吉野玲奈ちゃんの場合(3)
目を上げると、そこは食堂の前でした。ショーウインドーに合成樹脂でできたサンプルが並んでいます。
いかにも野暮ったい食堂ですが、そんなことはどうでも良いように思えました。要は、お腹が膨れれば良いのです。
今なら、何を食べても美味しいはずです。そのぐらいお腹が空いていました。
でも、お金がないのです。
持ってるお金じゃ、一番安いうどんさえ食べることができません。
日が落ちてから気温が下がり、肌寒く感じました。玲奈ちゃんは、体育座りをして体を丸めました。両腕で反対側の腕を抱いて、少しでも温まろうと縮こまりました。
情けなくて、頬を涙が伝いました。
お腹が空いたのと、寒いのと、心細いのとで、情けなくて、ネコの誘いに乗った自分がどんなにバカだったのか、お父さんやお母さんが、どんなに玲奈ちゃんのことを気にかけてくれていたか、今更分かっても手遅れです。
助けて欲しいけど、助けてくれる人がいない。
こんな状況は、生まれて初めてです。
今夜は道で寝て、明日また、ネコ探そ。
寝ちゃったら、お腹空いたのも忘れられるもん。
でも、寒いのと、お腹が空いているのとで、なかなか眠れません。
そのうち、営業時間が終わったのでしょう。食堂の人が暖簾を取り込み出て来て、玲奈ちゃんに気が付きました。
どうやら、出前に出ていたあの人です。若い女の人で、今の玲奈ちゃんと同じ年頃――十七、八歳ぐらい――です。
玲奈ちゃんは、体をすくませました。女の人と目が合ってしまったのです。お店の前で年頃の女の子が体を丸めて寝てるなんて、迷惑な話です。きっと、怒られるでしょう。
「ごめんなさい。どきます」
玲奈ちゃんは、疲れた体を引きずって、どこかへ行こうとしました。
でも、どこへ行けば良いのでしょう。行く当てなんかないのです。
思わず、泣き出してしまいました。
すると、女の人が意外なことを言ったのです。
「まいったわ。泣かんといて。ウチが泣かしたみたいやんか」
関西弁でした。
ここは、関西なのでしょうか。いえ、玲奈ちゃんが商店街を行き来した間、聞こえたのは、どちらかと言うと関東系のイントネーションの方言でした。この人だけが、関西弁なのです。
「あんた、行くとこ、あるん?」
今、何て言ったの?
「もしかして、あんた、行くとこ、ないん違う?」
どうして、分かるの?
「お腹空いてるん違う?」
玲奈ちゃんは、コクコク首を縦に振ります。
「何か食べなならんわ。入り。おごったげる」
手に暖簾を持ったまま、店に入るよう促します。
玲奈ちゃんは、黙って言われるままに食堂に入りました。
おしゃれなレストランとは程遠い野暮ったい食堂です。
「すぐにできるのは、これや。あったまるし」
女の人が持って来たのは、きつねうどんでした。いつもの玲奈ちゃんなら、こんなもの、と思ったことでしょう。「うどんよりパスタの方が良い」と、わがまま言ったこともあります。
でも、今は何でも良いのです。お腹が空きすぎて、死にそうだったからです。
お礼もそこそこに、夢中で食べる玲奈ちゃんに、女の人がお茶を入れてくれました。
「キミちゃん、どうしたんだい?その子」
奥から、主人らしいおじさんが出てきて尋ねました。ひょろりと細いのに筋肉質のおじさんが、怪訝そうな顔をしています。
この人、キミちゃんっていうの?
それより、このおじさん、この人より偉いの?私、追い出されるんだろか?
「すみません。さっき暖簾片付けに出たら、友だちが会いに来てたんです。今晩、ウチの部屋に泊めてあげて良いですか?」
友だち?今、この人、私のこと、友だちって言った。 どうして?
「そうか。友だちか。わざわざ会いに来てくれたのか?」
「そうなんです。旦那さんとこにお世話になっとるって手紙書いたら、わざわざ来てくれたんです」
「ワシたちには気兼ねせんで良いよ。ゆっくりしてってもらったら良いから」
そういうと、主人は奥へ引っ込んで行きました。きっと、プライベートスペースは奥にあるのでしょう。
「ということで、今日はウチの部屋に泊まったら良いし」
玲奈ちゃんは、この展開について行けません。でも、野宿しなくて良いと言われて、安堵のあまり体中の力が抜けました。
「ありがとうございます」
九十度の礼をする玲奈ちゃんに、女の人が笑い掛けました。
「落ち着いたみたいやね。ウチ、佐藤公子いうねん。あんたは?」
「吉野玲奈」
「じゃあ、玲奈ちゃん、ここ片付けたら、ウチ、お風呂行くんやけど、あんたも行かへん?」
「行きます!」
叫んでから気が付きました。
「でも、お金が……」
「大丈夫。出世払いにしといたげる」
「出世払いって?」
「出世払い、知らへん?」
玲奈ちゃんは、コクンと頷きました。
「支払いは、偉くなってお金に余裕ができてからで良いってことや」
今現在、ほとんどお金の持ち合わせのない玲奈ちゃんには、願ったりかなったりの申し出です。ありがたくて、涙が出そうになりました。
「まあまあ、頼むから泣かんといて。
そうと決まれば、さっさと片付けよ。あんたも手伝ってくれへん?」
調理場とお店を手早く片付けて掃除をすると、電気を消します。これで、公子さんの今日の仕事はお終いです。
一度、奥の部屋へ洗面器なんかを取りに行った公子さんは、二人分の下着とジャージを持ってきました。
