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フォルステリ  作者: 七奈 菜々
29/29

第29話 フォルステリ

最終回です

第29話 フォルステリ


 朝の光が、障子の端から細く入っていた。


 果穂はもう先に起きていて、布団の上で座ったまま、自分の靴下を片方だけ履いている。踵が半分ずれているのに、それでも本人はできたつもりの顔だった。


「ママ、できた」


 流奈は米を研ぐ手を止めずに答える。


「できてない」

「できてる」

「見ればわかる」

「みなくてもわかる」


 口だけは朝から一人前だと思う。


 流奈がそう思って振り返ると、果穂の後ろで環が胡坐をかいていた。昨日の夜遅くに戻ってきて、そのまま泊まることになった。泊まる、と言っても、まだそれを大きな出来事みたいに扱う時期は過ぎている。縁側で寝る日もあれば、中で寝る日もある。東京へ戻る日もあれば、二日続けて村にいる日もある。


 決まっていない。

 でも、前よりずっと自然だった。


 環は片方だけ履いた靴下を見て、果穂に手を出した。


「貸せ」

「できる」

「できてねえだろう」

「あとちょっと」

「そのちょっとで転ぶんだよ」


 果穂は少しだけむっとした顔をしたが、結局足を突き出した。環は靴下を引き上げて、踵の位置を直す。手つきはもうだいぶ慣れている。最初の頃みたいに、触れていいのかどうかをいちいち目で窺うぎこちなさはない。その代わり、乱暴にしないことだけは相変わらず身体に入っている。


「はい」

「……できた」

「最初からそう言ってる」

「たまきがやった」

「そうだよ」


 環が当然みたいに言うと、果穂はなぜか満足した顔で頷いた。


 流奈はそのやり取りを見て、口元だけ少し緩める。笑ったわけではない。けれど前なら、この手のやり取りを目にするたび、胸の奥にあった硬いものが今はだいぶ薄くなっている。


 台所の小さな窓から入る風は、もう春より少しだけ軽い。坂の下で商店の戸が開く音がした。海は見えない。けれど風の中にだけ海がある。


 暮らしは、大きく変わったわけじゃない。


 相変わらず古い家で、戸の建てつけは悪いし、旅館の手伝いは急に増えたり減ったりする。環は東京と村を行き来して、司に怒鳴られ、尚人に茶化され、毅に呆れられながら、それでも戻ってくる。果穂は熱を出し、走って転び、飴を欲しがって断られ、寝る前だけ妙に素直になる。


 何ひとつ完璧ではない。


 でも、呼吸の仕方だけは少し変わった。


「今日、何時」


 流奈が味噌を溶きながら訊く。


「昼前には出る」

「じゃあ果穂の迎えは無理だね」

「頼むならずらすけど」

「頼まない」

「はいはい」


 すぐそうやって返すくせに、前みたいな棘はもうない。頼むか頼まないか、どこまでを渡してどこからを自分で持つか、そこを流奈が選べることを、環もようやく覚えた。


 果穂が環の膝に顎を乗せる。


「きょう、とうきょう?」

「東京」

「おしごと?」

「そう」

「すぐかえる?」

「どうだろうな」

「すぐかえって」

「それは相談」


 果穂は不満そうな顔をして、それから流奈を見る。


「ママ、すぐかえってっていって」

「自分で言ってるでしょ」

「ママも」

「私は言わない」

「なんで」

「仕事だから」


 果穂は納得しない顔のまま味噌汁の匂いを嗅いだ。


「おなかすいた」

「それは知ってる」


 環が笑った。

 今度はちゃんと笑った。


         ◇


 その日の昼前、環は駅へ向かう前に旅館の裏口まで顔を出した。


 流奈に言わせれば「わざわざ」で、環に言わせれば「ついで」だった。どちらでもよかった。行き先を言っておかないと果穂が夕方になって拗ねるし、旅館の若い娘が「さっきいたのに」と余計なことを言う。


 裏口では女将が伝票を見ながら帳面をめくっていた。若い娘は洗い終わったコップを拭き、流奈は仕込みの野菜を刻んでいる。


「あ、今日東京の日?」


 若い娘がすぐに言った。


「見ればわかるだろ」

 環がギターケースを軽く持ち上げる。

「いや、それ以外の日でも持ってる時あるじゃないですか」

「あるか?」

「あります」


 女将が帳面から目を上げもせずに言う。


「夜は戻らないの?」

「たぶん」

「たぶん、ねえ」


 その言い方は、もう完全に身内へ向けるものではない。けれど、前のような遠慮のある余所行きでもない。村の中での環の位置は、未だに少し曖昧で、その曖昧さのまま落ち着き始めている。


