第12話 おじさん
家の前まで来て、流奈は足を止めた。
灯りがついている。
それだけで、今日はだめだと思った。玄関の向こうに誰がいるのか、わざわざ確かめるまでもない。母の帰りが遅い日もある。逆に、あの人だけが先にいる日もある。今日はたぶん、そっちだった。
門の影に半歩だけ身を寄せて、耳を澄ます。テレビの音はしない。けれど、空気がもう嫌だった。家の前に立っただけで、呼吸の仕方が少し浅くなる。ここで無理に入って、見つかって、何でもない顔をして、部屋まで辿り着けるかどうかを考える。
今日は無理だと思った。
着替えたかった。せめて制服だけでも脱ぎたかった。けれど、そのために家へ入るほうが危ない夜もある。そういうのはもう何度もあった。
流奈は門から離れた。
制服のまま駅前へ向かう。スカートの裾が歩くたび脚に触れる。私服じゃないぶん、身体の輪郭ごと夜に晒されている気がした。
駅前はまだ明るかった。
コンビニの白い灯り。改札から出てくる人の流れ。自転車のブレーキ音。誰もこっちなんか見ていないのに、制服で立っているだけで少し落ち着かない。補導なんてされたら面倒だ。家に連絡なんかされたくない。
鞄の中の封筒を指先で確かめて、それから財布を開いた。
思っていたより少ない。
いや、思っていた通りかもしれない。CDを買った。Cliveのライブにも行った。環の部屋へ行くようになってから、駅前で時間を潰す夜が少し減った。そのぶん、増えるはずのものが増えていない。減りはしなくても、停まっている。今夜みたいに制服のまま出てきた日は、余計にやりにくい。
しょうがない、と流奈は思う。
使ってるんだから、減る。
そういうだけのことだ。
「お嬢ちゃん」
聞き慣れた声に、流奈は顔を上げた。
いつものおじさんだった。
駅前の端で、たまに会う。最初の頃は警戒した。でもこの人は、少なくとも無茶を言わない。こっちの顔色を見る。嫌そうにした日は深入りしない。だから、今夜みたいな日は正直少し助かる。
「珍しいね。制服」
おじさんはそう言って、少しだけ首を傾げた。
「うん」
流奈は曖昧に笑う。
「今日、帰りそびれた」
「そう」
それ以上は聞いてこない。その距離感がありがたかった。
「何か食べた?」
「まだ」
「じゃあ、お茶でもする?」
流奈は一瞬だけ考えた。
助かった、と思ってしまう。
こんなことを助かったと思う自分はあまり好きじゃない。けれど、今夜は制服のまま長く一人で立っているよりずっとましだと思った。
「じゃあ、少しだけ」
そう答えると、おじさんは満足そうに頷いた。
駅前の端の、遅くまで開いている喫茶店に入る。店内は少し古くて、壁の色も、テーブルの木目もくすんで見えた。冷房が少し効きすぎていて、制服のまま入ると腕に鳥肌が立つ。
流奈はホットティーを頼んだ。おじさんはコーヒー。何か甘いものも頼めばと言われたけれど、そこまでは首を振った。
おじさんは本当に、無茶を言わない。
話も当たり障りのないところを行ったり来たりするだけだった。暑いね、駅前も人多いね、花火の時期は混むね、そんなことばかり。流奈も適当に相槌を打って、笑うところでは笑った。
こういうのは慣れている。
愛想よくして、普通の子に見せる。話しているように見えて、何も渡さない。そうすれば大体の夜は抜けられる。
何を考えているのかわからないと言われることがある。たぶんその通りだと思う。全部わかられてしまったら、どうせ面倒になる。
店を出た時には、少しだけ夜が進んでいた。
駅前の空気はまだぬるく、制服の襟元に熱が残る。おじさんは財布をしまいながら言った。
「送ろうか?」
「いい。ここで平気」
流奈が言うと、おじさんは少しだけ流奈の顔を見た。
「そう。じゃあ、またね」
「うん、ありがとう」
その場で頭を下げる。
おじさんが離れていくのを見送って、流奈は小さく息を吐いた。
助かった。今夜は、それでいいと思うことにする。
「何してんの」
声に、肩がわずかに止まる。
振り向くと、環が立っていた。
