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フォルステリ  作者: 七奈 菜々
14/25

第14話 授かりもの


 その日、家に戻ったのは着替えのためだけだった。


 日はまだ高かったが、秋口の光は夏より薄い。玄関を開けた瞬間に、煮ものの甘い匂いと、干しかけの洗濯物の湿り気が混じって流れてきた。いつもの家の匂いだった。


 だから余計に、さっさと済ませて出たかった。


「おかえり」


 母の声が台所から飛んでくる。


「うん」


 流奈はそれだけ返して、そのまま階段へ向かった。居間の時計はまだ義父の帰宅には早い時間を指している。今のうちに制服を置いて、着替えて、顔を見せて、また出る。そのつもりだった。


 部屋に入って、鞄を床へ置く。脱ぎっぱなしだった服を拾って、引き出しを開ける。そこまではいつも通りだった。


 けれど、立ち上がった瞬間に、喉の奥がひゅっと狭くなった。


 何でもないはずの洗剤の匂いと、下から上がってくる味噌の匂いが、急に混じって鼻に刺さる。腹が痛いわけではない。ただ、込み上げるものを抑えるために、流奈は咄嗟に口を押さえた。


 少しだけ俯いて、息を浅くする。


 おさまれ、と思う。


 吐くな。

 ここで吐いたら終わる。


 しばらくそのままでいると、どうにか波は引いた。目の奥がじんとしただけで済んだことに、流奈は小さく息を吐く。


 駄目だ、と思った。


 こんなのが続くなら、隠しきれない。


 流奈は着替えを掴み直した。逃げるみたいにシャツを脱いで、別の服を頭からかぶる。鏡の中の自分は、少し青いだけで、そこまで変には見えない。


 まだいける。

 今なら出られる。


 そう思って部屋を出た瞬間、階段の下から母に呼ばれた。


「流奈」


 足が止まる。


「ちょっと来て」


 その声が、妙に静かだった。


 流奈は数秒だけ動けなかった。逃げるなら今だと思った。でも、ここで無視をすれば、もっと面倒になるのもわかる。


 仕方なく階段を下りると、母は居間と台所の境に立っていた。


 手に、小さなビニール袋を持っている。


 駅前のドラッグストアの袋だった。


 それを見た瞬間、流奈の背中が冷えた。


「これ、あんたの部屋のごみ箱に入ってた」


 母の声はまだ抑えられていた。

 だからこそ、もう誤魔化せないのがわかった。


「……知らない」


「知らないわけないでしょ」


 母は袋の口を少し開けた。中の箱までは見えなかったが、見えなくても十分だった。


「どういうこと?」


 流奈は答えなかった。


 答えたくない、では足りない。今ここで何か言葉を出したら、その瞬間に全部が現実のほうへ寄る気がした。


「流奈」


 もう一度呼ばれても、喉は動かなかった。


「ねえ、どういうことなの」


「……何でもない」


「何でもないわけないでしょ!」


 母の声が跳ねた。


 居間の空気が一気に固くなる。流奈は反射で玄関のほうを見た。まだ早い。でも、こうやって立ち止まっているあいだにも時間は進む。


「病院は?」


 急にそこを聞かれて、流奈は目を伏せた。


「行ってない」


「何で行かないの」

「……行けないし」


「何で行けないのよ」


 何で。


 そんなの、こっちが聞きたい。


 金が要る。

 一人で行って済むのかもわからない。

 親だの同意書だの言われたら終わる。


 でも、そこまで説明する気にはなれなかった。説明したところで、母は結局、自分の理解できる言葉に置き換えるだけだとわかっているからだ。


「誰の子なの」


 その問いだけが、やけにまっすぐ落ちてきた。


 流奈は黙った。


「流奈」


「……関係ないでしょ」


「関係あるわよ!」


 母はほとんど叫んだ。


「あるに決まってるでしょう、こんな大事なこと!」


 大事なこと。


 その言い方が、少しだけ嫌だった。急に“正しい側”に立たれた感じがした。


「どうするつもりだったの」


 流奈は唇を噛んだ。

 答えなければ長くなる。

 答えても長くなる。


「……下ろすしかないと思ってる」


 口に出した瞬間、母の顔が変わった。


 怒りだけではない。もっと別の、強く拒絶するみたいな色が混ざる。


「何言ってるの」


「何って」


「そんなこと、駄目よ」


 母は一歩、流奈に近づいた。手にした袋がかさりと鳴る。


「何で」


「何でじゃないでしょ!」


 次に来た言葉は、流奈が予想していたものとも、していなかったものとも少し違った。


「子どもは授かりものなんだから、そんなことしちゃ駄目よ」


 流奈はそこで黙った。


 怒られるのはわかる。

 責められるのもわかる。


 でも、そのあとに来るのがそれなのかと思うと、頭の中が少し白くなる。


 授かりもの。


 その言葉を、母はずっとどこかで大事にしてきたのだと、流奈は知っていた。自分を産んだ時のことを、母は何度も話した。三十を過ぎて、ようやくできた子だったこと。医者にもう難しいかもしれないと言われたあとに来たこと。奇跡みたいだったこと。