 流奈は包丁を止めずに言う。


「インタビューもあるんでしょ」

「何で知ってんの」

「司さんから電話きた」

「何でお前に」

「『あの馬鹿に余計なこと言うなって言っといて』だって」

「おせえよ」


 若い娘が吹き出す。

 女将も少しだけ口元を緩めた。


「今日も余計なこと言う気なんだ」

 流奈が淡々と言う。

「言わねえよ」

「その顔で?」

「何だよその顔って」

「浮かれてる顔」

「浮かれてねえ」

「浮かれてるよ」

 若い娘が横から乗る。

「うるせえ」


 環はそう言い返したが、否定しきれていないのが自分でもわかる。流奈がこうして当たり前みたいに自分の予定を知っていること、司がわざわざ電話をよこすこと、その全部が今の生活の中に繋がっている。


 五年前なら想像もできなかった位置だった。


「帰り、明日の昼?」


 流奈がようやく手を止めて顔を上げる。


「そのくらい」

「果穂に言っとく」

「よろしく」

「自分で言えば」

「もう駅だし」

「だから?」

「……今言うと、絶対拗ねる」


 それには誰も反論しなかった。


 環は結局、旅館の裏口の柱にもたれたまま少しだけ無駄話をして、それから「じゃあ行く」と言った。若い娘が「はいはい」と手を振る。女将は「司くんによろしく」とだけ言った。


 流奈だけが最後に短く、「余計なこと言わないで」と言った。


 環は振り向きざまに肩をすくめる。


「努力する」

「しない顔だね」

「うるせえ」


 その会話の軽さが、今はもう、ちゃんと生活の延長になっていた。


         ◇


 インタビューの会場は、東京の小さな会議室だった。


 白い壁。長机。ペットボトルの水。録音機材。雑誌の記者はまだ若く、Paranoidの最新ミニアルバムについて熱心に質問してくる。司は最初のほうこそ普通に答えていたが、話が進むにつれて少しずつ素の調子が出てくる。尚人は一度ふざけて睨まれ、毅は横で「はいはい」と止めている。


