6話 朝の選択
拓真は寝室でスーツに着替えていた。
鏡に映る自分の顔を一瞥し、ネクタイの歪みを直す。
いつも通りだ。特別なことは何もない。
リビングに行くと、すでに朝食の支度は整っていた。
智和と琴美がテーブルに座っている。
三人で食卓を囲んだが、会話はなかった。
箸の音と、食器が触れ合う小さな音だけが続く。
食事を終えたあと、智和が和室へ向かった。
琴美はそのまま何も言わず二階に上がった。
智和は、仏壇の前で、何やらごそごそと手を動かしている。
「……」
拓真が何も言わず父の背中を見ていると、
「琴美がな、作文を書いたんだ。
母さんに見せようと思ってな」
智和がぽつりと言った。
和室の仏壇の前には、琴美の書き下ろした作文の白い用紙が丁寧に置かれていた。
【将来の私 6年5組 岸津琴美】と題名が書いてあった。
その横には、古びた額縁。
今でも飾られている、拓真の大学合格証だった。
拓真が何気なくその合格証を見つめた。
智和はそれを見つめたまま、また、ぽつりと言った。
「これも、母さんに見せたかったな。
子供は、自分の達成した成果を親に認められたら、嬉しいものだ。
お前だってそうだったろう? 拓真」
拓真は何も返さなかった。
そのまま背を向け、玄関へ向かう。
靴を履きながら、ふと視線を上げる。
靴入れの上には、古い写真が置かれていた。
三十年ほど前のものだ。
拓真の高校の入学式のときの写真だ。
若い智和と、すでに亡くなった母、そして高校生になったばかりの拓真。
三人で笑って写っている。
しばらく拓真はその写真を見て考えた。
写真は昔からここに飾ってあったのに、高校に入学した日のことなど、とっくに忘れた。
だが、母が笑っていたことだけは、妙に鮮明に残っていた。
……何を馬鹿なことを。
そう思い、軽く頭を振る。
感情に引きずられる時間はない。
こんなものは、合理的な選択ではないはずなのだ……。
おもむろにスマートフォンを取り出し、連絡先を開いた。
今は、帝国製薬と外資大手金融機関の合併案件が最重要なんだ。
この達成なくして、僕の人生は進まない。
妻の理恵子の事も、娘の琴美の事も、それ以外のことは、全て後回しで良い。
きっといつか、皆、僕の判断が常に正しかった事を理解するはず……。
そうだ、そのはずだ。
それが、もっとも合理的で正しい選択なんだ。
指が止まったのは、部下の名前だった。
呼び出し音のあと、すぐに声が返ってくる。
「あ、はい。岸津マネージャーですか。
どうしました?」
「ああ、緑岡君か。突然で悪いんだが……」
(だから、こんな馬鹿げたことをしている暇は無い……)
理屈が引き留めようとする。
一拍置いて、拓真は続けた。
「今日の帝国製薬との会議、俺抜きで、一人で何とかできるか?」
「……は?」
電話口の向こうで、一瞬、時間が止まったようだった。




