武史さんと公子さん(1)
第6章 武史さんと公子さん
さて、お話は、武史さんがこちらへ来た頃に遡ります。
大野屋旅館のカレンダーが昭和四十六年五月となっていた、あの頃のことです。
高島アパートに腰を落ちつけた武史さんは、アパートの家賃や敷金、礼金を払うため、仕事をしなければなりません。
財布には三万円ほど入っているのに、ここでは、福沢諭吉や樋口一葉、野口英世のお札は使えないのです。百円玉や十円玉だって似たようなものです。昭和四十六年以降に鋳造されたものは使えません。
武史さん自身、百円玉や十円玉の鋳造年を確認して使っているわけではありませんが、万一、物好きな人が確認したとき、昭和六十年とか、平成十年とか混じっていたら大問題になるでしょう。それは、絶対に避けなければならないのです。
それだけじゃありません。武史さんは、都市銀行に普通預金で百万ほど、定期預金で五百万ほど貯金がありますが、そもそも、この町の銀行は地方銀行の雪国銀行だけで、あとは信用金庫か郵貯銀行ぐらいしかないのです。
手数料を払えば、ATMで他行の預金を下ろすことができます。ただ、ここが過去だったとして、武史さんの預金が存在するのは平成××年(20××年)のことで、武史さんが今いる昭和四十六年(1971年)には存在しないものなのです。異世界やパラレルワールドなら、なおさらどうなってるのか見当もつきません。
いずれにしろ、財布にあるお金は紙切れと化し、銀行にあるはずの預金も数字の羅列にすぎなくなってしまった今、この世界で現金を手に入れる必要が生じるわけです。
急いでネコを探して元の世界へ帰るつもりです。だから、正社員じゃなくても良いのです。むしろ、正社員として就職して、突然元の世界へ帰ることになったら、月へ帰るかぐや姫のようなものです。周りの人に無茶苦茶迷惑をかけることになるでしょう。
立つ鳥跡を濁さず。
真面目な武史さんは、そういう事態は避けたいと思いました。
ただ、すぐに帰るにしても、高島アパートの大家さんに敷金や礼金それに滞在した時間の分の家賃を払うためには、仕事をしなければなりません。だから、狙うなら、正社員よりアルバイトです。
そんなこんなで町中で職を探し、最初に立ち寄った宮森書店の店員になったのです。
どうして、本屋にしたかというと、仮に自分と同じような人間がいたとして、最初に情報収集に立ち寄るのが本屋だと考えたからです。
ネコを探して、元の世界へ帰る。
そのためには、一人より二人、二人より三人の方が絶対に良いはずです。第一、ネコを見つける確率が高くなります。
もしかして、今現在この世界へ紛れ込んでいるのは武史さん一人かもしれません。でも、もしかして、別の誰かも紛れ込んでいるかもしれません。
大野屋旅館の主人が似たような人間がいると言っていましたし、今現在、この世界にいるのが自分一人だという証明ができない以上、他の誰かがいるかもしれないという可能性を否定する気にはなれませんでした。
自分と同じようなバカな人間がいたら、きっと助け合えるし、何となくではありましたが、友だちになれるような気がしたからです。
ただ、探す対象として、いるかもしれない自分と同じような存在と額に白い星の模様がある真っ黒なネコのどちらを優先するかと言えば、当然、ネコの方です。
友だちになれるかもしれない存在を探し出す前にネコを見つけたら、さっさと元の世界へ戻るだけです。友だちを探すのは、あくまでもネコを探すついでなのです。
今まで生きて来た世界とは、まったく違う世界へ来てしまった心細さもあって、こういう局面で出会った人とは良い友だちになれそうな気がしました。せっかく、こんなところへ来たんだから友だちの一人ぐらいゲットしたいと思ったのは、正直な気持ちでした。
元の世界へ恋人を連れて帰ることができそうにないのですから、せめて友だちぐらい作りたいと思ったわけです。
後に、公子さんに、そういう酔狂なところがあるからブラックなネコに付け込まれるんや、と笑われることになります。
さて、武史さんは、本屋でアルバイトをしながらネコや友人を探すことになりました。
やってみて、本屋というのは、ネコや人を探すのに都合の良い商売だということに気が付きました。
