満月の夜
蓮司の腕時計は23時48分を指している。
満月は薄い雲に覆われて滲んでいる。
風はない。
警官たちは夕刻から、打ち合わせ通りの配置についている。
鴉間からすま邸の周囲は警官たちに囲まれた状態だ。
先程までついていた真白の書斎の灯りは消され、窓からは奏夜の影が見えた。
奏夜こそが書斎を守る最後の砦だ。
そして、その書斎の前には砦に辿り着かせないために、壁男・蓮司が立ちはだかっている。
緊張感が一層高まる。
———深夜0時。
帝都に時刻を告げる鐘が響き渡ると、
満月の雲は流れ、その輪郭をくっきりとさせた。
その月光を背に黒い影が空を舞い、鴉間邸に迫ってくる。
カイトだ。
黒いカイトが鴉間邸のえんじ色の屋根に着地すると、月明かりのように青白い髪を持つ男が音もなく降り立つ。
月下の怪盗、
Moonlit Sky。
地上の警官たちの視線が一斉に屋根に集まる。
満月はまるで舞台照明のように、ただ一人、怪盗だけを照らしていた。
青白い髪も、身につけているマントも風に靡いているが、その均整の取れた研ぎ澄まされた彫刻のような黒づくめの身体は、三角屋根の上にもかかわらず微塵も揺らがない。
「素敵な皆様方、本日もお集まりいただきありがとうございます」
怪盗は地上の注目を満足そうにゆっくりと見回すと、マントを翼のように広げて払い、恭しく紳士の一礼をする。
誰も動けない。目を逸らせない。
マントを翻し闇夜に溶ける怪盗。
———その瞬間、
ガラスの砕ける音が夜気を裂いた。
「二階だ!」
若い警官が叫ぶ。
窓ガラスの破れた音に反応し、蓮司が2階へ続く階段の下へ駆け寄ると、風が通り抜けた。
「S、状況はどうだ?」
割れた窓、散らばるガラス片。
しかしそこに怪盗の姿はない。
「侵入者なし!窓だけ破られた!」
「了解! 引き続き警戒を頼む」
蓮司が再び持ち場の書斎へ戻ろうとした時、
一階の明かりが一斉に落ちた。
「停電!? 怪盗の仕業か?」
蓮司が辺りを見回して警戒し、書斎前の扉へ急いで戻ろうとすると、足元にランプの明かりが灯り、えんじ色のズボンが見えた。
奏夜だ。
「蓮司さん、書斎はこっちです」
「奏夜!? お前書斎から出てきたのか!」
「ごめんなさい。でも話は後で、今は書斎へ!」
「ああ、戻ろう」
蓮司が書斎のドアノブをひねると抵抗があった。
鍵は閉まっている。
二人は胸を撫で下ろした。
———その時
「屋根にいるぞ!」
外から叫び声が聞こえた。
三角屋根の低い位置に月下の怪盗が立っている。
怪盗は何かを高く掲げた。
黒い革張りの帳面だ。
月明かりを受けてテラテラと光っている。
「鴉間 真白探偵の書き留めた私事はこの通り返していただきました」
怪盗は帳面を小脇に挟んで、まるでレディにダンスを申し込むかのように、胸に手を当て華麗に礼をした。
「ご機嫌よう、間抜けな皆様方」
そう言うと、カイトを掴み助走をつけて
一気に飛び立つ。
低い位置を飛んでいるが、警官が肩車をして最大限手を伸ばし必死に飛びついても、指先がかすめるだけで届かない。
自転車で追いつこうにも速さで負けてしまう。
そうして、怪盗は飛び去って闇夜に消えた。
残されたのは、月明かりに照らされた屋根と、
煉瓦造りの煙突だけだった。
* * *
外の班長が鴉間邸に入ってきた。
「たった今、怪盗が現れ資料を持って逃亡しました。現在追跡中です」
「そんなはずはない」
「しかし、外の警官全員、怪盗が黒い帳面を掲げて持ち去るのを目撃しています」
「……そんな」
蓮司はゆっくりと向きを変え、焦る手で書斎のドアノブを何度もガチャガチャと回した。
やはり鍵は閉まっている。
「蓮司さん、やつは煙のように侵入するって言いましたよね」
奏夜は険しい顔をして続ける。
「嫌な予感がするんです。書斎を開けて確認してもいい?」
「……わかったおちび。開けよう」
奏夜が首にかけた鍵をシャツの中から取り出し、ランプで鍵穴を照らしながら鍵を開ける。
そして、そっと中を覗いて暗い書斎へ入って行った。
蓮司も大きな体を揺らしながら奏夜のランプの後に続く。
書斎は最初に開けた時から変わらず散らかっていた。
蓮司が部屋の中を進むのにてこずるのをよそに、奏夜は迷うことなく奥のほうへ進んでいく。
そして本棚の前で足が止まると、小さく屈んだ。
「どうした奏夜、ノートはそこにあるのか?」
「ノート……」
奏夜は震える指で小さな本棚の下段を示す。
蓮司は慌てて歩み寄った。
「ないんだよ、ここに仕舞われていたノートがないんだ!」
本棚を見ると下の段がもぬけの殻になっていた。
「そんな……
どこか別のところに移したり
落ちたんじゃないか?」
蓮司は近くの本をよけ、紙の束を掻き分ける。
しかし、出てくるものは紙屑ばかりだった。
奏夜はうずくまり、顔を覆った。
肩は小刻みに震え、呼吸は乱れている。
「やられた……」
蓮司は天を仰ぎ、額に手をやり目を閉じる。
うずくまる奏夜に声をかけようとしたが、喉が詰まってしまって言葉が出ない。
少しして言葉の代わりに奏夜のそばに寄り、そっと肩を抱いた。
「すまない、我々がついていながら……」
蓮司は絞り出すように言う。
次の言葉が出てこない。
「蓮司さんごめんなさい……。
僕、誰も信用出来なくなってしまって」
俯いた奏夜の目に溜まった涙がついに溢れ出して床にぽたりと滴を落とした。
「蓮司さんもばあやも、みんな変装した怪盗なんじゃないかって疑ってしまうんだ……」
「……」
蓮司は詰まってしまう言葉の代わりに奏夜の肩を一層強く抱いてさすった。
奏夜は下を向き肩を振るわせながら、
呪文のように「ごめんなさい、ごめんなさい」
と呟き泣いている。
「蓮司さん、僕、一人になりたい。
父も父の残したものも失って……
一度心の整理をつけてからお話したいんだ」
奏夜は下を向いたままそう呟く。
「すまない、申し訳ない……不甲斐なくて……」
蓮司は肩を抱いた手をそっと離すと、奏夜の巻き毛頭をくしゃりと撫でて外に出ていった。
今日は撤収だ。
* * *
蓮司が玄関に行くと、扉に小さなメモが貼ってあるのに気づいた。
【見てくれてありがとう。
家の外で待っていてください。
信用できる刑事さんも一緒に】
払いが長い、右上がりの小さな文字だ。
* * *
書斎の本棚で泣いていた奏夜は、横目で蓮司が去るのを確認すると無表情で立ち上がる。
彼が伸びをして肩の緊張を解いた、
その時だった。
奏夜の背後から声が聞こえる。
「やあ、僕ってそんな感じかな?」
奏夜が後ろを振り向くと、そこにはもう一人の奏夜が片手に四冊のノートを抱えて立っていた。
本棚の奏夜は、えんじの揃いを着ているが、ノートを持った奏夜は学生服を着ている。
えんじの奏夜はわずかに目を見開いたが、すぐに微笑んだ。




