5話 アルタ山:ココア
研究キャンプに着いたムースとビスクは、話し声が行き交う道を静かに歩く。
「頼みってのは、俺が指揮してるこの隊での鉱石の調査補助だ。 主にあのテントでやってる」
「お菓子は?」
「ココアぐらいならあるから勘弁しろ」
そうした何度したかも分からない応酬の後、二人は、キャンプの暖簾をくぐった。
中ではやはり何人かの白衣を着た研究員達が専用の道具で調査をしているようで、一人ちゃいろの外套を羽織るムースはそこにいるにはあまりにも異様な雰囲気を醸し出していた。
と、テントに入る寸前、ビスクは懐から眼鏡を取り出して、それをすっとかけた。
途端に、纏う空気が変わる。軽薄な笑みは消え、背筋は伸び、声色さえも一段落ち着いたものになった。
「今帰りました。 進捗はどうですか?」
机に齧りつくようにしていた研究員の一人が、弾かれたように顔を上げる。
「ビスキュイさん! いや、どうにも連結の構造が判明していなくて……」
「……硬さは炭素に類似しているんですよね?」
「でもこの硬度で変形しやすいなんて意味が分かりませんよ…!」
頭を抱える研究員に、あくまで穏やかに、ビスクは頷いて見せる。
そんな真面目な議論の横から、間延びした声が飛んできた。
「繊維状結晶じゃないの?」
見れば、いつのまにか机の上の鉱石をひょいと摘まみ上げて、明かりに透かしている少女がいた。
テント中の視線が、一斉にそこへ集まる。
ビスクだけが、その光景に一瞬目を見開いた後、口元を押さえて何かを考え込んだ。
「……! ああ、そうか。 シトラさん、一度その線で再度検証をお願いします」
「ああ、はい。 それで、そちらの方は?」
シトラと呼ばれた研究員が、鉱石を弄ぶ謎の少女を、遠慮がちに指し示す。
ビスクは咳払いを一つして、答えた。
「臨時の研究員です。 名前は……」
「トネラ・パスームです。 ビスキュイ・プレイズムさんの紹介で参加させていただきます」
紹介の言葉を遮って、少女は深々と、実に堂に入ったお辞儀をして見せた。まるで何十回とその名を名乗ってきたかのような、淀みのなさである。
「……だ、そうです」
「よ、よろしくお願いします。 トネラさん」
研究員達が仕事に戻った頃合いを見計らって、ビスクはムースの外套の襟を摘まみ、テントの隅へと引っ張っていった。
「なんで偽名使うんだよ。 しかも名前を逆読みにしただけだし」
眼鏡の奥から、押し殺した声が降ってくる。
ムースの方はというと、悪びれもせずに腕を組んで、ぷいとそっぽを向いた。
「アンタのことだから私のこと言いふらしてるでしょ」
「……そりゃそうだけど、自慢しかしてねーよ。 実際学院じゃ一番成績よかったろ」
「それが迷惑っていうか………ビスク、目下の人には礼儀正しいわけ?」
「んあ? 仕事上じゃ大体あんな感じだぞ?」
「ああいう紳士的な態度をいつもしてくれれば私も文句言わないんだけどね」
「なに、敬語にしてほしいのかね」
眼鏡を少し下げて、わざとらしく丁寧な声色を作るビスクに、ムースは心底嫌そうな顔をした。
「いや、もういい。 とりあえずああいうふうに補助してやってくれ。 三日間でいい」
「簡単に言わないでよ」
「お前なら簡単だろ?」
「………学院にいた時から、ずっと私に過大評価をするね、ビスクは」
「お前が過小評価すぎるんだよ、甘党」
そう言い残して、ビスクは研究員達の輪の中へと戻っていった。
こうして、臨時研究員トネラ・パスームの三日間が始まった。
初日から、彼女は静かにキャンプを騒がせた。研究員が三日かけて悩んだ検証を半日で片付け、山と積まれた鉱石の資料を鼻歌まじりに分類し……そのくせ、2時半になると何を言われようとも手を止めて、支給のココアを、それはもう大切そうに飲むのである。
(お菓子はないけど………まぁ、山の上で飲むココアってのも、悪くない)
天才とは変人の別名であるらしい、というのが、研究員達の密かな共通見解となるのに、さして時間はかからなかった。
◇◇◇◇
二日目の夜のことだった。
調査も一段落して、キャンプの喧騒が寝静まった頃、ムースは一人、広場から少し外れた岩の上に腰掛けていた。