 環は、司の右隣でマイクをいじりながら、最初はあまり喋らなかった。


 聞かれれば答える。

 聞かれなければ水を飲む。


 そのくらいのつもりだった。


 ところが、記者が「最近、曲の空気が少し変わりましたよね」と言ったあたりで、司が環のほうを見た。


「変わったな」


 嫌な予感がした。


 尚人も同じことを思ったらしく、横で小さく「やめろよ」と呟く。けれど司は無視した。


「こいつが少し落ち着いた」

「落ち着いてねえ」

「前よりはな」

「どこが」

「いちいち尖ってねえ」

「尖ってるわ」

「違うんですよ」


 なぜかそこで記者より先に尚人が入ってくる。


「最近こいつ、村と東京往復してるんで」

「てめえ黙れ」

「いやだってほんとじゃん」

「それ以上言うな」

「何、村?」

 記者の目が少しだけ光る。

「何でもないです」

 環が即座に切る。

「いや、何でもなくはないだろ」


 司が平然と言った。


「肺魚みてえな生活してるからな」

「は?」


 記者が首を傾げる。

 毅が天井を仰ぐ。

 尚人は吹き出しそうになる。


「何それ」

「空気も水もどっちもいるみたいな顔してるってこと」

 司が勝手に説明する。

「全然うまくねえよ」

 環が吐き捨てる。

「でもまあ、そういう感じで」

 司は記者へ向き直る。

「生活が曲に混ざるようになったんじゃないですかね」


 環はそこで、言うつもりのなかったことを一言だけ零した。


「……まあ、前より息しやすいのはある」


 会議室が一瞬だけ静かになる。


 司が横目で見る。

 尚人が「お」と小さく言う。

 記者はその言葉を逃さなかった。


「息しやすい、ですか」


「……別に、深い意味じゃなくて」


 言いながらもう遅い。

 記者は笑顔で頷き、メモを取る。司は面白がる気配を隠そうともしない。


「深い意味ないって言う時、だいたい深い意味あるんだよ」

 尚人が囁く。

「殺すぞ」

 環が低く返す。


 インタビューが終わったあと、案の定、司に肘で小突かれた。


「言ったな」

「てめえが変な振りするからだろ」

「でも本音だろ」

「うるせえ」

「ブログか何かに抜かれるぞ」

「やめろって」


 そう言いながらも、環は完全には否定できなかった。


 前より息しやすい。

 それは、たぶん本当だった。


         ◇


 その日の夜、流奈の家の電話が鳴った。


 旅館の若い娘が、「東京の司さんって人からです」と妙に楽しそうに取り次いだのが嫌な予感しかしなかった。


「もしもし」

『お疲れ』

 司の声だった。

「何」

『先に謝っとく』

「何したの」

『したのは俺じゃない』

「じゃあ誰」

『環』


 流奈は受話器を持ったまま黙る。


『インタビューでちょっと余計なこと言った』

「……何を」

『前より息しやすいって』

「馬鹿じゃないの」

『俺もそう思う』


 司の声は少しだけ笑っていた。完全に面白がっているのではなく、呆れ半分の笑いだった。


『たぶんそのうち、ブログかどっかにそれっぽく載る』

「最悪」

『まあでも、あいつにしてはいい変わり方だよ』

「知らない」

『知ってるくせに』


 そこで電話の向こうに環の怒鳴り声が混じった。


『おい、司!』

『はいはい、じゃあな』

「ちょっ――」


 一方的に切られる。


 流奈は受話器を置いて、しばらくそのまま立っていた。台所では味噌汁の火が小さく鳴っている。果穂は座布団の上で折り紙をぐしゃぐしゃに折っていた。


「だれ?」

「司さん」

「たまき?」

「いたんじゃない」

「なにしたの」

「余計なこと」

「いつも?」

「……まあ」


 果穂は納得したような、していないような顔で頷いた。


「たまき、ばか?」

「そうだね」

「でもすき?」

「何でそうなるの」


 流奈が思わず言うと、果穂は不思議そうに首を傾げた。


「だって、ばかでもいる」

「……」

「いないと、さみしい?」


 その問いに、流奈は少しだけ言葉を失う。


 果穂は深い意味で言っていない。ただ、最近の生活の手触りをそのまま口にしただけだ。


 いる。

 いないと少し違う。


 それだけの現実が、いちばん返しにくい。


「ごはん食べるよ」


 結局、流奈はそれで逃げた。


         ◇


