表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
フォルステリ  作者: 七奈 菜々
11/27

第11話 違い


 スタジオの空気は、昼間の熱を引きずったまま夜に入っていた。


 地下の狭い部屋に、アンプの熱と人の汗と古いカーペットの匂いが混ざっている。いつもと同じはずなのに、環にはやけに息苦しかった。


 ギターを肩にかける。

 シールドを挿す。

 アンプのつまみを触る。


 手順は身体に入っている。考えなくてもできる。できるのに、その先だけが駄目だった。


 曲の頭で入るはずのフレーズを、一拍遅らせた。


 ドラムが止まる。

 歌が切れる。

 ベースが半端に尾を引いて、スタジオの中に気まずい沈黙だけが残った。


「……環、機嫌悪くねえ?」


 最初に言ったのは尚人だった。


 ベースを下ろしながら、半分ふざけた声でそう言う。けれど目はちゃんと環を見ている。茶化すだけの時の顔ではない。


「機嫌っつーか、今日ずっと変じゃん」


 毅がスティックを膝で回しながら言った。


「さっきから三回目だぞ」


「二回だし」


 環が言うと、司がすぐ返す。


「今の入れりゃ三回だろ」


 環は舌打ちしたいのをこらえて、ギターのボリュームをいじった。意味はない。音が悪いわけじゃないのは自分でもわかっている。


 ただ、何かのせいにしたかった。


「やり直す」


「やり直しゃ直る感じか?」


 司の声は低かった。怒鳴ってはいない。でも、いらつきが混ざっている。


 環は何も返さないまま、足元だけを見る。


 集中できない。


 たったそれだけのことが、今の環には致命的に重かった。


 流奈が来なくなって、もう何日目かになる。


 数えていないつもりだった。つもりだったのに、最後に部屋へ来た夜のことは、やけに細かく覚えている。水を飲んだ位置、キャポさんを見ていた横顔、玄関を出ていく時の「わかってる」の声色。


 来る日は夜の九時頃だ。


 来ない日もある。けれど来る日は、だいたいそのへんだった。なのに今は、その時間を過ぎてもノックがしない。それだけで、部屋の静けさの質まで変わる気がした。


「なあ」


 尚人がニヤつきかけて、でも完全には茶化しきれない顔で言う。


「もしかしてさ、あれ? Cliveんとこのファン一号ちゃん?」


 環の指が止まった。


「は?」


「いやだって、最近ずっとそっち系の顔してんじゃん」


「そっち系って何だよ」


「知らねえけど、女絡みで沈んでる男の顔?」


「雑すぎるだろ」


 毅が笑う。


 でもその笑いも軽すぎない。みんな、なんとなく核心には触れている。


「図星っぽいな」


「うるせえよ」


 環が吐き捨てると、尚人が「うわ、やっぱり」と少し身を引いた。


「マジかよ。環、あの子のことまだ引きずってんの?」


「まだって何だよ」


「いや、だってあの子、別に環の彼女って感じでも……」


 そこまで言いかけて、尚人が言葉を濁す。


 濁したところで、言いたいことは充分伝わった。


 環は無意識にピックを握り込んでいた。


「何だよ」


「いや、何でも」


「言えよ」


「いや……」


 尚人が視線を泳がせると、毅が代わりみたいに口を開く。


「環は彼女寄りで見てるんだろうけど、向こうは違うんじゃねえのって話」


 まっすぐだった。


 まっすぐすぎて、環は一瞬返せなかった。


 違う。

 そう言いたいのに、自分でもその言葉に自信がない。


 告白したわけじゃない。

 付き合おうと確認したわけでもない。

 ただ、夜を一緒に越すことが増えて、部屋にいるのが自然になって、環の中でだけ勝手に近くなっていた。


 その近さを、流奈が同じ意味で受け取っていたかどうかは、今さら誰にも言い切れない。


 司が壁にもたれたまま、短く言った。


「図星か」


「図星じゃねえよ」


 反射みたいに返したその声が、自分で思ったより弱かった。


 司はそこで少しだけ目を細めた。


「じゃあ何だよ」


「……気にしてただけだし」


「は?」


 尚人が素で聞き返す。


「その顔で?」


「うるせえ」


「いやだって、気にしてただけのテンションじゃねえだろ」


 毅も笑いながら言う。けれど、その笑いはさっきよりもっと薄い。笑ってはいるが、環の沈み方が本気なのをわかっている顔だ。


「お前さ」


 司が環を見る。


「自分じゃどう思ってんの」


「何が」


「その子のこと」


 環は答えられなかった。


 好きだとか、そういう一語にすると、急に嘘になる気がする。欲しいも、放っとけないも、来ないと落ち着かないも、全部混ざっている。きれいに切り分けられないものを、そのまま抱えている。


