第11話 違い
スタジオの空気は、昼間の熱を引きずったまま夜に入っていた。
地下の狭い部屋に、アンプの熱と人の汗と古いカーペットの匂いが混ざっている。いつもと同じはずなのに、環にはやけに息苦しかった。
ギターを肩にかける。
シールドを挿す。
アンプのつまみを触る。
手順は身体に入っている。考えなくてもできる。できるのに、その先だけが駄目だった。
曲の頭で入るはずのフレーズを、一拍遅らせた。
ドラムが止まる。
歌が切れる。
ベースが半端に尾を引いて、スタジオの中に気まずい沈黙だけが残った。
「……環、機嫌悪くねえ?」
最初に言ったのは尚人だった。
ベースを下ろしながら、半分ふざけた声でそう言う。けれど目はちゃんと環を見ている。茶化すだけの時の顔ではない。
「機嫌っつーか、今日ずっと変じゃん」
毅がスティックを膝で回しながら言った。
「さっきから三回目だぞ」
「二回だし」
環が言うと、司がすぐ返す。
「今の入れりゃ三回だろ」
環は舌打ちしたいのをこらえて、ギターのボリュームをいじった。意味はない。音が悪いわけじゃないのは自分でもわかっている。
ただ、何かのせいにしたかった。
「やり直す」
「やり直しゃ直る感じか?」
司の声は低かった。怒鳴ってはいない。でも、いらつきが混ざっている。
環は何も返さないまま、足元だけを見る。
集中できない。
たったそれだけのことが、今の環には致命的に重かった。
流奈が来なくなって、もう何日目かになる。
数えていないつもりだった。つもりだったのに、最後に部屋へ来た夜のことは、やけに細かく覚えている。水を飲んだ位置、キャポさんを見ていた横顔、玄関を出ていく時の「わかってる」の声色。
来る日は夜の九時頃だ。
来ない日もある。けれど来る日は、だいたいそのへんだった。なのに今は、その時間を過ぎてもノックがしない。それだけで、部屋の静けさの質まで変わる気がした。
「なあ」
尚人がニヤつきかけて、でも完全には茶化しきれない顔で言う。
「もしかしてさ、あれ? Cliveんとこのファン一号ちゃん?」
環の指が止まった。
「は?」
「いやだって、最近ずっとそっち系の顔してんじゃん」
「そっち系って何だよ」
「知らねえけど、女絡みで沈んでる男の顔?」
「雑すぎるだろ」
毅が笑う。
でもその笑いも軽すぎない。みんな、なんとなく核心には触れている。
「図星っぽいな」
「うるせえよ」
環が吐き捨てると、尚人が「うわ、やっぱり」と少し身を引いた。
「マジかよ。環、あの子のことまだ引きずってんの?」
「まだって何だよ」
「いや、だってあの子、別に環の彼女って感じでも……」
そこまで言いかけて、尚人が言葉を濁す。
濁したところで、言いたいことは充分伝わった。
環は無意識にピックを握り込んでいた。
「何だよ」
「いや、何でも」
「言えよ」
「いや……」
尚人が視線を泳がせると、毅が代わりみたいに口を開く。
「環は彼女寄りで見てるんだろうけど、向こうは違うんじゃねえのって話」
まっすぐだった。
まっすぐすぎて、環は一瞬返せなかった。
違う。
そう言いたいのに、自分でもその言葉に自信がない。
告白したわけじゃない。
付き合おうと確認したわけでもない。
ただ、夜を一緒に越すことが増えて、部屋にいるのが自然になって、環の中でだけ勝手に近くなっていた。
その近さを、流奈が同じ意味で受け取っていたかどうかは、今さら誰にも言い切れない。
司が壁にもたれたまま、短く言った。
「図星か」
「図星じゃねえよ」
反射みたいに返したその声が、自分で思ったより弱かった。
司はそこで少しだけ目を細めた。
「じゃあ何だよ」
「……気にしてただけだし」
「は?」
尚人が素で聞き返す。
「その顔で?」
「うるせえ」
「いやだって、気にしてただけのテンションじゃねえだろ」
毅も笑いながら言う。けれど、その笑いはさっきよりもっと薄い。笑ってはいるが、環の沈み方が本気なのをわかっている顔だ。
「お前さ」
司が環を見る。
「自分じゃどう思ってんの」
「何が」
「その子のこと」
環は答えられなかった。
好きだとか、そういう一語にすると、急に嘘になる気がする。欲しいも、放っとけないも、来ないと落ち着かないも、全部混ざっている。きれいに切り分けられないものを、そのまま抱えている。
司はその沈黙を見て、ため息をついた。
「面倒くせえな」
「知ってる」
「知ってるならもうちょい演奏に持ち込むなよ」
正論だった。
正論すぎて、腹が立つ隙もない。
環はもう一度ギターを構え直した。
「……やる」
