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フォルステリ  作者: 七奈 菜々
13/25

第13話 やっぱり



 朝の風が、少しだけ冷たくなっていた。


 秋の終わりだった。昼間はまだ陽があればましなのに、朝と夜だけは急に季節が先へ行く。駅前のコンビニには中華まんののぼりが出て、ドラッグストアの棚の端には、乾燥だの保湿だの、季節が変わる時だけ増える言葉が並び始めている。


 環とファミレスで夜を越したあの日のあと、流奈は家の近くまで一緒に来ようとする環を、かなり強く断った。


 母に心配をかけたくなかったからだ。


 朝の薄い時間に、知らない男と並んで家の近くへ戻るほうが面倒だった。説明もいらないし、余計な痕跡も残したくない。環は不満そうな顔をしたが、最後は何も言わなかった。


 それから数日が過ぎた。


 流奈はまた前みたいに、何でもない顔でCliveのライブへ行っていた。環の部屋へ行く夜もあれば、行かない夜もある。環は前より何か言いたそうな顔をすることが増えたが、無理に聞いてくるところまでは戻っていない。妙なところだけ慎重になって、でも気にしているのは隠せていない。そういう感じだった。


 環の部屋で朝の水槽の音を聞くのも、もう一度きりではなかった。


 何度か、そういう夜があった。

 朝までを曖昧に流した夜。

 名前をつけないまま、何でもない顔で帰った朝。


 けれど、十五だと知ってからの環は、前みたいに曖昧なまま近づいてくることがなくなった。

 泊まっても、水を飲んで、キャポさんを見て、少し喋って、それだけで朝になる。

 あの妙な慎重さは、たぶんそのせいだと流奈にもわかっていた。


 環と出会った頃は、夜に外を歩くだけで肌がべたついた。今はそこまでじゃない。


 最初に変だと思ったのは、朝だった。


 腹が痛いわけじゃない。熱があるわけでもない。ただ、目が覚めた瞬間から、身体の内側に薄い膜が張ったみたいに重い。起き上がれば動けるし、歩けもする。なのに、何かがずっと半歩遅い。


 駅前のパン屋の前を通った時、バターの匂いが急に嫌になった。


 自分でもそれが少し可笑しかった。今まで平気だった匂いなのに、鼻に入った途端、喉の奥がきゅっと狭くなる。流奈は足を止めるほどでもなく、そのまま通り過ぎたけれど、通り過ぎたあとも嫌な感じだけが残った。


 煙草の匂いも、前よりきつい。


 コンビニ前で男が吸っているだけで、前より一歩大きく避けたくなる。夏のあいだ、あんなに気にしていなかったのに、最近は鼻の奥に残るだけで少し気持ち悪い。


 でも、そういうのは考えないようにしていた。


 寝る場所も時間もばらついている。食べたり食べなかったりもする。身体なんて簡単に狂う。流奈はそういうふうに、自分のことを雑に扱うのに慣れていた。


 だから数えたのも、最初は確認のためだった。


 公園のベンチに座って、鞄の中に入れたままだった小さな手帳を開く。バイトの予定があるわけでも、誰かとの約束を書いているわけでもない。ただ、たまに日付を見失わないために持っているだけの安い手帳だった。


 ページの端を親指で押さえて、流奈は頭の中で指を折る。


 先月の終わり。

 その前。

 そのもっと前。


 途中で数えるのをやめた。


 やめても、もう遅いのはわかる。


 少し、ではない。


 そう思った瞬間に、胸のあたりがひどく静かになった。


 でも、違うかもしれないとも思った。


 思いたかった、のほうが近いのかもしれない。


         ◇


 その日もCliveのライブだった。


 箱の中は、夏ほどじゃないにしても、まだ人の熱がこもっていた。地下の空気は乾ききらずに重く、照明が落ちるたび視界の端に白い残像が滲む。ドリンクの甘い匂いと、誰かの整髪料と、機材の熱が混ざっている。


