<19>
叫び声を聞いたと電話で言っていたが、宗二郎が走る周辺には何も聞こえてこない。
驚くほどしんと静まりかえり、本当に異形が居るのかどうかも疑わしく思えた。
もし――本当に異形が居るのならば、細心の注意を払わねばならない。宗二郎は頭の中で何度も自分に対して『警戒』を促す。
先ほど記憶し、鮮明に思い出せる地図の形状。
「第一、第二……第三控え室……会議室」
だだっ広い廊下はゆるやかに湾曲していて、客席と同じ形状に合わせて作られているのだろう。
扉に記されている文字を言葉にして読みながら、頭の中にある地図と符合させてゆく。
このまま、廊下を真っ直ぐ。そして右に通路があるはず。そこが……機械室だ。
――無事でいて欲しい気持ちが半分。
――そして異形と出遭いませんようにと、願う気持ちが半分。
「…………………………ク」
奥歯を噛んで、膨張した恐怖を押し込む。
湾曲した通路が、急激に異常と変わり、全身に鳥肌が立った。
廊下の地面が大きくひび割れ、天井に等間隔で設置されていた蛍光灯は壊れ、薄い闇が宗二郎を迎え入れた。非常口を指し示す表示板の明かりと、崩れた天井から垂れ下がった蛍光灯が明滅して、不気味な空間を作りあげている。
まだ新しさのある埃臭さと、目に見えない粉塵であろう浮遊物が、鼻をくすぐる。
一瞬だけ戸惑い、立ち止まった宗二郎であったが、石蕗祈理がこの先に居ると考えれば、足は自然と前に出ていた。
壁も崩れ、中から配管らしきものが上下に伸び、壁の中にある闇は、今にも中から得体の知れない手が伸びてきそうな雰囲気を漂わす。
瓦礫に足を捕らわれぬよう、宗二郎はゆっくり、ゆっくりと……。
道中、いくつかの部屋が薙がれたように全壊し、いくつ部屋があったのか判らない状態になっていた。
間違いなく――建物のどこかにいる。
心臓が驚くほど鳴り響き、胸の裏側を叩いていた。
壁に手を触れながら、ようやく目的の曲がり角。
その曲がり角を曲がった瞬間、
「…………………………ヒ」
宗二郎の呼吸が――止まった。
――始めに赤い、二つの光があった。
非常警報のランプだと思ったが、そのランプは――限りなく天井近くにあった。
微動だにしない。不意に蛍光灯が息を吹き返し、白い光が闇を照らす。
二つの赤は目玉。あまりにも大きく。規格外の骨格を持ち。
そして甚だ正常な世界に住まうものとは掛け離れた、異質そのものだった。
太い両腕を地面に垂らし、短い足で地面を踏み締める。
ゴリラに似ている体勢であるが、体毛はなく、黒と灰色の斑模様の皮膚の下には、目に見えて太い筋繊維の集まり。
いかんせんその体格の大きさたるや。この世のものではない。
「――――フグゥルルルルル」
洞穴が唸り声をあげるかのような、重い喉の鳴り。
「…………………………ハ」
全身が硬直した。粘土よりも固く。関節が石膏になってしまった気分だ。
身体が動かない。恐怖から来るものとは別。
あまりにも巨大な命との対峙に圧倒されているのか。
――――これが『異形の者たち』人類が討ち滅ぼすべき敵。
異形はこちらの身構えが出来るまで待ってくれるはずもなく。
太い脚を踏み出すのを皮切りに、しゃにむに走り出し、腕を降り上げる。
ただでさえ、身長が天井に届きそうな怪物。
規格外の太腕は、楽々と天井を削り取り。
射程距離が十分と判るや否や、一気に振り落としてきた。
「…………ぅぬ、ぁ!?」
悲鳴すら上げられない。強張った全身。肺から絞り出された空気が奇妙な声として出た。
――あ、やばい。死ぬかもしれない。
頭の中で考えていることと、いま動かなくてはならない思考は別の場所にある。
それぞれが焦りと冷静さを保ち、両者は対極でありながら揺らぎはなく。
――強く願う先は生き抜くこと。
分かたれている感情は根底では既決していて、その一つだけに意識は牢乎していた。
落とされる腕。迫る。来る。死が。来る!
身体に接触する前から、押し退けられ来る風圧。――宗二郎の身体を押し込もうとする。
濃厚な絶望の気配。脳が『反応しろ』と叫ぶ。手足の末端へと信号を送る。
思考する間もない……とにかくどこでもいい、うごけッ!
