夏のイベント(1)
第7章 夏のイベント
目の前に青白い発光体が点滅しています。
ここは、大谷川の支流の一つ。
日はとっぷり暮れて月の明かりだけが、田んぼに反射して辺りをほのかに照らしています。
日中、あんなに暑かったのが嘘のようです。吹く風が心地よく、クーラーなしでも気持ちが良い夕べです。草の香りが濃く、自然の中にいること体感します。
公子さんは、目を輝かせて目の前の発光体を見つめています。息をするのも忘れているんじゃないだろうか、と心配になるほどです。
隣に武史さんがいることは忘れていなかったのでしょう。公子さんが小声でささやきました。
側にいる次世代の会の面々に聞こえないように配慮するだけの理性は残っていたようです。
「蛍なんか見るの何十年ぶりやろ。子供が小さい頃、デパートの催事でガラスケースに入ってたの見に行ったけど、野生の蛍なんか子供のとき以来や」
今日は、次世代の会と一緒に蛍狩りに来ているのです。
田んぼの間を流れて用水路の役割を果たす大谷川の支流に蛍が生息する場所があるとの情報をゲットしたのが一昨日。公子さんは、二日で『蛍鑑賞の夕べ』を開催してしまったのです。
元の世界で企画していたプロジェクトに公子さんを使えば、サクサク進むんじゃないだろうか。
武史さんが本気で思ったのは、言うまでもありません。
公子さんは、次世代の会と一緒になって、次から次へと武史さんを引きずり回してくれます。
武史さんの恋愛の経験値を上げるために必要だとの判断からのようですが、正直、引きずり回される身としては、有難迷惑です。
でも、今日の『蛍鑑賞の夕べ』のような催しは、平成でエリートをしていた武史さんの日常にはあり得ないシチュエーションで、新鮮な感動を覚えました。
不夜城のように明るい夜に慣れた武史さんは、ほのかに光る蛍と月や星だけの夜の暗さに鳥肌が立つほど感動したのです。
闇は、人を敬虔な気持ちにしてくれます。人知の及ばない力に畏怖する感情を思い出させてくれるのです。
武史さんは、忙しさにかまけてこういう感情を忘れていたことに気が付きました。
目を輝かせて蛍に興じる公子さんもまた、感じるものがあったようです。
平成から来た二人は、昭和の生活に感動したのです。周りに言えない秘密が、また一つ増えました。
この人が、既婚者じゃなければ良かったのに。
武史さんが思った瞬間でした。
一方、公子さんはと言えば、武史さんの顔が近すぎるのが気になって仕方がありません。
顔近!ちょっと、あんまり顔寄せんといて。無駄に顔が良いんやから……。ウチ、一応、亭主持ちやさかい。
もう!なんで、この顔で、相手いいひんの?信じられへん!
八月の始めには、海水浴にも行きました。駅から汽車に乗って近隣で有名な海水浴場へ出かけたのです
武史さんは、今度の誕生日で四十になります。
四十の男って、物事に動じないどっしりした頼りがいのある渋い男を想像します。でも、実際の武史さんはと言えば、相も変わらず、公子さんに振り回される情けない男です。
そのギャップが面白くなくて、一応、外見が二十歳(こっちの世界へ来て十八歳として生活しだしてから二度誕生日を迎えています)なのを良いことに、やけくそになって海を堪能することにしました。
まあ、ぶっちゃけ言えば、公子さんと付き合うには、このくらいの開き直りが必要だということに漸く気付いたわけです。
問題の公子さんはと言えば、高校生を相手に「スイカ割りせんといてって!スイカ割りって、スイカがぐじゃぐじゃになって味が落ちるやん。包丁で、ちゃんと切ってって!嫌や!やめてえな」と、子供のようにジタバタしています。
本当に、この人は、武史さんより十歳も年上のおばさんなのでしょうか。時々、分からなくなります。
白砂青松。さすがに有名な海水浴場だけあって、遠浅の美しい海です。親子連れや恋人同士、グループの面々が、楽しそうに遊んでいます。
着ている水着こそ、昭和四十七年の流行りで野暮ったい感じがしますが、みな生き生きと楽しげに海を楽しんでいます。
太陽の日差しは容赦なく照り付けます。暑さに染まった空が、いっそ攻撃的とも言える青で、武史さんは、空がこんな表情をすることを思い出しました。