 流奈はいつもの場所に立っていた。前に出すぎず、でもちゃんと見えるところ。何度も来るうちに身体が覚えた位置だ。


 大輝のギターが鳴る。


 最初の一音で、やっぱりと思う。眩しいものは眩しいままだ。大輝は今日も前を向いていて、自分の音を人の前へ出すことに迷いがない。流奈にはあれが羨ましい。ずっとそうだ。


 けれど、その日は途中から少しおかしかった。


 ライトが一度強く当たった時、目の奥で白いものが弾けたみたいになった。次の瞬間、足元の床がわずかに遠くなる。人の肩越しに見ていたステージが、急に二重に見えた。


 まずい、と思った時には、もう遅かった。


 耳に入る音が、少しだけ遅れてくる。大輝のギターも、ドラムも、歓声も、全部水の向こうみたいだった。喉の奥が急に苦くなる。煙草の残り香か、誰かの酒か、それとも箱の空気そのものか、何が嫌なのかわからないまま、気持ち悪さだけがこみ上げた。


 流奈は壁に手をついた。


 立っていられないほどじゃない。けれど、このままここにいたらたぶんまずい。そういう感じだった。


 曲の途中だった。抜けるなら今だと思って、人の切れ目を見て少しずつ後ろへ下がる。誰にも気づかれないように。大げさにしないように。


 出口近くまで来たところで、急に目の前がふわっと暗くなった。


「流奈ちゃん?」


 声に顔を上げると、唯がいた。


 流奈は一瞬だけ息を止めた。見られたくなかった。けれど、今の顔ではたぶん無理だった。


「……ちょっと、気持ち悪い」


 そう言うと、唯の表情がすぐ変わる。


「座れる?」


「たぶん」


 唯はすぐに腕を取るようなことはしなかった。ただ、出口の脇の壁際へ流奈を寄せて、スタッフ用の簡易椅子みたいなものを引っ張ってくる。そういう距離の取り方がありがたかった。


