予告状
淡い黄土色の漆喰壁に、深い臙脂色の屋根と煉瓦造りの煙突を載せた二階建ての洋館。
それが名探偵・鴉間 真白の屋敷である。
主を失った今は、その息子である奏夜と住み込み女中のばあやだけが暮らしていた。
かつて依頼人で賑わった一階の応接間も、この朝は静まり返っている。
学生服に着替えた奏夜は、食卓を片づけ終え応接間に行くと、えんじのビロード張りのソファに深く腰掛け、紅茶の湯気を眺めながら新聞を手に取った。
一面には、昨夜世間を騒がせた月下の怪盗の記事が大きく躍っている。
警察の包囲網を鮮やかに抜けた怪盗と、それを取り逃がした警察を面白おかしく書き立てる内容だったが、奏夜はそこを流し読みしてすぐに紙面をめくった。
新聞を読む奏夜の視線の先、応接間の奥には彼の父の書斎へ続く扉が静かに閉ざされている。
少しして、玄関の扉が開き、重い足音が廊下に響いた。
「おちび、いるか」
現れたのは桐生 蓮司だった。
警部補であり真白の旧友でもある彼は、真白が亡くなった今も毎朝必ずこの屋敷へ顔を出す。
彼の鍛え上げられた体格は戸口を狭く見せるほど大きく、真白からは壁と呼ばれていた。
しかし今日の壁は昨夜ろくに眠れていないのか、肩を落としている。
その巨体もどこか小さく見えた。
「歯は磨いたか」
「はい」
「朝飯は食べたな」
「はい」
「よし。うちのが弁当を持たせてくれた」
差し出された包みを受け取り、奏夜は小さく頭を下げる。
「ありがとうございます。毎日楽しみにしてるんです」
「いっぱい食って大きくなれよ」
「蓮司さんみたいにはなれないよ」
蓮司は苦笑すると、ふと思い出したように声を落とした。
「真白の一周忌のことだが、手配はうちのが全部やるから。おちびは余計な心配せず学校へ行けよ」
「……うん」
奏夜は声が詰まり、思わず「うん」と答えてしまったことを少し恥ずかしく思った。
蓮司は何も言わずに無骨な手で奏夜の巻き毛をくしゃりと撫でると、腰をかがめて耳元で囁いた。
「今日の弁当、奏夜の好きな肉団子が入っていたぞ」
「……はい」
奏夜の表情が少し和らぐと、蓮司は満足そうに頷き、新聞の一面記事にちらりと目をやった。
「さ、俺は今日も警部殿に絞られに行ってくるかな。おちびも遅刻するなよ」
蓮司は奏夜の頭をポンと撫でると、肩をすくめて颯爽と応接間を後にした。
奏夜は父が亡くなってしばらくの間、黒い学生服を見るたび胸が詰まってしまい、学校へ通うことができなかった。
しかし、毎朝顔を見せる蓮司と、温かな弁当を持たせてくれる蓮司の妻の期待を裏切りたくなくて、近頃はどうにか足を運んでいる。
今日も弁当をカバンに詰め、上着を羽織ると玄関へ向かった。
「ばあや、いってきます」
「いってらっしゃいませ、奏夜様」
* * *
奏夜は学校でいつも一人で過ごしている。
入学当初こそ名探偵の息子として人だかりができたが、それも長くは続かなかった。
父の話をうまくはぐらかし続けるうちに人は離れ、
真白の死後には声をかける者すらほとんどいなくなった。
奏夜は勉強こそ好きだったが、同じ黒い服を着た同年のものが寄せ集められている学校という場所を昔からあまり好いていなかった。
なので『学校は勉学に勤しむ場所』と割り切り、今は退屈な時間を趣味の詩作の構想を練ることと、寝たふりをして周りの人の会話を盗み聞きすることに徹してなんとかやり過ごしている。
そうして、午後の授業を終え足早に帰路に着いた。
そして、すぐに郵便受けを確認する。
手紙はまだきていないようだ。
奏夜は郵便受けの前で少し待つことにした。
