↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/4

第三話 宿帳

「じゃあ、そろそろ宿へ行きます。」


彼がそう言うと、ガルドは顔を上げた。


「そうか。」


「長居してしまいました。」


「気にしなくていいよ。」


ガルドは棚の商品を整えながら笑う。


「客が来ない時間帯だったしね。」


「それ、商売としてどうなんですか。」


「よくないかもしれない。」


彼は思わず吹き出した。


今日だけで何度目だろう。


この村へ来てから、自分でも驚くほど肩の力が抜けていた。


「色々と世話になりました。」


「大したことはしてないよ。」


ガルドは軽く手を振る。


「宿は向かいだよ。迷うこともないだろう。」


「確かに。」


彼は小さく頭を下げた。


「それじゃ。」


「ああ。ゆっくり休んで。」


短いやり取りだった。


けれど、それで十分だった。


⸻


宿屋《風見鶏亭》は雑貨屋の向かいに建っている。


通りを挟んで数十歩。


迷いようもない距離だった。


木製の看板が風に揺れている。


扉を開くと、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。


昼を少し過ぎた時間だ。


宿の食堂には数人の旅人が残っている。


談笑する者もいれば、静かに食事をしている者もいる。


どこにでもある宿屋の風景だった。


「いらっしゃい。」


カウンターの奥から声が飛ぶ。


大柄な男だった。


腕は太く、髭も立派だ。


少し怖そうにも見えるが、目つきは穏やかだった。


「一泊ですか?」


「あ、はい、一泊で。」


「食事付きなら銀貨三枚です。」


彼は頷いた。


主人は宿帳を差し出す。


「名前をお願いします。」


彼の手が一瞬だけ止まった。


本当に一瞬だけ。


だが、それはいつもの癖だった。


名前を書く。


それだけで空気が変わることがある。


歓迎されることもある。


期待されることもある。


時には面倒事になることもある。


彼は小さく息を吐いた。


そして羽ペンを取る。


さらさらと紙の上を滑らせた。


⸻


アレン・クラウス


⸻


宿帳を閉じる。


その瞬間だった。


主人の視線が名前の上で止まる。


奥でグラスを拭いていたリナも動きを止めた。


数秒。


静かな時間が流れる。


やはりそうなるか。


アレンは心の中で苦笑した。


「何かありましたか?」


努めてなんでもないような顔をして、アレンが尋ねる。


主人は宿帳から顔を上げた。


「いや。」


それだけだった。


そして帳面を閉じる。


「夕飯は日が沈んだ頃です。」


「……はい。」


「風呂は裏です。」


「分かりました。」


「部屋は二階の突き当たりです。」


「ありがとうございます。」


本当にそれだけだった。


アレンは少しだけ戸惑う。


もっと驚かれると思っていた。


もっと質問されると思っていた。


だが主人は何事もなかったように鍵を差し出した。


「ごゆっくり。」


アレンは鍵を受け取る。


「どうも。」


それだけ言って階段へ向かった。


⸻


部屋は質素だった。


机と椅子。


ベッドが一つ。


窓からは村の通りが見える。


だが、不思議と落ち着く。


荷物を置き、窓を開けた。


春の風が流れ込んでくる。


遠くで子どもたちの声が聞こえた。


雑貨屋の前では、ガルドが誰かと話している。


どうやら村人らしい。


何か世間話でもしているのだろう。


二人とも笑っていた。


アレンはその様子をぼんやり眺める。


自分は…




……勇者だから




世界を救う存在だから。


そんな理由で話しかけてくる人間は数え切れないほどいた。


だが、この村の人間は違う。


ガルドも。


あの老人も。


宿屋の主人も。


自分を勇者としてではなく、一人の旅人、一人の冒険者として扱う。


それが妙に心地良かった。


「変な村だな。」


思わず呟く。


けれど、その声には嫌な響きはなかった。


むしろ少しだけ。


笑っているような声だった。


⸻


一階の食堂では、リナがまだ宿帳を見ていた。


主人が帳簿を整理しながら言う。


「仕事しろ。」


「だって。」


リナは小声で言う。


「勇者様だよ?」


「そうだな。」


「そうだなじゃないよ。」


主人は肩をすくめた。


「勇者だろうが旅人だろうが、泊まりに来た客だろ。」


リナは口を開きかける。


だが、反論できなかった。


主人は宿帳を棚へしまう。


「それに。」


「それに?」


「疲れてる顔してた。」


それだけ言って仕事へ戻った。


リナはしばらく黙っていたが。


やがて窓の外を見る。


向かいの雑貨屋。


その前では相変わらずガルドが村人と話していた。


リナは小さく笑う。


それもそうだ。


彼はお客様、それだけだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。