「水、持ってくる」


「いい」


「よくない」


 唯は短く言って、そのままドリンクカウンターのほうへ行った。


 流奈は椅子に座って、俯いた。吐きそうなほどじゃない。でも、胃のあたりがずっと落ち着かない。胸の下に薄い重みがあって、それがじわじわ上がってくる感じがする。


 数分もなかったと思う。


 唯が戻ってきて、紙コップを差し出した。


「飲める?」


 流奈は頷いて、少しだけ飲んだ。冷たさが喉を通る。少しましになる。でも消えない。


「外、行ける?」


「……うん」


 唯に付き添われて箱の外へ出ると、夜気は冷たかった。さっきまであんなにこもっていた空気が嘘みたいに薄い。息を吸うだけで、肺の奥が少しだけ楽になる。


 ライブハウス脇の階段のところでしゃがみこむ。唯は流奈の隣に立ったまま、すぐには何も言わなかった。


「ごめん」


 流奈が言うと、唯は首を振る。


「別に謝ることじゃないよ」


 その言い方が自然で、余計に少し困る。


「最近、こういうのある?」


 しばらくしてから、唯が静かに聞いた。


 流奈は少しだけ黙った。


「……朝、ちょっと変」


「寝れてないとか?」


「それもあるかも」


「ごはんは」


「食べたり食べなかったり」


 そこまで言うと、唯は小さく息をついた。でも責める感じではなかった。


「病院とか、行けそう?」


 流奈は視線を逸らした。


「……たぶん、貧血みたいなやつ」


 唯はそこで少しだけ黙った。


「そっか」


 短く返す。


 それだけなのに、少しだけ救われる。追われないことに、こんなふうにほっとするのも変だと思った。


「じゃあ、少し休んだほうがいいよ」


「うん」


「中、戻れそう?」


「……無理かも」


「じゃあ、ここで待ってる?」


 流奈は頷いた。


 箱の中から、曲の終わりの歓声が漏れてくる。大輝がまだステージにいる音だった。流奈はその音を聞きながら、膝の上で指を組んだ。


 しばらくして、先に出てきたのは大輝だった。


「大丈夫?」


 顔を覗き込まれて、流奈は少しだけ笑う。


「……たぶん」


 その“たぶん”が頼りないのは自分でもわかった。


 大輝はすぐに唯を見た。唯が小さく首を振る。今はそれ以上言うなという合図みたいだった。大輝はそれを読んだらしい。


「送ろうか」


「いい」


 流奈が言うと、唯が先に口を開く。


「今日は帰したほうがよさそう」


 大輝は少しだけ黙って、それから頷いた。


「わかった。気をつけて帰れよ」


 その軽さに、流奈は少しだけ助けられる。


 大事にされすぎると困る。何でもないふうに言われるくらいが、今はちょうどよかった。


         ◇


 ドラッグストアの前で、流奈は足を止めた。


 白い蛍光灯の下に並んだ安っぽい日用品の中で、その箱だけが妙に静かに見える。見なかったことにして通り過ぎてもよかった。けれど、通り過ぎたところで、日付は戻らない。


 流奈は棚からひとつ取って、他のものに紛れさせるみたいにレジへ出した。店員は若い女で、顔も上げずにバーコードを通しただけだった。


 それだけで、少しだけほっとした。


 誰も何も言わない。

 だから余計に、自分だけが知っている感じが強くなる。


 封を切ったのは、駅から少し離れた公衆トイレの個室だった。綺麗でも汚くもない、ただ誰にも見られないだけの狭い場所。外では車の音が途切れず流れていて、壁一枚隔てただけなのに、そこだけ妙に静かだった。


 待つ時間が、やけに長い。


 手の中の白い棒を見ているうちに、流奈は何も考えないようにしていた。考えた瞬間、結果が形を持ってしまいそうだったからだ。


 やがて、線が出た。


 はっきりと。

 迷いようもなく。


「ああ、やっぱり」


 口に出た声は、自分でも驚くほど小さかった。


 驚いた、というより、当たってしまった確認に近かった。頭のどこかでは、もうわかっていたのだと思う。遅れていることも、朝の気持ち悪さも、煙草の匂いを前より嫌うことも、全部。


 わかっていて、それでも違うかもしれないと思いたかっただけだ。


 個室の鍵を開ける気になれず、流奈はしばらくそのまま蓋を閉じた便座に座っていた。


 下ろすしかない、と思う。


 最初に浮かんだのは、それだった。


 産むとか産まないとか、そういう順番ですらない。ただ、今のままじゃ無理だと思う。ここで抱えたまま生きる形なんて、流奈にはひとつも見えない。自分一人の身体ですら、毎日ちゃんと守れているわけじゃないのに。


 でも、下ろすしかないと思った次の瞬間には、もう何も動けなかった。


 病院へ行く。

 予約をする。

 金を払う。

 誰かに何かを言われる。

 同意書だとか、親だとか、年齢だとか、そういう面倒な言葉が次々浮かぶ。ひとつもちゃんと知らないくせに、知らないから余計に怖い。


 産むのも怖い。

 下ろすのも怖い。

 病院へ行くのも怖い。

 誰かに言うのも怖い。


 全部怖いくせに、何もしないのもたぶんもっとまずい。


 なのに、何も切れなかった。


 流奈は便座の蓋の上で、両手を膝に置いたまま俯いた。吐きそうなほど気持ち悪いわけじゃない。ただ、身体の内側に薄い膜が張ったみたいに、何もはっきりしない。


 環の顔が浮かんだ。


 浮かんで、今度はすぐには消えなかった。


 たぶん、環だと思う。


 そう思ってしまう程度には、この数か月、流奈はもう前みたいなことをしていない。夜にふらつく回数は減ったし、金のために知らない男の顔色を見ることも減った。行き先に迷えば環の部屋へ行って、水を飲んで、キャポさんを見て、気づけば朝が近くなっている。そういう夜が増えていた。