この家には名探偵宛に捜査の依頼や賞賛や感想の手紙、はたまた大怪盗を真似た予告状や挑戦状など、郵便受けからあふれんばかりの手紙が届いていたが、
名探偵・鴉間真白の死後一年が経ち、そのような手紙もすっかり減ってしまった。
まして、親しい友だちもおらず、親しい親族も居ない、そして名探偵でもない、ただの16歳の奏夜に宛てた手紙など届くはずもなく、奏夜自身、郵便受けは父専用の物だと思っていた。
しかし、ここ最近は一通か二通ほど彼宛の手紙が届くようになり、毎日郵便受けの前で手紙を直接受け取っていた。
奏夜が文学雑誌に投稿した詩が掲載されて、その感想が届くようになったからだ。
数分ほど待っていると自転車に乗った郵便屋が彼の家の前で止まった。
「やあ、鴉間さんちの巻き毛のおちびちゃんだね。
今日もお手紙を持ってきたよ」
郵便屋は郵便受けの前の奏夜を見かけると、意地の悪い笑顔を向けて挨拶をする。
奏夜は眉をぴくりと動かした。
その呼び方は、巻き毛も、身長が低い童顔で年相応に見られないことも、名探偵・鴉間真白の子であるということも、全てのコンプレックスを表した屈辱的なものだった。
わざとからかって楽しんでいる郵便屋に、奏夜は内心では歯を食いしばり地団駄を踏んで抗議したいところだったが、すぐに極めて紳士的な笑顔を作った。
「ここに鴉間の表札もあるのにわざわざご確認なさるなんて、文字も読めずにどうやって手紙を配ってるんです?」
今思いつく一番の嫌味を言う。
郵便屋はそんな奏夜を頭からつま先まで見た。
「文字? 読めますとも。だから毎日巻き毛の坊ちゃんにお手紙をお届けしているんですよ」
郵便屋はにっこり笑って帽子のつばを指で持ち上げ、自転車にまたがった。
「それでは、また明日」
奏夜は笑顔のまま見送ったが、郵便屋の姿が角を曲がった途端、すぐにへの字口に変わった。
ここ最近は手紙が楽しみというのももちろんあったが、それよりも毎日手紙を待たなければあの郵便屋に負けてしまう気がして、郵便受けの前で待ちかまえて嫌味のやり取りをしてから手紙を直接受け取ることを日課にしていた。
もはや意地である。
手紙を受け取ると玄関前で自分宛のものと自分宛以外のものに仕分け、自分宛の手紙を応接間のテーブルに置き、それ以外の手紙は出迎えてくれたばあやに渡した。
そして、階段を登って自室に向い、黒い学生服を脱ぎ捨て、お気に入りのえんじ色の揃いに着替えると、足早に階段を駆け下りて応接間に戻り、自分の服と同じ、えんじ色のビロード張りのソファに座るやいなや開封して中身をニマニマと読んだ。
しかしその日は奏夜が興味を示さない方の手紙の中に特別なものが入っていた。
* * *
「この手紙は坊ちゃま宛じゃあないですか」
ばあやが奏夜に差し出した薄青の封筒には確かに
『鴉間 奏夜 殿』
と書かれていた。
差出人の名前は無く、裏には赤い封蝋が施されており、この高級感は父宛のものだと思いこんで省いてばあやに渡していた。
こんな素敵な封筒に入った手紙だからきっと内容も素敵に違いない。
奏夜がわくわくして小鼻をひくつかせながら開封すると、その中には手紙が一枚。
青いインクの独特な文字でこう書かれていた。
【次の満月、零時の鐘が鳴り止む頃
貴殿のお父様が丁寧に書き留めてくださった
私事をそっと返していただきに参ります
硝子を一枚割る無礼はご容赦を
——M.S】
手紙が手からポトリと落ちた。
震えが止まらない。
——M.S。
月下の怪盗、Moonlit Sky。
怖い。
それなのに奏夜の胸は高鳴り、口元は勝手に緩んでしまう。