 司はその沈黙を見て、ため息をついた。


「面倒くせえな」


「知ってる」


「知ってるならもうちょい演奏に持ち込むなよ」


 正論だった。


 正論すぎて、腹が立つ隙もない。


 環はもう一度ギターを構え直した。


「……やる」


「できるならな」


 司が顎をしゃくる。

 毅がスティックを鳴らし、尚人がベースを持ち直す。


 今度は曲の頭を外さない。

 そこは入れた。


 けれど二番に入る前で、環の音が少し走った。自分だけが前に出る。ドラムと噛み合わない。司の歌が一拍探るように揺れる。


「ストップ」


 司が切った。


 今度は誰もすぐに喋らなかった。


 黙ったままの数秒が、さっきより痛い。


 環はギターを下ろした。壁の黒ずみだけが妙に目につく。


「悪い」


「悪いで済むなら楽だよな」


 司の言い方はきつい。でも、そのきつさは怒鳴るためのものじゃない。止めるためのきつさだった。


 毅が空気を少し和らげるみたいに笑う。


「環、今日だめだわ。珍しく派手に沈んでる」


「珍しくって何だよ」


「いや、普段はもうちょい取り繕うだろ」


 尚人がベースのネックを肩に乗せながら言う。


「今日の環、わかりやすすぎ」


「うるせえって」


「心配しただけなんだろ?」


 尚人が半分冗談みたいに言った瞬間、環の顔が少しだけ動いた。


 その反応を、司は見逃さなかった。


「……そういうことか」


「何が」


「お前、自分じゃ“心配しただけ”のつもりでいるんだな」


 環は言葉に詰まる。


「違うのかよ」


「違うかどうかじゃねえ」


 司はまっすぐ環を見る。


「お前がどう思ってようが、向こうにそれがどう届いたかだろ」


 環は何も返せなかった。


 返せないまま、流奈の「前みたいにしてよ」が頭の中でまた響く。


 気になった。

 夜に一人でいるのが危ないと思った。

 学校も気になった。

 飯を食ってるのかも、どこにいるのかも、気になって仕方なかった。


 それは本当だ。


 でも、その本当が流奈にはどう見えたのか。もう答えは出ている。


「……心配しただけでさ……」


 気づくと、そう零れていた。


 誰に向けたのか、自分でもわからない声だった。


 スタジオの空気が少しだけ変わる。


 尚人が黙る。

 毅も笑うのをやめる。

 司だけが、少し間を置いてから口を開いた。


「その“だけ”がでけえんだろ」


 環は顔を上げない。


 司は続ける。


「お前が本気なのはわかる」


 そこで一度切って、壁から背を離した。


「でも、本気だからって何でも正解になるわけじゃねえよ」


 環の喉が、妙に乾く。


「気になるならちゃんと伝えろ。勝手に囲う方向行くな」


 司はそこで、少しだけ声を強くした。


「でも今は演奏に身が入ってねえ。帰れ」


 環が顔を上げる。


「いや、まだやれる」


「黙るのはお前だ」


 切り捨てるみたいに言われて、環はそこで完全に止まった。


 司は怒っている。

 でも、それだけじゃないのもわかる。今の環がこの場にいても、もうまともな音にならないと見切っている顔だった。


 毅が肩をすくめる。


「今日は帰って寝ろ。寝れる顔じゃねえけど」


 尚人も気まずそうに笑う。


「環、今ギターより顔のほうがひどいし」


「……うるせえ」


 それしか返せない。


 ギターをケースに戻す手つきだけは、妙に丁寧だった。雑に扱う気分にもなれない。蓋を閉じて、ストラップを押し込み、立ち上がる。


 スタジオを出る前、司が低く言った。


「逃げんなよ」


 環は振り返らなかった。


「……わかってる」


 本当にわかっているのかは、自分でも怪しい。


 階段を上がって地上へ出ると、夜の空気は思ったよりぬるかった。コンビニの光が遠くにあって、駅前のざわめきが薄く流れてくる。


 ケースを肩にかけたまま、環はしばらくその場に立っていた。


 彼女だと思ってるのは自分だけ。


 尚人の言葉が、変に残る。


 彼女、なんて、たぶんそんな単純なものじゃない。名前をつける前に近くなって、近いくせに同じものを見ていたわけでもない。そのズレを抱えたまま、環だけが勝手に内側へ入ったつもりになっていた。


 それが本気じゃなかったわけじゃない。

 本気だった。

 だから余計に痛い。


 環はケースを壁に立てかけて、煙草を一本出しかけた。

 指先で少し弄んでから、結局戻す。


 吸っても変わらない気がした。


 家に電話なんかできるわけがない。伝言を頼めるような相手でもない。駅前をうろつけば見つかるかもしれないし、全然見つからないかもしれない。


 何もできないのに、何もしないでもいられない。


 その半端さが、自分らしいといえばそうだった。


「……だせえ」


 小さく呟いて、環はケースを持ち直した。


 今日は帰れと言われた。

 たぶん正しい。


 でも部屋に戻っても、キャポさんの水槽の音の中で、また流奈のことばかり考えるのだろうとわかっていた。来ない夜の静けさと、言えなかった言葉と、「心配しただけでさ……」の、その“だけ”の重さを。


 それでも、帰るしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