練習帰りらしい。ギターケースを肩にかけたまま、こっちを見ている。目つきがいつもより悪い。怒っているのか、驚いているのか、その両方なのかもしれない。
「……何でいるの」
「こっちの台詞だろ」
「駅前なんだから、いても変じゃないし」
「お前は変だろ」
「何それ」
環はすぐには答えず、さっきおじさんが歩いていった方向を一度だけ見た。それから流奈に視線を戻す。
「誰、今の」
「知り合い」
「どういう」
「駅前で会う人」
言うと、環の眉が寄る。
「それ知り合いって言わねえだろ」
「言うよ、顔知ってるし」
「そういう話じゃなくて」
環が苛立つ。流奈はそれを見て、逆に少し冷める。
今さら何を言うのだろうと思う。
今までだってこういう夜はあった。環の部屋へ行く夜もあれば、こうして駅前で時間を潰す夜もあった。環が知らなかっただけで、なくなったわけじゃない。
「助かっただけだよ」
流奈が先に言うと、環は口を閉じた。
「何が」
「今日は着替えられなかったし」
「は?」
「家、入ってない」
それだけ言う。説明はしない。
環の顔が少し変わる。怒りとも違う。咄嗟に言葉を探して、でもうまく出てこない時の顔だった。
「……それで?」
「それで、ちょっと助かった」
「だからって」
そこでまた止まる。
環はたぶん、おじさんのことを悪い人だと言いたいわけではない。けれど、平気でもないのだろう。実際、顔がそうなっている。
「この人は顔色見てくれるし」
流奈はわざと軽く言った。
「無茶言わないから」
その言い方が環には気に入らなかったらしい。目の色が少しだけ変わる。
「そういう問題じゃねえだろ」
「じゃあ何」
「……何でそんなの普通みたいに言うんだよ」
少し低い声だった。
流奈はそこで初めて、少しだけ環の顔をまともに見た。
怒っているというより、うまく処理できていない顔だった。
「普通だよ」
「普通じゃねえよ」
「ウチには普通」
その返しに、環は黙る。
駅前の音だけが遠くで続く。改札のアナウンス。笑い声。コンビニの自動ドアの開く音。どれも大きくはないのに、二人の間の沈黙だけ妙に浮いている。
環がやっと言う。
「部屋、来ればよかっただろ」
流奈は少しだけ眉を寄せた。
「何でそんなこと、あんたが決めるの」
「決めてねえよ。そっちのほうがましだって言ってんの」
「何が」
「ここより」
そう言い切ったあとで、環は自分でも雑だと思ったみたいに息を詰めた。
流奈はその顔を見て、少しだけ笑いたくなる。笑わなかったけれど。
放っておけないのだろう。気になるのだろう。それはもうわかる。けれど、わかったからといって、それがそのままありがたいにはならない。
「最近、環の部屋にいること多かったから」
流奈は鞄の紐を持ち直した。
「お金、増えてないんだよね」
環が止まる。
「……は?」
「そりゃそうでしょ。CD買って、ライブ行ってるし」
環は言葉を失ったみたいに黙った。
流奈はその顔を見て、少しだけ面倒くさくなる。こういう話をすると、相手は決まって固まる。可哀想なものを見る目になるか、余計に首を突っ込んでくるか、そのどっちかだ。
「だから今夜は助かったの」
平らに言う。
「それだけ」
環は何も返さない。
返せないのかもしれない。
ケースの持ち手を握る手だけが、少し強くなっていた。
「……お前さ」
やっと出た声は、思っていたより掠れていた。
「そういうの、平気な顔で言うなよ」
「平気な顔しないと面倒だから」
即答だった。
環がまた黙る。
それ以上は踏み込まないほうがいい顔をしていた。けれど、何か言いたい顔でもあった。
流奈は先に視線を外した。
「帰る」
「送る」
「いらない」
「いや、いる」
「何で」
「今はそうしたい」
前にも聞いた言い方だと思った。環は本当に、そこだけは変にぶれない。心配なのか、意地なのか、自分でもわからないまま言っている感じがする。
流奈は少しだけ息を吐く。
「めんどくさ」
「うるせえ」
でも、その返しは少し弱かった。