「どうせ、下着もパジャマも持ってへんのやろ?ウチのじゃちょっと窮屈かもしれんけど、ないよりマシや」
玲奈ちゃんは、銭湯なんか滅多に行ったことがありません。でも、お風呂に入りたかったので、黙って公子さんの後を付いて行きました。
『ゆ』と書いた暖簾の下がった銭湯は、結構賑わっていました。公子さんは、会う人会う人に、玲奈ちゃんのことを大阪にいた頃の友人で、わざわざ遊びに来てくれたんやと、紹介しました。
「ねえちゃん、大坂に住んでるんか?」
「いえ、親の仕事の都合で一年だけ大阪にいたんですが、今は、金沢にいるんです」
「なるほど、それで関西弁じゃないんだね」
「キミちゃん、良い子だろう?」
「はい。だから、来たんです」
すらすらと嘘が出てきます。気がとがめましたが、仕方ありません。口裏合わせるんや、と指示したのは、公子さんなのですから。悪いのは玲奈ちゃんじゃなく公子さんなのです。玲奈ちゃんは、無理やりそう思うことにしました。
そんなこんなで、お風呂を上って借りた下着とジャージを着ると、ほっとしました。これで嘘をつかなくても済むからです。
「やっぱり、あんたには、小さかったみたいや」
確かに、借り物のジャージはワンサイズ小さいようです。しかも、ブラジャーも窮屈です。
お風呂屋さんからの帰り道。歩きながら、公子さんが唐突に尋ねました。
「あんた、良い体しとるな。胸もおっきいし、ウエストもしまっとる。バスト、どのぐらいあるん?」
あまりにストレートな質問に玲奈ちゃんは、顔を真っ赤にして答えます。
「分かんない。玲奈、計ったことないから」
「計ったことないって、あんた、じゃあ、ブラとか買うとき、どうやって買うたん?」
「買ったことない……」
「買ったことないって、あんた、ブラってなしですませられるようなもんじゃないやろ……」
一気にまくしたてようとして、気が付きました。
公子さんだって、実年齢六十一歳のところ、十九歳(こちらに来たときは十八歳ということになってましたが、誕生日が着て一つ年をとったのです)になってます。この子の実年齢がブラジャーも必要としないほど幼いとすれば、あり得る話です。
そこで、公子さんは話題を変えました。
「あんたの服と下着、明日、マスヤさんに買いに行った方が良いやろね」
「でも、お金が……」
何から何までお世話になっているのです。この上、下着や着るものまでお世話になるのは、申し訳なくてたまりません。
「だから、出世払いや」
男前な公子さんは、玲奈ちゃんの背中をドンとたたくと、平然と言い放ちました。
「ここでは、助け合わなならん。じゃないと、星の模様の黒ネコなんか見つからん」
玲奈ちゃんの目が点になりました。
あのネコと同じ姿のネコ。真っ黒で額に白い星の形の模様がある特別の役目を持ったネコとそっくりのネコ。公子さんもそのネコを探しているようです。
驚いて目を丸くする玲奈ちゃんに公子が続けます。
「やっぱりそうやった?あんたもあの胡散臭いネコにこっちへ連れてこられた口やろ?」
「公子さんも?」
そう言いかけて、慌てました。
「公子さんって、呼んで良いですか?」
「良いよ。っていうか、ウチのこと、公子さんて呼ぶんは、あんた入れて三人になったんやけど、何だか嬉しいわ」
公子さんは、元の世界で佐藤のおばちゃんとか佐藤のおばさんと呼ばれるのが、あんまり好きじゃなかったのです。
「じゃあ、公子さんもあの黒いネコにこっちへ連れてこられたんですか?」
「そうや。そやから、あのネコのそっくりさん探しとるんや。
でもって、今度、紹介するわ。ネコ探してるん、ウチらだけやないんや」
ネコを探している人が、他にもいる。
玲奈ちゃんは、絶句しました。
事態は、玲奈ちゃんが思っているより複雑だったのです。玲奈ちゃんは、来たばかりですが、公子さんは結構長そうですし、他の人たちは、どのくらいこの世界にいるのでしょう。
元の世界に戻る。
あのネコは、こっちで、あのネコとそっくりなネコを探せば元の世界のあの時間に戻れる、と言っていました。
でも、こっちの世界でどのくらい滞在すれば帰れるのかなんて、一言も言わなかったのです。
うかうかと誘いに乗った玲奈ちゃんがバカだったのです。
そして、公子さんの言によれば、公子さんも玲奈ちゃんと同じくらいバカですし、他にも同じようなバカが二人いるというのです。そして、そんな人たちがみんなで協力してあのネコと同じ姿のネコを探しているというのです。
玲奈ちゃんは、今日一日、必死でネコを探しました。でも、もともと一人じゃとてもできないことだったのです。
その日、玲奈ちゃんは、公子さんの布団に入れてもらって寝ました。野宿を覚悟していたのです。二人で寝るのが窮屈だなんて文句は言えません。
家ではベッドに寝ている玲奈ちゃんは、布団で寝るのに慣れていません。しかも、枕が変わったせいでしょうか、疲れているのに、なかなか寝つけません。
傍らでは、公子さんが熟睡しています。
公子さんの暖かさが心地よく、疲れがとれていくのが分かりました。
長い一日でした。
いろいろありましたが、今は、公子さんに守ってもらっています。お父さんやお母さんはいませんが、この人のおかげで助かったのです。
波瀾万丈でしたが、この人に会えて良かった。この人に会えたことだけが救いでした。
さすがに、七歳児に野宿させるのは、かわいそうだったので、この程度で止めました。




