。
「何言ってるの」
「何って」
「そんなこと、駄目よ」
母は一歩、流奈に近づいた。手にした袋がかさりと鳴る。
「何で」
「何でじゃないでしょ!」
次に来た言葉は、流奈が予想していたものとも、していなかったものとも少し違った。
「子どもは授かりものなんだから、そんなことしちゃ駄目よ」
流奈はそこで黙った。
怒られるのはわかる。
責められるのもわかる。
でも、そのあとに来るのがそれなのかと思うと、頭の中が少し白くなる。
授かりもの。
その言葉を、母はずっとどこかで大事にしてきたのだと、流奈は知っていた。自分を産んだ時のことを、母は何度も話した。三十を過ぎて、ようやくできた子だったこと。医者にもう難しいかもしれないと言われたあとに来たこと。奇跡みたいだったこと。
今も母は、義父との子を欲しがっている。
それができないことで、時々ひどく沈んでいるのも知っていた。台所でぼんやり立っている背中や、テレビの子ども番組を妙な顔で見ている横顔を、流奈は見たことがある。
だからこそ、今の母は本気でそう思っているのだ。
娘を責めたいだけじゃない。
止めたいのだ。
自分には来なかったものを、娘が自分から終わらせることが。
「授かった命なのよ」
「……」
「そんな、無かったことにするみたいなこと」
簡単に決めたわけじゃない。
怖いのに、そうするしかないと思っただけだ。
でも、その言い訳は母の言葉の前で急に薄くなる。
「そんなことしたら、一生後悔するわよ」
「……」
「ちゃんと考えなさいよ」
ちゃんと考えている。
考えて、考えて、それでも何も切れないところまで来ているのだ。
けれど母は、それを知らないまま“正しい言葉”だけを出してくる。悪意ではない。止めたいだけでもある。だから余計に逃げ場がない。
流奈は何も言えなかった。
言い返す前に、喉の奥が詰まる。
怒りでも悲しみでもなく、ただもう何も選べない自分が情けなくて、みっともなくて、声を出したら崩れそうだった。
母は袋を握ったまま、しばらく流奈を見ていた。やがて、泣きそうな顔を押し戻すみたいに息を吐く。
「……とにかく、来なさい」
「何」
「今から病院行く」
流奈は目を上げた。
「今?」
「今」
「無理」
「無理じゃない」
母は強くはないが、離さない掴み方で流奈の手首を取った。
「もう、こういうの先延ばしにしちゃ駄目だから」
「……」
「ちゃんと診てもらわないと」
“ちゃんと”という言葉が重かった。
家に戻ったのは、着替えと顔見せのためだけだった。
本当なら、そのまままた外へ出て、同じ夜をどうにかやり過ごすはずだった。
なのにその日の流奈は、母に手首を取られたまま、駅前の病院へ向かっていた。
待合室は妙に明るかった。白い壁、硬い椅子、番号で呼ばれる声。流奈はその中にいる自分だけが少し場違いな気がして、膝の上で手を握ったまま動けなかった。
母は隣に座っている。もう怒鳴ってはいない。けれど、何かを決めてしまった人の顔をしている。弱いくせに、こういう時だけ“母親”の顔をするのが少し嫌だった。
診察では、いくつか質問をされた。最後までほとんど短くしか答えなかった。流奈が何か言う前に、母のほうが「まだ十五で」「急にこんなことになって」と口を開きかけて、何度か飲み込んでいた。
流奈はそれを横で聞いていた。
それで済むなら、そのほうが楽だった。
診察のあと、説明を受ける。
その内容全部を、流奈はちゃんと覚えていない。
頭に残ったのはひとつだけだった。
時間がもう多くない、ということ。
早く決めないといけない。
先延ばしにしていい話ではない。
このまま黙っていても、待ってはくれない。
それだけが、やけにはっきりした。
病院を出ると、空はもう傾いていた。
義父が帰ってくる時間までには、また家を出なければいけない。そのいつもの流れだけは変わらないのに、身体の内側だけが急に別の重さを持っている。
「ちゃんと考えましょう」
帰り道で母がぽつりと言う。
「急がないといけないけど、でも、ちゃんと……」
その言葉は、もう流奈には届かなかった。
急がないといけない。
でも決められない。
下ろすのは怖い。
産むなんて無理だと思う。
なのに母は授かりものだと言う。
その全部が、ぐちゃぐちゃに絡まっている。
家の前まで来ると、母は「夜までには戻りなさいよ」とだけ言った。いつもの言葉だった。なのに今日は、そこへ戻る意味が少し違って聞こえる。
流奈は何も答えず、また歩き出した。
検査薬を見る前の自分にも、
母に見つかる前の自分にも、
病院へ連れて行かれる前の自分にも、
もう戻れない。
どこに、とはうまく言えない。
ただ、もう前と同じ顔ではいられないことだけが、変に静かにわかった。
駅前の明かりが、少しずつ強くなる。
流奈は鞄の内ポケットの上から手を押し当てた。茶封筒はそこにある。あるのに、前みたいな逃げ道の重さではもうなかった。
まだ、何も選べていない。
でも、選ばないままでいられる時間だけが、確実に減っていた。