 数日後、東京から戻ってきた環は、旅館の若い娘に会うなり笑われた。


「見ましたよ、ブログ」

「何を」

「息しやすいってやつ」

「見なくていい」

「見ちゃいました」

「消せ」

「ネットは消えないんですよ」


 その返しに、環は本気で嫌そうな顔をした。若い娘はますます面白がる。旅館の裏でそのやり取りを聞いた女将まで「若い子に玩具にされてるわよ」と笑った。


 村へ戻ってからも、妙に空気がおかしい。


 商店のおじさんは何も言わなかったが、果穂が「たまき、いきしやすい?」と真顔で訊いてきた時点で、誰かがどこかで話を回しているのは明らかだった。


「誰に聞いた」

 環が訊くと、

「ママ」

 果穂は即答した。


 流奈は台所で包丁を持ったまま、少しも悪びれずに言う。


「そのまま言っただけ」

「何で言うんだよ」

「面白かったから」

「性格悪」

「今さら?」


 その返しに、環は言い返せなかった。


 家の空気は前よりずっと軽い。

 でも、それは何もかもが丸く収まったからではない。まだ流奈は嫌なものを嫌だと言うし、環は浮かれるとすぐに顔に出るし、果穂はそのあいだを勝手に走っていく。


 その不揃いな感じが、今はちょうどよかった。


 夕飯のあと、果穂がぽつりと言った。


「このまえ、おねえさんがいってた」


 流奈が味噌汁の椀を持ったまま顔を上げる。


「何を」


「たまきとママがけっこんしたら、たまきはかほのパパだって」


 箸の先が、流奈の手の中でわずかに止まる。


 環も同じように動きを止めた。


「……誰がそんなこと言ったの」

「おやどのおねえさん」

「……あの子」


 流奈は小さく息を吐いた。言いそうだと思う。言いそうだから余計に困る。


 果穂は大人二人の間に落ちた沈黙の意味もわからないまま、言葉だけを続ける。


「そしたら、パパになるんでしょ」

「……」

「かほ、パパほしい」


 その一言は軽くなかった。


 甘えるみたいでも、駄々でもない。ただ、前から心の中にあったものがそのまま出た声だった。


 流奈はすぐには何も返せなかった。


 環のほうを見るのも少し遅れる。


 環は、さっきまでみたいな軽い顔をしていなかった。浮きかけていたものが、そこでちゃんと止まっている。嬉しがっていい言葉じゃないと、さすがにわかる顔だった。


「果穂」


 流奈が先に言う。


「そういうの、勝手に決める話じゃない」

「なんで」

「なんで、じゃないよ」

「でも、おねえさん」

「おねえさんが言っても」


 言い切る前に、言葉が少しだけ鈍る。


 果穂は唇を尖らせる。


「たまき、やじゃない?」


 今度は環に向いて訊いた。


 環は一瞬だけ目を伏せて、それから果穂を見る。


「……やじゃねえよ」


 低い声だった。

 軽くもしない。

 茶化しもしない。


「でも、それは果穂だけで決めることでもない」

「……」

「ママがいるし、俺もいるし」


 果穂はすぐには納得しなかった。

 でも、その言い方に大きくは逆らわなかった。


「じゃあ、きめて」


 それだけ言って、味噌汁の豆腐を箸でつつく。


 流奈はその横顔を見て、少しだけ目を閉じた。


 期待させたくない。

 でも切り捨てたくもない。


 果穂が欲しがっているのは、言葉だけの父親役ではなく、ちゃんとここにいて、帰ってきて、手を貸して、名前を呼べる誰かだ。そのことが、今は前よりずっと重い。


「ごはん食べるよ」


 結局、流奈はそう言うしかなかった。


 果穂は不満そうな顔をしながらも、それ以上は言わなかった。


 環もまた、何も足さなかった。


         ◇


 夜、果穂が眠ったあと、流奈は縁側へ出た。


 環はそこにいた。昼間ほど浮いた顔ではない。かといって、平静でもない。考えている顔だった。


「まだ引きずってるの」


 流奈が言うと、環は少しだけ肩をすくめた。


「引きずってねえよ」

「顔」

「何」

「昼からずっと同じ」

「うるせえ」


 風が少しだけ強く吹く。

 海は見えない。けれど風の中にだけ海がある。


 縁側の端には、小さな水槽が置いてあった。環が東京の部屋で使っていた予備の水槽だった。中にキャポさんはいない。あれは東京だ。長く移すのは怖いし、環境を変えるのもよくないと環が言って、村へは連れてきていない。


