吉野玲奈ちゃんの場合(1)
第5章 吉野玲奈ちゃんの場合
吉野玲奈ちゃんは、七歳――小学校二年生です。
玲奈ちゃんは、この頃、お母さんの小言がうるさくて仕方がありません。
朝は、「早く起きなさい」に始まって、「早くご飯を食べなさい」、「早く学校へ行く支度しなさい」、「早く学校に行きなさい」と、早く早くのオンパレードです。
学校から帰って来たら、今度は、「遊びに行くのは、宿題をすませてからにしなさい」、「スナック菓子の食べ過ぎはいけません」、「暗くなる前に帰ってくるんですよ」、「テレビばっかり見ていないで、さっさと夕ご飯を食べてしまいなさい」、「早くお風呂に行きなさい」、「もう遅いから、早く寝なさい」等々否定形と命令形のオンパレードです。
お母さんだって、子供時代があったでしょうに、子供の心を忘れてしまったのです。お母さんだって、子供のときは、きっと、朝起きるのが遅かったり、学校へ行くのにモタモタしたことだってあるはずです。スナック菓子の食べ過ぎだってしたでしょうし、テレビばっかり見ててお母さんのお母さん――つまり、おばあちゃんに叱られたりしたはずです。
子供だからって、あれをするな、これをしろって、否定形や命令形ばかりで、玲奈ちゃんは、早く大人になりたくてたまりません。
大人になったら、誰にも指図や命令されずに、好きなことができるのです。
今日も、お母さんに叱られて、やけになって家を飛び出して来ました。
きっかけは、些細なことです。
玲奈ちゃんが、宿題をしないで遊びに行こうとして、お母さんと口論になったのです。
「早く行かないと、みんなお稽古にいくから、遊ぶ時間がなくなっちゃうの!」
マリアちゃんはピアノを、聖子ちゃんはバレエを、晴陽ちゃんはそろばんを、希ちゃんはお習字を、綾香ちゃんは英会話を習っています。玲奈ちゃんだって週二回スイミングに通ってます。
みんなの時間が揃うのは、学校が終わってからお稽古が始まるまでの一時間ほどしかありません。
お母さんの言うように、先に宿題をしていたら、友だちと遊ぶ時間がなくなってしまうのです。
「だったら、玲奈もお稽古を増やせば良いじゃない。それなりに楽しいし、行き帰りで遊べるわよ」
「嫌だよ。お稽古って最初の頃は面白いけど、だんだん大変になるんだもん。それに、どっちにしたって、みんなが揃うことはないんだよ」
「みんなが揃わなくちゃならないわけでもないでしょ」
「揃うから、いろんなことができるんじゃない」
「どうせゲームするだけでしょ。一人二人欠けても良いじゃない」
「ゲームばっかじゃないの!ドッジボールだってするし、お人形さんごっことか、缶けりとか、かくれんぼや鬼ごっこするときもあるの!」
「だったら、曜日を決めて、時間を合わせれば良いじゃない。どっちにしても、先に宿題すませないと、宿題忘れるでしょ。この前だって、宿題忘れて先生に叱られたじゃない」
お母さんは、いつも古い話を蒸し返します。あのときのことは謝ったのです。もう終わったはずです。それなのに、ことあるごとに蒸し返すのです。
「もう、うるさい。うるさい。うるさい。ほっといてよ。玲奈は、自分で好きにするんだから」
「自分で好きにして、また、宿題を忘れようって?」
ああ言えば、こう言う。
お母さんの分からず屋には、ほとほと嫌になります。
癇癪を起こして、家を飛び出して無茶苦茶に走って、細い路地に入り込みました。
知らない場所です。
古い文化住宅が並んでいる路地です。両側の文化住宅のほとんどに住んでいる人がいないようで、人の気配がしません。一階の端の部屋だけ人が住んでいるようで、夕刊が突っ込んであります。他の部屋は、ポスティングのビラや、古い郵便物が溜っていて、一体いつから無人なのか見当もつきません。
人がいない家というのは、怖いものです。