流奈はすぐには歩き出さなかった。環も急かさない。駅前の風が少しだけ動いて、制服の裾を揺らす。ケースを肩にかけたまま立っている環の横顔を、流奈はちらりとだけ見た。
さっきまでの怒った顔とは少し違う。怒っているというより、どうしたらいいかわからない顔だ。
その顔を見ると、余計に何も言いたくなくなる。
「……別に、助かっただけだから」
流奈がもう一度言うと、環は少し遅れて頷いた。
「わかってる」
たぶん、全部はわかっていない。
でも、わからないなりに食らっている顔ではあった。
それで十分かどうかは、流奈にもわからない。
「じゃあ、行く」
「おう」
今度は並んで歩き出す。環は半歩後ろで、でも離れずについてくる。前みたいに勝手に引っ張らない。けれど、放っておくほど器用でもない。
駅前のざわめきが少しずつ背中へ回る。
十五歳だと知っても、環の心配で夜が変わるわけじゃない。家に帰れない夜はまだあるし、外で時間を潰すしかない日もある。部屋という選択肢ができても、それだけで全部は片づかない。
そういう当たり前を、たぶん今夜の環はやっと目で見た。
「……どこまで」
環が低く聞く。
流奈は少しだけ考えてから、駅前の明るいほうを見た。
「始発までいられそうなとこ」
環はすぐには返さなかった。
送る、の先に家があるわけじゃないことは、もうわかっていたはずだ。けれど、こうして言葉で置かれると、思っていたより重かったらしい。ケースの持ち手を握る指先に、少しだけ力が入る。
「……ファミレス行くか」
流奈は横目で環を見る。
「お金ないの?」
「あるよ、それくらい」
「じゃあ奢り?」
「うるせえな」
でも、その返しは少し弱かった。
断る理由はなかった。今さらコンビニの前で立ち尽くしているより、まだ椅子があって、朝まで追い出されない場所のほうがいい。環が隣にいるのは少し面倒だったけれど、今夜はそれを断って一人に戻る気分でもなかった。
「……じゃあ行く」
それだけ言うと、環は小さく頷いた。
駅前の大通りを少し外れたところにあるファミレスは、夜中とも朝方ともつかない客で薄く埋まっていた。窓際には終電を逃したらしい若い男二人、奥には新聞を広げた年配の客、入口近くには化粧の濃い女が一人でドリンクバーのコップを回している。
明るすぎる店内に入った瞬間、流奈は少しだけ肩の力を抜いた。
制服のままでも、ここなら変じゃない。少なくとも駅前で立っているよりは、見られ方がましだった。
店員に二人と告げて、奥寄りの席に通される。向かい合わせのソファに座ると、テーブルの表面が妙に冷たく見えた。
「何飲む」
「水でいい」
「ドリンクバーついてる意味」
「別にジュース飲みたい気分じゃないし」
「年寄りくせえな」
「そっちでしょ」
環が小さく鼻で笑って、ベルを押す。
とりあえずドリンクバーと、適当にポテトと、環はコーヒーを頼んだ。流奈はメニューを開いてから閉じる。腹が減っていないわけじゃない。でも今は、食べたいより先に眠かった。
店内には、食器の触れ合う音と、小さく流れている有線と、厨房の向こうで油が鳴る音が混ざっている。夜を越すためだけの店の音だった。
水を飲んで、流奈は少しだけ息をついた。
「何時まで」
環が聞く。
「始発か、朝」
「雑すぎるだろ」
「朝になったら家見に行く」
環の顔が少しだけ止まる。
「見に行くって何だよ」
「入れそうなら入る」
「入れなかったら」
「そのまま学校」
平らに答えると、環は言葉を失ったみたいに黙った。
流奈はテーブルの端を指でなぞる。木目に見えるプリントが、近くで見ると安っぽい。
「そんな顔しなくていいし」
「どんな顔だよ」
「知らないけど、変」
環はコーヒーのカップを持ち上げかけて、また置いた。
「……普通そういうの、言わねえだろ」
「言ったほうが黙るかなと思って」
「黙ったけど」
「うん」
ポテトが来る。店員がトレーを置いて去っていく。環はとりあえず皿を流奈のほうへ押した。
「食え」
「いらない」
「またそれ」
「眠い」
「じゃあ一本だけ」