どうして忘れていたのでしょう。子供の頃は、こんなふうに家族や友だちと蛍狩りや海水浴をして自然を楽しんだものです。自然を楽しんで、生きることを楽しんだものです。人生はこんなにも楽しかったのです。どこで、間違ってしまったのでしょう。
自分がここへ来たのは、こういう大事なことを忘れていたせいかもしれない。こういうことに気付くため、ここに来たのかもしれない。
武史さんは、そう思いました。
そんな武史さんの気持ちが分かるのでしょうか。公子さんの行動は、ますますエスカレートしました。
おばさん、ちょっとやりすぎです。
そう言いたくても、言い出す勇気がありません。
十八歳の女の子の後ろに、五十前後の堂々たるおばさんの姿がちらついて、間違っても逆らうことはできないからです。
ましてや、恋愛感情を抱くことなんか、あり得ない相談です。
いえ、キッパリそう言えたら良いのですが、そう簡単に言えないのが辛いところです。どうかすると外見に騙されて、ときめいてしまうことさえあるからです。
結局、武史さんは良いように振り回されることになってしまうのです。
しかも、武史さんたちは遊んでいただけじゃありません。もっと重要な仕事があったのです。
二人にとって最も重要な任務は、例のブラックなネコの兄弟を探すことです。仕事が終わると商店街だけじゃなく近隣を散歩しながら捜索活動を展開しました。勤務時間の関係でそれぞれ単独で探すこともあれば、二人で一緒に探すこともあります。
ところが、公子さんときたら、見てくれは十八でも、やっぱりおばさんなのです。ミッションの遂行中だというのに、のべつ幕なしおしゃべりするのです。ひたすらしゃべるので、「今やってる本来の任務を思い出してください!」と、文句を言ったことさえあります。
そんな苦労を知らない次世代の会のメンバーは、いかにも高校生らしい誤解をしてくれまして、それも、武史さんの神経を逆なでしました。二人が行動を共にすることが多いせいでしょうが、恋人同士じゃないかと勘繰られたのです。
僕は、おばさんに恋をするほど趣味が悪くない!
武史さんは、そう叫びたい衝動に駆られました。
ただ、おかげで、武史さんの女の子に対するコンプレックスというか無駄な緊張感が薄くなっていったのは、事実です。まあ、何か一つぐらい良いこともないと、やってられません。
大阪のおばちゃんが本気になると、エリートも形無しなのです。
武史さんは、それだけは素直に納得しました。
ただ、武史さんが慌てたのは、肉屋のトオルくんが公子さんに恋をして、本気でアタックしたことです。
トオルくんは、律儀な男でしたので、公子さんに告白する前に、武史さんに「お前、キミちゃんと付き合ってるのか?」と確認したのです。ですから、余計に本気だということが分かりました。
もちろん、言下に否定しました。すると、トオルくんは嬉しそうに、言ったのです。
「そうか。やっぱり、そうじゃないかと思ったんだ。お前ら仲良いけど、男女の仲ってわけじゃなさそうだって」
一瞬、どういう意味か分からなかったのですが、次のセリフに肝を冷やしました。
「俺、キミちゃんが好きなんだ。お前と何でもないなら、告白しようと思ってる」
先日、誕生日が着て実年齢四十九(本当は六十一ですが、武史さんはそう思ってます)になった公子さんに十七歳のトオルくんが恋しているのです。ここまで年の差が開けば、もう喜劇です。しかも、公子さんの出方によっては、トオルくんが無駄に傷つくことになります。
どうすれば良いのでしょう。胃が痛くなるような展開でした。
でも、武史さんの心配は杞憂に終わりました。
実際、大阪のおばちゃんの実力は想像以上だったのです。
トオルくんに告白された公子さんは、
「ごめんやで。ウチ、大阪に好きな人がおってな、二十歳になったら結婚する約束しとるんや」
と、あっけらかんと言い放ったのです。
よっぽど自分に自信があれば別ですが、普通、そこまで言われて言い寄る度胸の男はいません。トオルくんの恋は、あっけなく散りました。
破天荒な公子さんに武史さんは、付いていけません。




