筒井和也くんの場合(1)
第4章 筒井和也くんの場合
筒井和也くんは、二十三歳の大学生です。ただ今、就職活動の真っ最中です。
目ぼしい会社に片っ端からエントリーシートを提出した結果、気が付くと提出先は五十を超えていました。
日本中の学生や会社が就職活動に使う膨大なエネルギーを別なことに使えば、日本の国はもっと豊かで活力ある社会になることでしょう。膨大な数の会社の資料をチェックし、会社ごとに求められる事項を文章化してエントリーシートを作成するには、ものすごくエネルギーを使います。五十社以上のエントリーシートを作成して送付した和也くんは、疲れ切って息も絶え絶えになりました。
でも、そんなに出したのに、エントリーシートが通らないのです。
筆記試験の勉強もしました。面接試験の練習もしました。集団討論の練習もしました。
でも、そもそもエントリーシートが通らないのに、どうすれば良いのでしょう。
ネット申し込みのもの、手書きのもの、エントリーシートにもいろいろあります。和也くんは、どっちも片っ端から出しました。もちろん、エントリーシートの書き方という講習を受けての話です。
どんなに準備万端整えても、志望先の会社が会ってもくれないのでは話になりません。
友人が内定をもらい始めた頃、ようやくいくつかエントリーシートが通って、ドキドキしながら面接試験に臨みました。
でも、大抵一次面接でお祈りメールが届きました。つまり、落ちたのです。何とか一次面接を通過しても、二次か三次で落とされてしまいます。
そんなこんなで時間はどんどん過ぎて行きます。友人たちは、続々と内定をもらって、この殺伐とした就活から解放されて行きます。中には、二つ、三つと内定をもらう友人までいます。
十月一日には、内定式があるということです。
和也くんは、焦りました。
さっさと内定をもらわないと、来年の就職活動が始まってしまいます。そうなったら、和也くんが採用される確率は、ますます下がることでしょう。
この広い日本で、たくさんの会社があるのに、和也くんを採用してくれる会社がないのです。
目の前が真っ暗になりました。
歩道橋の上から見下ろすと、車がたくさん行き来しています。車体に会社のロゴの付いた車もたくさん走っています。どこかの会社の社用車です。
どこかに、和也くんのように地味で目立たない青年を採用してくれる会社はないでしょうか。
仕事に就けなかったら、どうやって食べて行けば良いのでしょう。
絶望的な気分になりました。
就活に失敗したら、この国では生きて行けないのでしょうか。
このままここから飛び下りたら、楽になれるのでしょうか。
あの、胃が痛くなるような面接を受けなくても良いのは、確かです。
ふと、歩道橋の下で黒いものが動いているのに気が付きました。
よく見ると、黒いネコです。ネコは、歩道橋のすぐ下にいて、おいでおいでしているじゃありませんか。
「飛び下りろって、わけじゃないよ、な?」
和也くんが、恐る恐る階段を下りると、ネコが顎をしゃくりあげました。まるで、付いて来いと言わんばかりです。
ワケが分かりません。
でも、煮詰まっているのです。ネコに命令されることが普通じゃないなんて些細なことは、どうでも良いような気がしました。
フラフラとネコの後を付いて行き、狭い路地に着きました。
そこは、いかにも安普請の文化住宅の立ち並ぶ路地で、まだまだ奥があるようです。
つと、ネコが振り返ると、和也さんに向かって言いました。
「この先に、この国より就職が簡単な世界があるけど、お前、行ってみたくねえか?」
辛い就職活動が終わる。
何て素敵なお誘いでしょう。
誘っているのが人間じゃないとしても、魅力的な提案に思われました。
さっきまで、歩道橋から飛び下りる誘惑と戦っていたのです。それに比べれば、別の世界――つまり、異世界――へ行くことなんか、軽いものです。
「本当に就職できるのか?」
「もちろん。あっちは人手不足だから、すぐに採用されるぜ」
ニヤリと笑ったネコの額には、白い星の形の模様があります。
いかにも胡散臭い話です。
でも、和也くんにとって、辛い就活を逃れることができるという提案は、輝いて見えました。和也くんの就職を心配する両親からのプレッシャーからも逃れることができるのです。
