0-1 . 因縁と因果
過去編ですが、読み飛ばしても大丈夫です。
薄っすらとした描写ですが、主人公が性的暴行されそうになる描写があります。
ただ、少し触れる程度で、キスすらされません。
夕暮れの貧民街は、腐った卵のような臭いと吐瀉物の酸っぱい匂いで満ちていた。
少女は薄汚れた路地の隅に蹲り、膝を抱えていた。
灰色のズボンは擦り切れ、穴だらけ。
靴はない。
裸足の足裏には硬い豆ができていた。
遠くから男たちの笑い声が聞こえる。
少女の母、エレノアは元伯爵家の令嬢だったらしい。
少なくとも彼女自身はそう言い張っている。
時にはピンク色の絹のドレス(本当は綿だが)、時にはボロボロの布でさえも、母はその裾を優雅に摘み上げ、まるで舞踏会の階段を降りるかのように歩くことがある。
「ああ王子様迎えに来てくれたのね!」
そう言って母は少女のように頬を赤らめる。
その顔は半分腫れ上がり、唇の端は切れて紫色のあざになっていることが多いのに。
でも朝になると母の目は澄んでいて、「昨日の王子様は最高だったわ!」と笑う。
記憶を消されたように、痣も忘れられるのだ。
今夜も重い木の扉が軋み、男たちが出入りしている。
母は今頃三階の小さな部屋で客を迎える準備をしているだろう。
甘い匂いが窓から流れ出てきて、少女の鼻をくすぐる。
母の匂いだ。
そして、この建物の中の女性たちの匂い。
突然、足音が近づいてきた。
少女は咄嗟に息を潜め、積み上げられたゴミ箱の陰に隠れる。
通り過ぎるのは三人の酔った男たちだ。
彼らは大声で笑いながら歩いていく。
「なんで出歯鼠のお前が王子様なんだよ」
「そういうお前だって暴力デブ王子だろ!」
「おいおい、お前たちが王子を自認したら不敬罪でしょっぴかれるだろ!俺はまあ王子だけど」
「禿頭が黙ってろよ!」
彼らの笑い声が遠ざかる。
少女はゴミ箱の陰から這い出て、そっと通りを見渡した。
危険は去ったようだ。
腹が減りすぎて眩暈がする。
もう何日もろくなものを口にしていない。
母が帰ってきたときに黒パンをくれるのを待つしかないが、母は自分よりも客との約束を優先する。
母の王子様との約束を。
少女はゆっくりと立ち上がり、足を引きずりながら狭い路地を進んだ。
目指すは市場の裏のゴミ捨て場。
ここで残飯を見つけられることがある。
成功すればいいけど、そうでなければ飢えは続くだけ。
市場の裏手はいつもより静かだった。
夕方の喧騒は既に過ぎ去り、店番たちは片付けを終えている。
少女は猫のように忍び足で裏口へ近づいた。
この時間なら、腐った果物や残飯が捨てられているはずだ。
「おい、どこに行くんだ?」
突然、野太い声が背後から聞こえた。
振り向くと、脂ぎった肌の大柄な男が立っていた。
少女は凍りついた。
この男は以前、他の子供たちを殴っているのを見たことがある。
「おいで、食べ物を探してるんだろう?」
男が近づいてくる。少女は恐怖に駆られて逃げ出した。
裸足が石畳を叩く音が夜の闇に響く。
「逃げるなよ! 少し遊ぼうぜ!」
男の笑い声が追いかけてくる。
少女は必死で走った。
路地を曲がり、隙間を抜け、息を切らせながら貧民街の奥へと逃げ込む。
男はまだ追ってくる。
諦めてくれない。
とうとう行き止まりに追い詰められた。
石壁を背に、少女は震える足で立っていた。
男の荒い息遣いが迫ってくる。
「大人しくしろよ…」
男の手が少女に伸びた瞬間、
「キャァァァッ! だれか助けてぇっ!」
甲高い叫び声が闇を裂いた。
少女は信じられない思いで声の方を見た。
そこには母が立っていた。
彼女の寝巻きは泥に汚れ、髪は乱れている。
しかし彼女の顔には恐怖ではなく、どこか恍惚とした笑みがあった。
「私の王子様を返してっ!」
母の言葉に男は呆気に取られたようだった。
そしてすぐに冷笑を浮かべた。
「あの女、また妄想が始まったぜ。おい、お前があいつの王子様だって言うのか?」
少女は答える代わりに男に突進した。
狂ったように走ってくる母が見えたからだ。
母を守らなければ!
「このバカどもがっ!」
鈍い音と共に、痛みと衝撃が全身を貫いた。
蹴り飛ばされ、地面に倒れ込む。
息ができない。
視界が暗くなり始めたとき、男の哄笑が聞こえた。
「お前みたいなガキが王子様だって? 笑わせるぜ!」
何度も何度も蹴られる。
少女の意識は徐々に薄れていった。
最後に見たのは、血まみれになりながらも微笑んでいる母の姿だった。
目が覚めたとき、少女は古びたベッドの上にいた。
埃っぽい枕元には濡れた布が置かれている。
窓から差し込む朝日が眩しかった。
体中が痛む。
特に腹部の痛みは激しい。
息をするたびに肋骨が軋むようだった。
だが生きている。
隣のベッドでは母が眠っていた。
顔は腫れ上がり、青あざだらけだ。
しかし寝顔は奇妙なほど穏やかだった。
しばらくすると母が目を開けた。
焦点が合うまでの数秒間、彼女は虚空を見つめていた。
そして少女に気づくと、
「ああ、王子様、助けてくれてありがとう!」
その声は明るく弾んでいた。
痛みなど全く感じていないように。
母はベッドから身を起こし、少女の頬に触れた。
その手は冷たかったが、少女は救われる思いだった。
「あなたが来てくださったおかげで、怖い男から救われたのよ。本当に勇敢なお方ですわ」
優しく微笑む母の言葉に、少女は涙が溢れそうになった。
しかし王子様は泣いたりなんてしない。
母の幻想を壊してはいけない。
彼女にとって、現実はあまりにも辛すぎる。
代わりに少女は小さく頷き、母親の冷たい手を握った。