 何で忘れてたんだろう、と思う。


 金は要ったのに。

 ずっと要るのはわかっていたのに。

 家を出るための金を貯めることだけは、前からずっと切らさないようにしていたはずなのに、ここに来てそれが少し鈍っていた。


 環の部屋へ行けば、その夜をどうにかするための金が要らない。

 黙っていても朝までいられる。

 それで少しだけ気が緩んでいたのかもしれない。


 そのせいで増えなかった金を思うと、少しだけ腹が立った。

 自分に対して。


 でも、だからといって環に言えるわけじゃない。


 環は流奈のことを、何も知らない。

 家のことも、母のことも、夕方には出ることも、金を貯めている理由も、ほとんど話していない。話せば、そこから先まで聞かれる気がする。心配した顔で、もっと近くへ来られる気がする。


 それが嫌だった。


 もしこれが環の子だとして、環に言えば、たぶんもう今までみたいにはいられない。黙って水を飲んで、朝までいて、適当な顔で帰るだけの場所ではなくなる。何かを決めなきゃいけなくなる。説明しなきゃいけなくなる。


 そんなの、まだ無理だった。


 それに、これはまだ、自分の中でさえ言葉になっていない。


 誰かに渡した瞬間、もう戻れなくなりそうだった。


 流奈は深く息を吐いて、ようやく立ち上がった。鏡の中の自分は、いつも通りの顔をしていた。少し疲れて見えるくらいで、別に取り乱してもいない。だから余計に変な感じがする。


 こんな顔のまま、こんなことが起きている。


 トイレを出て、しばらくは何も考えずに歩いた。大通りの音も、人の話し声も、今日は妙に遠い。コンビニの前を通り、信号を渡り、気づけば小さな公園のベンチに座っていた。


 そこでやっと、鞄の中の封筒を思い出した。


 茶封筒はいつも通り、内ポケットの奥に入っている。角が少し擦れていて、重みは前と変わらないはずなのに、今日は指先に伝わる感じだけが違った。


 中身を膝の上に出す。


 一万円札、五千円札、千円札。

 数えなくても足りないのは知っていた。でも、それでも数える。数字にしないと、余計に何も見えなくなる気がした。


 十万八千円と、少し。


 ここでこの金を使えば、家を出る計画はまた遠のく。


 前から貯めていた金だった。

 妊娠したから逃げたくなったわけじゃない。流奈はもっと前から出るつもりでいた。家に帰る時間を選んで、補導を避ける服を選んで、昼を抜いて、釣りを残して、少しずつ、切らさないように貯めてきた。


 最初は“いつか”のためだった。


 それが、急に“今すぐ”へ近づいてくる。


 でも、この金があっても安心しなかった。


 むしろ逆だった。足りない現実だけが、前よりはっきりする。部屋を借りるにも、生きるにも、病院へ行くにも、何もかも中途半端な額に見える。


「……どうしよ」


 声にすると、あまりに空っぽで、自分で少し嫌になった。


 どうしようも何も、決めるしかないのに。

 下ろすなら早いほうがいい、くらいは流奈にだってわかる。わかるのに、病院の受付へ向かう自分が想像できない。知らない大人に名前を呼ばれて、歳を見られて、事情を聞かれて、そういう一つ一つに耐えられる気がしない。


 母に言う、という選択肢もあった。


 あったけれど、それを考えた瞬間、胸の奥が冷える。母は泣くかもしれない。怒るかもしれない。正しいことみたいに言葉を並べて、結局何も決めてくれないかもしれない。


 どれも嫌だった。


 流奈は札を封筒へ戻した。手つきだけが妙に落ち着いている。こういう時ほど、身体の外側だけは勝手に動く。


 空は早めに暗くなりかけていた。帰るには早い。家に戻ったところで、また時間を見て出るだけだ。戻れる時間も、いられる時間も限られている。身体の中にあるものだけが急に重くなって、でも景色のほうは何も変わらない。


 それが少し腹立たしかった。


 ベンチの前を自転車が通る。誰かが笑っている。信号が変わる。いつもの夜が始まっていく。


 流奈は封筒を鞄へ戻して、その上から口を押さえた。


 吐きたいわけじゃない。

 泣きたいわけでもない。


 ただ、何も決められない。


 下ろすしかないと思う。

 でも病院へ行けない。

 誰にも言えない。

 環にも頼れない。

 母にも言えない。


 時間だけが先に進む。


 そのことだけが、静かに、どうしようもなく怖かった。

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