玲奈ちゃんは、少し怖くなりました。
家に帰れば、口うるさいお母さんがいます。でも、いくらうるさくても、誰もいないよりマシです。
玲奈ちゃんは、たくさんの空き家を見て、空き家は始めから空き家だったわけじゃないことに気付きました。
今は空き家でも、昔は住む人がいて、笑ったり、喧嘩したり、泣いたり、いろんなことがあったはずです。もしかして、玲奈ちゃんのお母さんのような口うるさいお母さんがいて、玲奈ちゃんのような小学生にガミガミ言ってたのかもしれません。
いろんなことがあったことでしょう。
でも、今は、だれも住んでいない空き家です。ガランとして、扉を閉ざしているのです。
人がそこにいるというのは、誰もいないより、ずっと素敵なことです。
玲奈ちゃんは、急にお母さんに会いたくなりました。
回れ右して、来た道を戻ろうとしたとき、目の前に不思議なネコが現れました。
額に白い星の形の模様のある黒いネコです。
ネコは、玲奈ちゃんに向かって言いました。
「あんた、大人になりたくねえか?」
ネコが、人間の言葉をしゃべったのです。玲奈ちゃんは、パニックになりました。お母さんが言うように、テレビを見過ぎたせいで、おかしくなったんでしょうか。
「いや、別に、テレビの見過ぎであんたがおかしくなったわけじゃねえ。俺が、特別なネコだから、人の言葉をしゃべれるんだ」
「特別なネコって?」
「そこの路地の向こうに別の世界がある。そこでは、好きな年になることができる。それを教えて、向こうへ行く気になった人間を送り出す役目を負ってるからだ」
「別の世界って、テレビやゲームにある異世界ってこと?」
「まあ、平たく言えば、そういうことだ」
「異世界へ行くと、帰って来れなくなるんじゃない?」
「大丈夫だ。向こうで、俺と同じ姿をしたネコを探して帰りたいって言えば良いんだ。まあ、ぶっちゃけ言えば、俺の兄弟なんだが……。そうすりゃ、そいつが、お前をこっちへ送り返してくれることになってる」
「でも、玲奈、晩ご飯までにおうちに帰らないといけないの」
「それも、大丈夫だ。向こうとこっちじゃ時間が違うから、戻ってくるとき、今このときへ戻って来ることにすれば良いんだ」
「じゃあ、時間をかけずに遊んで来ることができるってこと?」
「そういう考え方もできる」
なんて、魅力的な話でしょう。
いつもは、晩ご飯までに帰らなきゃならないので遊んでいても時間が気になりますが、時間を気にせず思いっきり遊ぶことができるのです。
「行く!」
「で、いくつになりてえ?」
「う~んとね。夜更かししても叱られないのは、大人ってことだから……」
「二十歳ぐらいにしとくか?」
「二十歳過ぎたらババアだから、もっと若い方が良い」
「じゃあ、大学生ぐらいとして、十八ぐらいか?」
「そうね。そのぐらいなら、お母さんにうるさく言われないだろうし、ババアじゃないから……それでいい」
「じゃあ、契約成立ってことで。
その道を、そのまま真っ直ぐ進むんだ」
わりと、簡単なんだな。
もっと、難しいことをしなくちゃならないのかと思っていた玲奈ちゃんは、思ったより簡単なので、拍子抜けした気分で歩き出しました。
路地を抜けると、まぶしい光があふれていました。
光の向こうにお店がたくさん並んでいます。
どこかの商店街のようです。
道の両側に一定の間隔を開けて立っている街灯に精いっぱいおしゃれしたつもりの看板がついています。
看板には、『中央通り商店街』と書いてあります。中央通りと名乗るなら、町の中央でなければなりません。でも、玲奈ちゃんには、ここが町の中央だなんて信じられませんでした。田舎の町でももっとおしゃれで洗練されているはずです。
最年少の吉野玲奈ちゃんが、登場しました。この世界では、全員、十七、八です。でも、玲奈ちゃんは、体は大人、中身は子供、です(笑)。