というのは、週刊誌や月刊誌を定期購読している客にそれらの雑誌を配達するのが、武史さんの仕事になったからです。配達する道すがら、ネコを探すだけじゃなく、いかにも異世界(こっちの世界から見れば、武史さんが元いた世界の方が異世界になります)から来たという感じの不審者に会うこともあるのです。そんなときはしっかり尾行しました。
それに、武史さんと同じように異世界からこっちへ来た人は、情報を得るために本屋を訪れることが予想できます。だから、レジの前で店番をしながら待っていれば、同じような境遇の人が釣れるというわけです。
最初の頃は、仕事はほどほどにして、それこそ必死でネコを探しました。こちらにいる期間が長くなればなるほど、会社を無断で休む期間が長くなるからです。無断欠勤が続くと、プロジェクトから外されるだけじゃありません。会社をクビになる可能性だってあるのです。
武史さんは、今の仕事も今の会社も気に入っていましたので、会社を辞めたくありませんでした。でも、ネコが見つからないと、元の世界へ戻ることができないのです。
何の罰ゲームでしょう。黒ネコ捜索大作戦は、時間との闘いのようなミッションでした。
毎日、仕事の後、暗くなるまで路地を覗き、塀を覗き、郊外の田んぼや畑まで探しに行きました。
こっちへ来たのが五月です。だんだん日が長くなる時期でラッキーでした。店の仕事が終わっても十分明るくて、ネコを探す時間が十分あったからです。
でも、いくら探しても、額に星の模様のある黒いネコに会えません。
六月になって、雨の中を探し回りましたが、やっぱりネコは見つかりません。
こっちの世界に一月も滞在してしまったという事実は、武史さんを打ちのめしました。
失踪宣告って、確か七年いなくなると裁判所に申し立ててて死んだことにしてもらう制度だったけど……会社って、どのぐらい待ってくれるんだろう?下手をすると、もう、クビになってるかも……。
そんなことを考え出すと、居ても立ってもいられなくなりました。でも、落ち込んでいるわけにはいきません。少しでも早く帰るためには、前向きに捜索を継続しなければならないのです。
武史。冷静に。冷静に。やれることを確実にこなして行くんだ。そうすれば、きっと、帰れる。
第一、あっちの時間とこっちの時間が違うかもしれないじゃないか。もしかして、こっちの一日があっちの一時間、あるいは1分ってことだってあり得るんだ。
そう簡単にクビにはならないって信じるんだ。希望を持つんだ。
そう自分に言い聞かせて、捜索を続けました。気の弱い人なら、鬱になっていたことでしょう。
七月、八月は暑すぎたので、日が落ちて涼しくなってから探しました。この世界にもネコはたくさんいます。でも、あの額に星の模様がある黒いネコ(武史さんは「ブラックなネコ」と呼ぶことにしました)ではありませんでした。
ひょっとして、そんなネコはいないのかもしれません。
ひょっとして、こっちにいるのはあのネコの兄弟なんかじゃなく、あのネコ自身なのかもしれません。
武史さんは、ブラックなネコがあっちの世界とこっちの世界を行ったり来たりしているじゃないかと疑うようになりました。
だとしたら、今現在、あっちにいて、こっちにいないのかもしれません。でも、そうだとすれば、一体、いつになったらこっちに戻って来るのでしょう。そう考えると、五月からこの方、三か月も必死に探し回った反動もあって、一切合切投げ出したくなりました。やけくそになったのです。
最初の頃は、元の世界で進めていたプロジェクトの参考にしようと、勉強したり資料を集めたりしていたのですが、それもしなくなりました。
プロジェクトの推進という華々しい仕事ができなくなって、代わりに、雑誌やコミックの販売というチンケな仕事をしているのです。
欲求不満も甚だしいことでした。
これまでいくつかのプロジェクトを手掛けてきました。どれも、数千万の費用がかかるもので、下手すると億の金が必要でした。でも、ここでの仕事は数百円程度です。数千円から数万円する書籍もないことはないのですが、ほとんど売れません。
武史さんは、お金の感覚がおかしくなりそうで、頭が痛くなりました。
でも、武史さんの時給だって数百円というところで、一日八時間、週に六日働いても、大した額にならないのです。武史さんは、自分が落ちるところまで落ちてしまったように感じて暗くなりました。
元の世界に帰るという希望があるから我慢できましたが、それがなかったら切れてしまったかもしれません。
だんだん武史さんが、追いつめられていきます。