山の空気は澄んでいて、見上げれば、星々が零れ落ちそうなほどに敷き詰められている。まるで、あの『星屑亭』の天井を、そのまま天球にまで引き伸ばしたかのようだった。
砂利を踏む音がして、彼女は視線だけをそちらに向けた。
「隣、いいか?」
眼鏡を外したビスクが、湯気の立つカップを二つ手にして、立っていた。
「ん…………まぁ、今ならいいよ」
ココアのカップを受け取ったのを了承の印として、ビスクは少し間隔を空けて、同じ岩に腰を下ろした。
「隕石の研究か?」
「いや、そう簡単に流星は落ちないよ。 ただ見てるだけ」
「へぇ、お菓子以外どうでもいいのかと思ってた」
ムースが無言でじっとりと睨むと、ビスクは首をすくめた。
「冗談冗談。 俺じゃ敵わねえよ」
しばらく、二人はただ黙って空を見ていた。
夜風が草を撫でる音だけが、間を埋めていく。
やがて、ぽつりと、ムースの方から口を開いた。
「……お菓子を知ってから、世界が少しだけ広がったんだよ。 素晴らしいお菓子という存在があって、それを作るためには、森羅万象がなければならない。 そう思うと、この夜空も悪くない」
それは、いつもの減らず口とは違う、独り言に近い声だった。
ビスクは、その横顔を見て、それから少し笑った。
「学院にいた頃からその甘党も変わらないな」
カップの中で、ココアが小さく揺れる。
「……前にも、こういう夜空を見たよな。 お前と俺と、アッシュとケイクのいつもの四人で」
「アンタはモテたから、ストーカーが三人くらいついてきてた」
「なんだ、覚えててくれたんだな」
嬉しそうに、ビスクはこちらに顔を向けた。
そのまま、するりと手が、ムースの顎の下を支える。
星明かりの下、その距離が、ほんの少しだけ近い。
ムースはカップから口を離して、じとりとした半眼を返した。
「……キスでもする気? 青春は終わったよ?」
「あ''〜……惚れた腫れたって訳じゃないんだが、今の俺が、お前にはどう見えてるのか、気になってる」
茶化すでもなく、ビスクは頭を掻きながら、視線を星空へと逃がす。
その声には、彼らしくもない、探るような色があった。
「ずっと変わらないよ。 私の甘美なる時間を邪魔する悪魔だよ、アンタは」
「……俺も変わらない。 お前は、お菓子好きの変人で………」
言葉は、そこで途切れた。
続きは声にならないままに、夜の空気に溶けていく。
「なに?」
夜空を見上げたまま、ビスクは、長い息を吐いた。
「いやあ、なんでも、悪いな」
それは謝罪というよりも、何かを畳んで仕舞い込むような、そんな響きだった。
岩から立ち上がったムースは、外套の砂を払って、それでも、去り際に一つだけ付け足した。
「私も暇じゃないけど、たまにアンタの話を聞いてやれるくらいのことはするから」
「……夜にか?」
「そうだね。 昼でも、朝でもいい。 けれど、昼と夜のその狭間には、どうか入り込まないでほしい」
小さくなっていく背中を見送って、一人残されたビスクは、空になった二つのカップを眺めた後、頭を抱えて岩の上に倒れ込んだ。
「……………女相手にダッセェなぁ……………」
満天の星だけが、その呟きを聞いていた。
◇◇◇◇
三日目の夕暮れ。
約束の調査補助を終えたムースは、テントの前で、最後のココアを飲み干していた。
研究員達からの惜しみない賞賛と引き留めをのらりくらりと躱していると、いつのまにか隣に、眼鏡を外したビスクが立っていた。
「よう、美味かったか?」
「うん」
空のカップを返すと、ビスクはそれを受け取って、いつもの軽薄な笑みを浮かべた。
もう、昨夜の夜空の色は、その顔のどこにも残っていない。
「俺以外の他の奴らにも、さ、会ってやってくれよ」
ムースは外套を翻して、山を下る道へと足を向けた。
「そこにお菓子があるなら、ね」
振り返らないままのその答えに、ビスクは肩を揺らして笑った。
夕日が、山道を橙に染める。
錬金術師の少女は、約束された『優良な喫茶店の情報』を懐に、また歩き出す。
どこかの茂みから、大鍋の尻尾がひょこりと現れて、その後を健気について行った。




