0-2 . 明けない悪夢
馬車の車輪が軋む音が心地よい揺れとなって伝わってくる。
窓から見える景色は少女の知る世界とはまったく違っていた。
舗装された道、整然と並ぶ石造りの家々、清潔そうな服装の人々。
向かいの席で母は上機嫌だった。
かつて見たこともないほど自信に満ちている。
彼女の手には大きな扇子が握られていた。
「男爵様が今日の晩餐会で私をご紹介してくださるのよ!きっと皆様に祝福されるわ!」
母はそう言って嬉しそうに笑った。
三日前からこの調子だ。
新しい生活に対する期待で胸を膨らませている。
少女も新しい服を与えられていた。
青いフリルのついたドレスは柔らかくて肌触りが良く、靴まである。
男爵ハーロン卿は五十過ぎの小太りの紳士だった。
白髪混じりの髪をきちんと整え、常に丁寧な言葉遣いをする。
初めて会ったときも彼は屈んで目線を合わせ、
「これからは私の娘だよ」
と言って頭を撫でた。
母の手とは反対に、その手は温かかった。
父というものがどんな存在か知らなかった少女だが、この人は信用できそうな気がした。
屋敷に着くと使用人たちが一列に並んで出迎えた。少女は圧倒されて言葉が出なかった。
屋敷の門から玄関まで何十メートルもある。
壁には絵画が飾られ、廊下には大理石の彫刻が置かれている。
新しい部屋は二階の角部屋だった。
天井まで届く窓からは広大な庭園が見える。
ベッドには真っ白なシーツが敷かれ、暖炉には薪が燃えていた。
全てが輝いているように感じた。
だけれど、初めての晩餐会。
長いテーブルには男爵と二人の娘たちが座っていた。
男爵は温かく挨拶してくれたが、二人の姉妹の視線は冷ややかだった。
特にオリビアの蔑むような眼差しには背筋が凍る思いがした。
食事が始まると、オリビアが口を開いた。
「なぜ娼婦を後妻に迎えたのです?」
男爵夫人となった母は赤面した。
少女は胸が締め付けられる思いで母を見た。
しかし母は誇らしげに背筋を伸ばし、
「過去のことは関係ありません。今の私はハーロン男爵夫人ですわ」
と毅然と言い放った。
男爵が咳払いをして仲裁に入ろうとしたその時、ソフィアが皮肉げに笑った。
「でも娼婦どころかその娘も引き取るなんて、お父様は慈善家を気取るつもりですの?」
スープが喉を通らない。
こんな世界に来るべきではなかったのではないかという思いが胸を締め付ける。
気丈にも背をピンと伸ばし、微笑んでいるが、母は大丈夫だろうか。
少女の懸念は適中する。
その夜、部屋に戻ると母が待っていた。
彼女は疲れ切った様子で椅子に座り込んでいた。
少女は母に近づき、手を伸ばす母の腕の中におさまる。
縋るような腕の強さに少女は泣きたくなった。
「でも心配いらないわ。明日からは正式にハーロン家の一員になるんだから」
だけれど、翌日の朝食の席でも、凍りついた空気に変化はなく、オリビアとソフィアは無言で食事をし、時折鋭い視線を向けてきた。
男爵は新聞に没頭していて、こちらを気にする素振りすらない。
このような母に圧をかけるような状況が良いわけがなく、母は場違いなほど明るく振る舞い、少女にあの笑みを浮かべてみせる。
「王子様、今日もとてもいい日ね!」
母のその様子に、義姉たちは動揺も見せないから、話には聞いているのだろう。
二人は意地悪く笑い合うのを見て、少女は苦い気持ちになる。
「エレノア様、その呼び方は止められた方がよろしいのでは?その子どもは娘なのですから」
男爵が新聞から顔を上げ、「まあまあ」と言いかけたところで母が立ち上がった。
「いいえ!『王子様』よ!私と結ばれるのだから、女であっていいわけがないじゃない!」
彼女の声が不自然に震え始め、少女は制止しようとしたが遅かった。
母の瞳に膜がかかり、焦点が合わなくなる。
彼女はまるで別の空間を見ているかのように空虚な笑みを浮かべた。
「女であるはずがないわ。だって私が生んだのは男の子ですもの。そうでしょう、王子様?あなたとの子よ?なのに、どうして来てくださらなかったの?怖い人たちが追いかけてくるの。あなたとの子がとられてしまう…」
そのまま母はふらつき始め、椅子に崩れ落ちた。
少女が慌てて彼女を支える。
男爵は困ったように眉をひそめ、「今日の茶会はキャンセルするか」と告げた。




