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ブラックなネコ  作者: 椿 雅香
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富岡武史さんの場合(3)

 こっちの世界へ来るとき、飛び越えた塀が消えているのです。元の世界へ戻るには、やっぱり、あのネコの兄弟を探して頼まなければならないのでしょう。


 武史さんは、覚悟を決めました。

 断固として、ネコを探し出すのです。じゃないと……想像するのもおぞましいことになるのです。

 

 目を皿のようにして町中を一回りしましたが、あのネコの兄弟そっくりさんと思しきネコを見つけることができませんでした。


 仕方がありません。

 腰を据えて、じっくり探すしかないようです。


 ……腰を据える。

 

 腰を据えるには、とりあえず寝る場所と食べ物が必要です。

 どこに泊まれば良いでしょう。見るからに昭和の野暮ったい町にウイークリーマンションなんてあるはずもありません。

 商店街の外れに、大野屋旅館という旅館がありました。とりあえず、そこで一泊することにして、案内を請いました。


「一泊朝食付きで三千円。前金でお願いします」

 頭の薄い宿の主人が事務的に言いました。

 

 ポケットから財布を取り出そうとして、手が止まりました。

 武史さんの財布の中のお金は、四十数年後の平成で流通している福沢諭吉や樋口一葉、野口英世のお札と主に平成の時代に鋳造した五百円玉、百円玉、五十円玉、十円玉それに一円玉です。ここがパラレルワールドかどうかはさておいて、過去だったとしても、これらのお金は、この時代にはあってはいけないものです。

 ということは……この時代――この世界――のお金がない、つまり、お金があるのにもかかわらず、文無しだということです。

 無茶苦茶理不尽だ。


 頭を抱える武史さんの様子を見て、旅館の主人が怪訝な顔で尋ねました。

「お客さん、もしかして、どっか別のところからいらしたんじゃ……」

 大野屋旅館の主人は、ため息をついて話します。

「時々いるんですよ。おたくみたいに、余所の世界から来たって人が」

 商売抜きのしみじみとした声でした。


 思わず、訊き返しました。


「その人たちがどうなったか、ご存じですか?」

「みんな、元の世界へ戻ろうとジタバタしたっちゃっしたな」

「で、その結果は……」


 聞きたくないけど、訊かずにいられません。


「中には、戻った人もいたっちゅう程度だね」

「ということは、戻れなかった人もいるってことですか?」

「いやね、元の世界よりこっちの方が良いって、居ついちまうヤツもいりゃ、ジタバタしても帰れなくて、結局、帰るのを諦めちまうヤツもいるって感じかねえ」


 告げられた事実に愕然としました。


 シビアな現実。こんな非常識な事態が現実だなんて信じられませんが、紛れもない現実なのです。

 

 元の世界に帰れるのでしょうか。帰れなかったら、元の世界で武史さんがいなくなるのです。


 今日は土曜だから、明日中に戻れば月曜に間に合います。万一、月曜になっても戻れなかったら、会社へ行けないのです。無断欠勤になります。

 会社へ行けなかったら、武史さんが任されていたプロジェクトはどうなるんでしょう。武史さんの代わりに、他の誰かが任されるのでしょうか。


 とんでもないことです。


 あのプロジェクトのために、どれだけ苦労したことでしょう。膨大な時間残業しただけじゃありません。家でも構想を練ったり資料を集めたりしたのです。

 

 帰らなければ……。

 そのためには、ネコを探さなければ……。

 

 そうです。帰るには、額に星の模様があるネコを探さなければならないのです。

 

 そうだ。とりあえず、腰を落ち着けて、ゆっくり探すんだ。


 動揺する心をなだめて、計画どおりネコ捜索大作戦を展開するのです。

 


 幸いなことに、大野屋旅館の主人が、旅館から歩いて五分ほどのアパートを教えてくれました。いくら何でも、いつまでかかるか分からないミッションの間、旅館に泊まり続けるのは無理だと言われたからです。