流奈は少しだけ迷って、一本つまんだ。冷める前の塩気が舌に残る。空腹だと自覚したくない時ほど、こういうもののほうが入りやすい。
「……うまい」
「だろ」
「ポテトが」
「知ってる」
少しだけ間が空く。
環は前みたいに次々聞いてこなかった。たぶん聞きたいことは山ほどあるのだろうけれど、どこまで聞いていいのかわからない顔をしている。そういう迷い方をするのが、少しだけ意外だった。
流奈はストローで水をかき混ぜた。氷が小さく鳴る。
「今日、練習だったんでしょ」
「……何でわかる」
「ケース」
「ああ」
環は少しだけ肩を落とした。
「追い返された」
流奈が顔を上げる。
「何で」
「集中できてねえって」
「へえ」
「へえ、じゃねえよ」
「下手だったんだ」
「うるせえ」
そう言いながらも、環は少しだけ自分で嫌そうな顔をした。
「実際、ひどかったし」
流奈は少しだけ笑う。
それは本当に、少しだけだった。けれど、環はその小さい変化にすぐ気づいたらしい。気づいて、でもそれに触れない。前ならそこで何か言ったかもしれないのに、今夜は言わなかった。
「……何」
「いや」
「変な顔」
「お前に言われたくねえ」
店の外を一台、大きなトラックが通っていく。窓が少しだけ震える。夜が深いのか、もう朝に近いのか、店の中ではだんだんわからなくなってくる。
流奈は制服の袖を少しだけ引いた。やっぱり着替えられなかったことが気になる。胸元の皺も、スカートの折り目も、ずっと同じままだ。
「眠いなら寝れば」
環が言う。
「無理」
「何で」
「ここ」
「まあ、そうか」
環はそれ以上言わない。代わりに自分のコーヒーを一口飲んで、苦そうな顔をした。
流奈はその横顔を見て、少しだけ考える。
こういう時、普通の人なら何を言うのだろうと思う。ありがとう、なのか、ごめん、なのか。でもどちらも今は違う気がした。
ありがとうと言うほど、助けられた顔はしたくない。
ごめんと言うほど、頼ったつもりでもない。
だから何も言わない。
何も言わないまま、ポテトをもう一本取る。
環はそれを見て、何も言わずに皿を少しだけ近づけた。
店内の時計は、もうすぐ二時を回るところだった。
「……家、いつ見に行くの」
環が低く聞く。
「五時とか六時」
「早」
「朝だから」
「そのあと学校?」
「たぶん」
環はまた黙る。
その沈黙の意味を流奈は拾わなかった。拾うとまた面倒になる気がした。
代わりに窓の外を見る。道路の色が、ほんの少しだけ薄くなったような気がする。まだ気のせいの範囲だけれど、夜はちゃんと終わりへ向かっていた。
「送る」
環が言う。
「どこまで」
「家、見に行くとこまで」
「いらない」
「いる」
前にも聞いた言い方だと思う。
「何で」
「……一人で行かせたくねえから」
少しだけ間を置いて出た言葉だった。勢いじゃないぶん、前より重い。
流奈はそれを聞いて、すぐには返さなかった。
重いな、と思う。
でも、今夜はそこまで突き放す気にもなれない。
「朝なら、別に平気だし」
「平気そうに言うな」
「平気じゃないとやれないし」
環はそこで、また何も言えなくなる。
流奈は視線を落として、水を飲んだ。冷たいはずなのに、もう味がよくわからない。
この店を出たら、たぶんまた朝の現実が始まる。家へ近づいて、様子を見て、入れそうなら入る。無理ならそのまま学校へ行く。今日一日をまた何事もない顔でやり過ごす。
それだけだ。
それだけのはずなのに、テーブルの向こうに環がいるせいで、少しだけ手順が変わって見える。
店の明るさの中で、環は肘をつかずに座っていた。前みたいに勝手に前へ出る感じではなく、でも引きもしない。どうしたらいいのかわからないまま、ここにいる顔だった。
流奈はその顔を見て、少しだけ目を逸らした。
やっぱり何も言わない。
言ったら増える気がした。
だから、ただ店の時計だけを見る。秒針はないのに、時間だけはちゃんと進んでいた。
朝までまだ少しある。
その少しを埋めるために、流奈はもう一本ポテトを取った。