就活という苦役から逃れることができるなら、ネコが人間の言葉をしゃべって、非常識な提案をしたなんて、胡散臭いことには目をつぶることにしました。
「このまま進めば、良いんだな?」
「で、年齢設定はいくつにする?」
「年も選べるのか?」
「もちろんだ」
内定をとった連中の多くは、高校時代からいろんな資格をとってたっけ。TOEICだって文系なら七百や八百、へたすりゃ九百近いヤツもいたっけ。
やりなおせるなら……高校時代からやり直したい。そうすりゃ、もうちょっとマシになるだろう。でも、高校って、授業が目いっぱい入っててうっとうしかったっけ。大学入ってすぐぐらいなら、大学生活の自由さを満喫しつつ、TOEICや留学にチャレンジできるかも……。
「じゃあ、十八にしてくれ」
「了解。契約成立だ。グッドラック」
「ありがとな。お前のおかげで助かった」
そういうと、和也くんは、奥へ向かって歩き始めました。
このネコのおかげで命を救われたようなものです。
背後でネコのしゃがれ声が聞えました。
「もし、こっちへ戻りたくなったら、俺とそっくりのネコ――俺の兄弟だ――に戻りたいって言うんだ。そうすりゃ、戻ることができる」
歩きながら、ぼんやりと思いました。
誰が戻ってなんか来るもんか。
戻って来たら、地獄の生活に逆戻りだ。絶対、戻らない。
路地の奥に、ぼんやりと光に満ちた空き地が見えました。
空き地の向こうに、商店街があります。街灯についている看板に『中央通り商店街』と書いてありましいた。
ここが本当に異世界なのでしょうか。どう見ても、昭和の田舎の商店街です。
こんなところに、自分を採用してくれるところがあるのでしょうか。
でも、和也くんには根拠のない確信がありました。
あのネコは嘘はつかない。
ここでは簡単に就職できる。絶対。
時刻は午前十時です。商店街は、買い物客で賑わっています。
紺色のスーツにえんじ色のネクタイの、いかにもリクルートスタイルの和也くんは、そんな商店街では目立ちました。異常に目立つので、気恥ずかしくなるほどです。
なるほど、これなら、どこかに採用されるかも……。
和也くんは、呑気なことを考えました。
だって、和也くんがエントリーした会社へ出かけると、リクルートスタイルの同じような年頃の男女でごった返していたからです。
そこでは、男も女も同じようなスーツを着ていましたし、いつもは茶色に染めている髪も黒染して、まるで金太郎飴です。
面接で答える内容も、みんな同じハウツーものの講座を受けたり、テキストを読んだりしてますので、ほとんど変わりません。
そんな状態で優劣をつけると言っても、ほとんど面接官の趣味みたいなものです。内定をもらった友人と自分のどこが違うのか見当もつきません。
あえて違う点を探すとすれば、内定をもらった友人の多くがTOEICの点が高かったことぐらいです。
中には、一年ほど留学した友人もいました。一年も海外にいれば、どんなにいい加減な学生でも日常会話ぐらいできるようになります。そのおかげで企業の受けが良かったのです。
でも、一年遊んだおかげで、しかも外国で遊んだおかげで就職できるなんて、和也くんには思いもつきませんでした。
和也くんのように地味な学生にとって、留学はお金がかかる大冒険で、その費用を親に無心することなんてできない相談でした。でも、その遠慮深さというか、慎み深さというか、言うなら一種の美徳を発揮した結果が、現在の状況となっているのです。わがまま言って、強引にでも留学すれば良かったのかもしれません。
ネコが和也くんの要望を叶えたとすれば、この世界では十八のはずです。TOEICの勉強だってできますし、上手く行けば留学だってできます。
そうすれば、万一元の世界へ戻ったとしても、就職しやすいはずです。
しかも、戻らないのですむなら、英語の勉強なんかしなくても良いのです。
そっちの方が良いかも……。
人間と言うのは、易きに流れるものです。
和也くんは、TOEICの点を上げる努力をするより、留学という修行をするより、異世界にとどまるという、一番簡単な道を選択することにしました。
つくづく就活に疲れていたのです。
三人目は、二十三歳の就活真っ最中の学生です。六十歳の公子さん、四十前の武史さん、それぞれ元の年齢は違いますが、何故か異世界設定では、十七、八になっているのです。