 ありがたいといえば、ありがたいことでしたが、この世界に長居する気のない武史さんにすれば、大きなお世話と言いたいところです。

 でも、明日中にネコが見つかる保証もない以上、旅館が異邦人の武史さんを受け入れてくれないなら、アパートの世話になるしかありません。

 ネコを見つけ次第帰るつもりですから、アパートの大家さんが迷惑しようが、大野屋旅館の主人の顔をつぶれようが知ったこっちゃありません。

 この世界でのベースキャンプとして、寝る場所が必要だったのです。 


「あんたみたいに、余所から来た人でも受け入れてくれるアパートなんだ」


 大野屋旅館の主人に紹介されたアパートは木造二階建てで、一階に四部屋、二階に四部屋あります。アパートの鍵を開けて玄関を入ると、入り口に下駄箱があります。下駄箱には,部屋番号を書いた棚があって、ここに自分の靴を置くのでしょう。つまり、玄関で履物を脱ぐアパートで、廊下には出かけている住人のものと思われるスリッパが並んでいました。部屋にも鍵が付いていますので、住人は玄関の鍵と部屋の鍵の二つを持ち歩くことになります。部屋は押し入れ付きの六畳間で、トイレと台所は共用のようです。トイレの脇の洗面所に二層式の洗濯機が置いてあり、これも共用とのことでした。

 しかし、今どき、二層式とは。

 ここは昭和四十六年ですから、今どきというには当たりません。でも、武史さんは暗い気持ちになりました。もともと一人暮らしですので、下着やタオルぐらいは洗ってましたが、使っていたのは全自動洗濯機で、二層式なんか使ったことがないのです。

 しかも、お風呂がないということは、近所の銭湯にでも行くのでしょう。

「台所は、使った人がその都度掃除しておいてください。廊下とトイレの掃除は、そこに当番表があるからそれに従ってくださいね。ああ、今度、富岡さんの名前も入れて作り直しておきますから」

 案内してくれた初老のおばさんが言いました。

 どうやら、このおばさんが、この高島アパートの大家さんのようです。多分、高島さんという名なのでしょう。

「家賃は、月三千円です。敷金と礼金は、それぞれ二か月分だけど、最初の家賃も、敷礼も、どっかに勤めて、給料が出てからで良いですから」

「ありがとうございます」

 家賃だけではなく敷金や礼金も待ってくれるという配慮に、思わず九十度の礼をしてしまった武史さんですが、良く考えると、家賃やなんかを払うために働かなければならないのです。


 この世界で働く……。


 一刻も早くネコを探さなければならないのに。元の世界で仕事が待っているのに。ネコを探す大前提として、この世界で身過ぎ世過ぎするために働かなくちゃならないのです。


 しばらくして、大野屋旅館のオヤジが文無しの武史さんを高島アパートに押し付けたことに気が付きました。

 あのまま大野屋旅館に泊まったら、宿賃が払えない――いうなら、不良債権になる――から、それを避けたのです。


 あんにゃろう。親切そうな顔して、結局、自分の利益第一なんだ。


 この分じゃ、きっと、いや、多分、絶対、大野屋旅館の主人は、高島アパートの大家さんから、普通なら借り手のないぼろアパートに店子を紹介したということで、謝礼をもらっているに違いありません。


 武史さんは、金儲けの手段に使われたようで、面白くありませんでした。

 

 でも、ネコが簡単に見つかりそうにないので、高島アパートに住めることになったのは武史さんにとって良かったと言えます。大野屋旅館の主人にしても、まんざら、算盤(そろばん)ずくだけでもなかったのでしょう。


 高島アパートで良かったことは、武史さんのような異世界から来て帰っていった人が借りていたことがあったことです。彼等の残した鍋や冷蔵庫や炊飯器といった基本的な台所用品や電気製品、それに布団なんかがそのままになっていて、それをそのまま使わせてもらえたのはラッキーでしいた。

 しかも、親切な大家の高島さんが、武史さんのために鍋やヤカンを洗ってくれたり、布団を干してくれたりしましたので、新たに買う必要がなかったのです。

 この世界での現金の持ち合わせのない武史さんにとって、ありがたいことでした。

 でも、潔癖症の武史さんにとって、どこの誰が使ったか分からない鍋やヤカンを使うのは抵抗がありましたし、もともと炊事が不得手だったこともあって、外食メインの生活になってしまいました。



 武史さんが井田屋食堂の常連になったのは、こういうわけでした。




武史さんは、ネコを探すために、ベースキャンプを手に入れました。

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