「できるならな」
司が顎をしゃくる。
毅がスティックを鳴らし、尚人がベースを持ち直す。
今度は曲の頭を外さない。
そこは入れた。
けれど二番に入る前で、環の音が少し走った。自分だけが前に出る。ドラムと噛み合わない。司の歌が一拍探るように揺れる。
「ストップ」
司が切った。
今度は誰もすぐに喋らなかった。
黙ったままの数秒が、さっきより痛い。
環はギターを下ろした。壁の黒ずみだけが妙に目につく。
「悪い」
「悪いで済むなら楽だよな」
司の言い方はきつい。でも、そのきつさは怒鳴るためのものじゃない。止めるためのきつさだった。
毅が空気を少し和らげるみたいに笑う。
「環、今日だめだわ。珍しく派手に沈んでる」
「珍しくって何だよ」
「いや、普段はもうちょい取り繕うだろ」
尚人がベースのネックを肩に乗せながら言う。
「今日の環、わかりやすすぎ」
「うるせえって」
「心配しただけなんだろ?」
尚人が半分冗談みたいに言った瞬間、環の顔が少しだけ動いた。
その反応を、司は見逃さなかった。
「……そういうことか」
「何が」
「お前、自分じゃ“心配しただけ”のつもりでいるんだな」
環は言葉に詰まる。
「違うのかよ」
「違うかどうかじゃねえ」
司はまっすぐ環を見る。
「お前がどう思ってようが、向こうにそれがどう届いたかだろ」
環は何も返せなかった。
返せないまま、流奈の「前みたいにしてよ」が頭の中でまた響く。
気になった。
夜に一人でいるのが危ないと思った。
学校も気になった。
飯を食ってるのかも、どこにいるのかも、気になって仕方なかった。
それは本当だ。
でも、その本当が流奈にはどう見えたのか。もう答えは出ている。
「……心配しただけでさ……」
気づくと、そう零れていた。
誰に向けたのか、自分でもわからない声だった。
スタジオの空気が少しだけ変わる。
尚人が黙る。
毅も笑うのをやめる。
司だけが、少し間を置いてから口を開いた。
「その“だけ”がでけえんだろ」
環は顔を上げない。
司は続ける。
「お前が本気なのはわかる」
そこで一度切って、壁から背を離した。
「でも、本気だからって何でも正解になるわけじゃねえよ」
環の喉が、妙に乾く。
「気になるならちゃんと伝えろ。勝手に囲う方向行くな」
司はそこで、少しだけ声を強くした。
「でも今は演奏に身が入ってねえ。帰れ」
環が顔を上げる。
「いや、まだやれる」
「黙るのはお前だ」
切り捨てるみたいに言われて、環はそこで完全に止まった。
司は怒っている。
でも、それだけじゃないのもわかる。今の環がこの場にいても、もうまともな音にならないと見切っている顔だった。
毅が肩をすくめる。
「今日は帰って寝ろ。寝れる顔じゃねえけど」
尚人も気まずそうに笑う。
「環、今ギターより顔のほうがひどいし」
「……うるせえ」
それしか返せない。
ギターをケースに戻す手つきだけは、妙に丁寧だった。雑に扱う気分にもなれない。蓋を閉じて、ストラップを押し込み、立ち上がる。
スタジオを出る前、司が低く言った。
「逃げんなよ」
環は振り返らなかった。
「……わかってる」
本当にわかっているのかは、自分でも怪しい。
階段を上がって地上へ出ると、夜の空気は思ったよりぬるかった。コンビニの光が遠くにあって、駅前のざわめきが薄く流れてくる。
ケースを肩にかけたまま、環はしばらくその場に立っていた。
彼女だと思ってるのは自分だけ。
尚人の言葉が、変に残る。
彼女、なんて、たぶんそんな単純なものじゃない。名前をつける前に近くなって、近いくせに同じものを見ていたわけでもない。そのズレを抱えたまま、環だけが勝手に内側へ入ったつもりになっていた。
それが本気じゃなかったわけじゃない。
本気だった。
だから余計に痛い。
環はケースを壁に立てかけて、煙草を一本出しかけた。
指先で少し弄んでから、結局戻す。
吸っても変わらない気がした。
家に電話なんかできるわけがない。伝言を頼めるような相手でもない。駅前をうろつけば見つかるかもしれないし、全然見つからないかもしれない。
何もできないのに、何もしないでもいられない。
その半端さが、自分らしいといえばそうだった。
「……だせえ」
小さく呟いて、環はケースを持ち直した。
今日は帰れと言われた。
たぶん正しい。
でも部屋に戻っても、キャポさんの水槽の音の中で、また流奈のことばかり考えるのだろうとわかっていた。来ない夜の静けさと、言えなかった言葉と、「心配しただけでさ……」の、その“だけ”の重さを。
それでも、帰るしかなかった。




