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第三話 宿帳

「じゃあ、そろそろ宿へ行きます。」


彼がそう言うと、ガルドは顔を上げた。


「そうか。」


「長居してしまいました。」


「気にしなくていいよ。」


ガルドは棚の商品を整えながら笑う。


「客が来ない時間帯だったしね。」


「それ、商売としてどうなんですか。」


「よくないかもしれない。」


彼は思わず吹き出した。


今日だけで何度目だろう。


この村へ来てから、自分でも驚くほど肩の力が抜けていた。


「色々と世話になりました。」


「大したことはしてないよ。」


ガルドは軽く手を振る。


「宿は向かいだよ。迷うこともないだろう。」


「確かに。」


彼は小さく頭を下げた。


「それじゃ。」


「ああ。ゆっくり休んで。」


短いやり取りだった。


けれど、それで十分だった。



宿屋《風見鶏亭》は雑貨屋の向かいに建っている。


通りを挟んで数十歩。


迷いようもない距離だった。


木製の看板が風に揺れている。


扉を開くと、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。


昼を少し過ぎた時間だ。


宿の食堂には数人の旅人が残っている。


談笑する者もいれば、静かに食事をしている者もいる。


どこにでもある宿屋の風景だった。


「いらっしゃい。」


カウンターの奥から声が飛ぶ。


大柄な男だった。


腕は太く、髭も立派だ。


少し怖そうにも見えるが、目つきは穏やかだった。


「一泊ですか?」


「あ、はい、一泊で。」


「食事付きなら銀貨三枚です。」


彼は頷いた。


主人は宿帳を差し出す。


「名前をお願いします。」


彼の手が一瞬だけ止まった。


本当に一瞬だけ。


だが、それはいつもの癖だった。


名前を書く。


それだけで空気が変わることがある。


歓迎されることもある。


期待されることもある。


時には面倒事になることもある。


彼は小さく息を吐いた。


そして羽ペンを取る。


さらさらと紙の上を滑らせた。



アレン・クラウス



宿帳を閉じる。


その瞬間だった。


主人の視線が名前の上で止まる。


奥でグラスを拭いていたリナも動きを止めた。


数秒。


静かな時間が流れる。


やはりそうなるか。


アレンは心の中で苦笑した。


「何かありましたか?」


努めてなんでもないような顔をして、アレンが尋ねる。


主人は宿帳から顔を上げた。


「いや。」


それだけだった。


そして帳面を閉じる。


「夕飯は日が沈んだ頃です。」


「……はい。」


「風呂は裏です。」


「分かりました。」


「部屋は二階の突き当たりです。」


「ありがとうございます。」


本当にそれだけだった。


アレンは少しだけ戸惑う。


もっと驚かれると思っていた。


もっと質問されると思っていた。


だが主人は何事もなかったように鍵を差し出した。


「ごゆっくり。」


アレンは鍵を受け取る。


「どうも。」


それだけ言って階段へ向かった。



部屋は質素だった。


机と椅子。


ベッドが一つ。


窓からは村の通りが見える。


だが、不思議と落ち着く。


荷物を置き、窓を開けた。


春の風が流れ込んでくる。


遠くで子どもたちの声が聞こえた。


雑貨屋の前では、ガルドが誰かと話している。


どうやら村人らしい。


何か世間話でもしているのだろう。


二人とも笑っていた。


アレンはその様子をぼんやり眺める。


自分は…




……勇者だから




世界を救う存在だから。


そんな理由で話しかけてくる人間は数え切れないほどいた。


だが、この村の人間は違う。


ガルドも。


あの老人も。


宿屋の主人も。


自分を勇者としてではなく、一人の旅人、一人の冒険者として扱う。


それが妙に心地良かった。


「変な村だな。」


思わず呟く。


けれど、その声には嫌な響きはなかった。


むしろ少しだけ。


笑っているような声だった。



一階の食堂では、リナがまだ宿帳を見ていた。


主人が帳簿を整理しながら言う。


「仕事しろ。」


「だって。」


リナは小声で言う。


「勇者様だよ?」


「そうだな。」


「そうだなじゃないよ。」


主人は肩をすくめた。


「勇者だろうが旅人だろうが、泊まりに来た客だろ。」


リナは口を開きかける。


だが、反論できなかった。


主人は宿帳を棚へしまう。


「それに。」


「それに?」


「疲れてる顔してた。」


それだけ言って仕事へ戻った。


リナはしばらく黙っていたが。


やがて窓の外を見る。


向かいの雑貨屋。


その前では相変わらずガルドが村人と話していた。


リナは小さく笑う。


それもそうだ。


彼はお客様、それだけだ。

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