 それでも果穂は、その空っぽの水槽を見るたびに「ちいさいキャポさん」と呼んだ。見たこともないくせにそう呼ぶのが可笑しくて、流奈ももう直していない。


「フォルステリってさ」


 環が不意に言う。


 流奈は少しだけ顔を向ける。


「何」

「肺魚の名前」

「知ってる」

「変な生き物だよな」


 環は膝を立てたまま、夜のほうを見る。


「水の中にいるくせに、空気も吸うし。鈍そうなのに、ちゃんと生き延びるし」

「……」

「格好いいとは言いづらい」

「うん」

「でも、何か、ああいうのいいなって思う」


 流奈は少しだけ口元を緩める。


「何それ」

「いや、だから」

「急にポエム?」

「違うって」


 環は少しだけ眉を寄せた。


「派手じゃなくても、生きてる感じがするやつ」

「……」

「うまく言えねえけど」


 流奈は水槽の水面を見る。

 小さい水草が、風のせいでもないのにゆっくり揺れている。


 水の中だけじゃない。

 でも地上だけでもない。


 どっちつかずで、不器用で、それでもちゃんと息をしている。


 そういうものを幸福と呼ぶには、まだ少し照れくさい。

 でも、今の自分たちに名前をつけるなら、たぶんそういう感じなのだろうと思う。


 流奈は小さく息を吐いた。


「……フォルステリって、変な名前」


 環が顔を上げる。


「否定?」

「してない」

「じゃあ?」

「ちょっと馬鹿っぽい」

「ひど」


 そう言いながら、環は少しだけ笑った。


 流奈もそれを見て、今度はちゃんと笑った。大きくではない。けれど、ごまかすためでも、やり過ごすためでもない笑いだった。


 家の中では、果穂の寝息がしている。


 その音を少し聞いてから、環が静かに言った。


「果穂が年長になる頃」


 流奈の笑みが、そこで少しだけ止まる。


 環は前を見たまま続ける。


「小学校、上がる前に」

「……」

「東京で一緒に暮らさないか」


 流奈はすぐには返事をしなかった。


 軽口ではないとわかる。

 勢いでもない。

 昼の果穂の言葉に引っ張られただけでもない。


 ちゃんと考えて、ここへ持ってきた声だった。


「……急だね」


「今すぐじゃねえよ」

「そういう意味じゃなくて」

「うん」


 環は一度だけ言葉を切る。


「でも、考えた」

「……」

「こっちと東京、行ったり来たりしてて、ずっとそれは考えてた」

「……」

「果穂が上がる前なら、まだ区切れる気がする」

「何が」

「暮らし」


 その言い方が、流奈の胸のどこかへまっすぐ入る。


 恋人になるとか、

 結婚するとか、

 そういう綺麗な言葉より先に、暮らしと言った。


 今の環らしいと思う。

 不器用で、でも逃げていない。


「もちろん、嫌ならいい」

 環が低く言う。

「今すぐ決めろって話でもない」

「……」

「でも、考えてほしい」


 流奈は膝の上に置いた自分の手を見た。


 この村の暮らし。

 旅館の手伝い。

 商店。

 おばさま。

 海の見えない風。

 果穂が熱を出した夜のこと。

 環が迎えに行くようになった日のこと。

 全部が頭の中で重なる。


 環と一緒に暮らす。


 それは怖い。

 でも、ただ怖いだけでもなかった。


 信じている、とはまだ言えない。

 ただ、少しだけなら、信じてもいいのかもしれない。


「すぐには決めない」


 やっと出たのは、それだけだった。


 環は頷く。


「うん」

「果穂のこともあるし」

「うん」

「私の仕事もある」

「わかってる」

「……ほんとに?」

「全部はわかってねえと思う」

「……」

「でも、考えるのをやめる気はない」


 その答えに、流奈は少しだけ目を伏せた。


 何もかもをわかった顔をされるより、そのほうがましだった。


 風が家の端を撫でる。

 海は見えないのに、夜の匂いの奥にだけ海がある。


 環は少しだけ息を吐いてから、小さく言った。


「……好きだよ」


 流奈は少しだけ肩を竦めた。


「知ってる」


 それで十分だった。


 大きな約束ではない。

 今すぐの答えでもない。


 でも、前みたいな拒絶だけでは終わらなかった。

 そのこと自体が、今はもう小さくない。


 家の中で、果穂が小さく寝返りを打つ。


 流奈はその気配に耳を向けて、それから縁側の戸へ手をかけた。


「冷えるよ」

「おう」


 閉める前に、環が流奈を見る。


 流奈は一度だけ目を合わせて、今度は逸らさなかった。


 夜の風が、ふたりのあいだを細く抜ける。


 どこか不器用で、鈍くて、それでもちゃんと息をしている。


 そんなふうに、暮らしはまだ続いていくのだと思った。


         ◇


 翌朝、商店のラジオが少しだけ大きかった。


 戸を開けて、流奈が洗濯桶を外へ出した時、坂の下から明るい声が風に乗ってくる。


『次に紹介したいのは、Paranoidの最新曲! こちらの楽曲は、許山環さんが普段はあまり書かないラブソングを書いたということで、業界内ではちょっと話題を集めています。いいですよねえ、ラブソング。私、恋バナ大好きなので、ラブソングも大好物です。――「フォルステリ」、Paranoid』


 流奈はそこで、ほんの少しだけ手を止めた。


 家の中では、果穂がまだ眠たそうな声で「ママー」と呼んでいる。

 縁側の向こうでは、環がたぶん聞こえないふりをしている。


 海は見えない。


 けれど風の中にだけ海がある。


 そのどれもが、まだ名前のつかないまま、ちゃんとここにあるのだと思った。




お読みいただき、ありがとうございました。


ここで物語は一区切りですが、環たちの日々はまだ続いています。

その先の暮らしを描く続編『living』は現在調整中です。


7月30日追記

つい勢い余ってsunoで曲まで作ってしまいました。

4話で流奈が歌っていた曲。

29話でラジオから流れた曲。

その他Paranoidがライブでやってそうな曲など 、

良ければ聴いてください。

https://suno.com/playlist/8a9c8c8b-824d-45bc-8b71-cc761b358936


またお会いできたら嬉しいです。

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