 今も母は、義父との子を欲しがっている。


 それができないことで、時々ひどく沈んでいるのも知っていた。台所でぼんやり立っている背中や、テレビの子ども番組を妙な顔で見ている横顔を、流奈は見たことがある。


 だからこそ、今の母は本気でそう思っているのだ。


 娘を責めたいだけじゃない。

 止めたいのだ。

 自分には来なかったものを、娘が自分から終わらせることが。


「授かった命なのよ」

「……」

「そんな、無かったことにするみたいなこと」


 簡単に決めたわけじゃない。

 怖いのに、そうするしかないと思っただけだ。


 でも、その言い訳は母の言葉の前で急に薄くなる。


「そんなことしたら、一生後悔するわよ」

「……」

「ちゃんと考えなさいよ」


 ちゃんと考えている。


 考えて、考えて、それでも何も切れないところまで来ているのだ。


 けれど母は、それを知らないまま“正しい言葉”だけを出してくる。悪意ではない。止めたいだけでもある。だから余計に逃げ場がない。


 流奈は何も言えなかった。


 言い返す前に、喉の奥が詰まる。

 怒りでも悲しみでもなく、ただもう何も選べない自分が情けなくて、みっともなくて、声を出したら崩れそうだった。


 母は袋を握ったまま、しばらく流奈を見ていた。やがて、泣きそうな顔を押し戻すみたいに息を吐く。


「……とにかく、来なさい」


「何」


「今から病院行く」


 流奈は目を上げた。


「今?」


「今」


「無理」


「無理じゃない」


 母は強くはないが、離さない掴み方で流奈の手首を取った。


「もう、こういうの先延ばしにしちゃ駄目だから」

「……」

「ちゃんと診てもらわないと」


 “ちゃんと”という言葉が重かった。


 家に戻ったのは、着替えと顔見せのためだけだった。

 本当なら、そのまままた外へ出て、同じ夜をどうにかやり過ごすはずだった。


 なのにその日の流奈は、母に手首を取られたまま、駅前の病院へ向かっていた。


 待合室は妙に明るかった。白い壁、硬い椅子、番号で呼ばれる声。流奈はその中にいる自分だけが少し場違いな気がして、膝の上で手を握ったまま動けなかった。


 母は隣に座っている。もう怒鳴ってはいない。けれど、何かを決めてしまった人の顔をしている。弱いくせに、こういう時だけ“母親”の顔をするのが少し嫌だった。


 診察では、いくつか質問をされた。最後までほとんど短くしか答えなかった。流奈が何か言う前に、母のほうが「まだ十五で」「急にこんなことになって」と口を開きかけて、何度か飲み込んでいた。


 流奈はそれを横で聞いていた。


 それで済むなら、そのほうが楽だった。


 診察のあと、説明を受ける。


 その内容全部を、流奈はちゃんと覚えていない。


 頭に残ったのはひとつだけだった。


 時間がもう多くない、ということ。


 早く決めないといけない。

 先延ばしにしていい話ではない。

 このまま黙っていても、待ってはくれない。


 それだけが、やけにはっきりした。


 病院を出ると、空はもう傾いていた。


 義父が帰ってくる時間までには、また家を出なければいけない。そのいつもの流れだけは変わらないのに、身体の内側だけが急に別の重さを持っている。


「ちゃんと考えましょう」


 帰り道で母がぽつりと言う。


「急がないといけないけど、でも、ちゃんと……」


 その言葉は、もう流奈には届かなかった。


 急がないといけない。

 でも決められない。

 下ろすのは怖い。

 産むなんて無理だと思う。

 なのに母は授かりものだと言う。


 その全部が、ぐちゃぐちゃに絡まっている。


 家の前まで来ると、母は「夜までには戻りなさいよ」とだけ言った。いつもの言葉だった。なのに今日は、そこへ戻る意味が少し違って聞こえる。


 流奈は何も答えず、また歩き出した。


 検査薬を見る前の自分にも、

 母に見つかる前の自分にも、

 病院へ連れて行かれる前の自分にも、

 もう戻れない。


 どこに、とはうまく言えない。


 ただ、もう前と同じ顔ではいられないことだけが、変に静かにわかった。


 駅前の明かりが、少しずつ強くなる。


 流奈は鞄の内ポケットの上から手を押し当てた。茶封筒はそこにある。あるのに、前みたいな逃げ道の重さではもうなかった。


 まだ、何も選べていない。


 でも、選ばないままでいられる時間だけが、確実に減っていた。

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