宗二郎が起こした行動は、できうる限りの動作から行われた後方へのジャンプ。受け身も取れないまま全身が地面に叩き付けられる。衝撃で頬骨を打つか打たないかのタイミングで、宗二郎が居た場所の地面が弾けた。
砂煙と床材の破片が、間近で倒れている宗二郎へと降り被さった。
顔面に受けた衝撃が、視界を歪ませる。
次が来る――気配を察する能力があるわけでもなく、未来を予知したのでもない。一撃が仕損じれば、追撃の可能性がある。そして次来るとすればその無防備な背中に向かって叩き付けてくる。
擦りむいた頬の痛みを感じる余裕すらなく、宗二郎は手足を動かして身を翻し、来た道に向かって走り出した。
直後に背中に感じた風は、彼の本能が幸をそうした結果であったのか、はたまた恐怖によって背中に錯覚を受けたのかは定かではない。
とにかく判っているのは、即死を予感した初撃を回避できた事実であり、まだ自分は考えられる頭と、ようやく顔面を擦りむいた痛覚と、生きて走れる足。――それと馬鹿みたいに鐘打って働く心臓が、生きている自分を認識させた。
脱兎の如く逃げ、宗二郎は角を曲がり、近くにあった、崩れた部屋の一画、瓦礫との隙間に滑り込む。
――ズンズン、と体重に相応した足音。うつ伏せになった全身に重みの微震が伝わってくる。そのたびに宗二郎の背筋からぞりぞりと這い上がる恐怖の寒気が、正気を削った。
やがて目標を失った異形は足音を遠くさせ、そのまま過ぎ去ってしまった。
ようやく生き残れた実感を得た宗二郎は、深い息を吐いて、地面に額をつけた。
拳を強く握った状態で、自分が泣いていることに気がついた。
「……………………ハハ。……すげえ。この何もできない感。――何年ぶりかね」
絶対の避けられない死を、宗二郎は体験していた。もう一つのパンドラクライシス、昼と夜が反転した街で。大火に包まれた場所で。彼は異形によって殺されかけた。
――何度も思い返したが、思い出せない。あのとき助けてくれたのは誰だったか……。まあいい。感傷的な感謝は今いらない。あの時は誰かが自分を助けてくれた素晴らしき幸運があった。でも人生において偶然であれ必然であれ、同じ幸運が二度拾えるとは限らない。
「ずっと長い間、確かに憶えている記憶だが、死ぬかもしれない感覚ってのは、……いつだって嫌なもんだなぁ。絶対に慣れねえよ」
目と鼻の先に異形が居るのに、宗二郎はいたく冷静になっていた。感情の波がいま、彼の神経を麻痺させていたのだ。
いや……言葉に出して冷静な発言をしている自体が、冷静ではない証明であった。
今更になって頬が痛くなって、手の平で拭ってみると、微々たる血が出ている程度だった。こんなものは、傷の内にすら入らない。
「戦えるか? いや……だめだ。丸腰じゃ無理だ。死ぬ。あんな一発、もういっかい躱せる技術はない。刻印は使えん。どうする。どうやって――あの異形を倒す?」
ことの事情を把握しているにもかかわらず、逃げる選択肢が頭になかった。
できうる限りの思考を総動員させ、異形を撃破する算段を立てる。相手は人外の魔物。無策は自らの生命を絶つに同じ。苦肉の選択は死期を早める。頭ですら納得出来ない案など価値は無い。
考えろ――考えろ。俺にできること。
一番良いとされる方法。あのバケモノを確実に倒せる手段。
あの時は何も知らなかった。怪物と戦う覚悟なんて欠片ほどにも持っていなかった。
きっと有るはずだ。救われた命は、生き残った時間のぶんだけ、戦う覚悟と強くなることに心血を注いできた。何もしてこなかったわけではない。全てはこの瞬間のために、あの時拾った命を……ここで価値ある物と証明してみせるチャンスだった。
刻印で削れる正確さならば、散々鍛えてきた……学校じゃ学べないから、不正だと判っていても学校の外で刻印の精度を上げるため訓練してきたのだ。このためにオレは、自分にできる技術を磨いてきたのだから。
頭で完璧を描けても、この手先で作れる姿は三流以下。
しかし――この刻印は、俺の中にある完璧を、限りなくそのままの形で現実のものとできる。
異形に打ち勝てるだけのカードはいくつかある。でも打ち勝つには決定的に足りない物がある。
己が自身の脆弱を弁えている。このままでは玉砕するだけの犬死にになると心得ていた。
俺は戦う道具だ。道具は自ら戦えない。振るう力が――共に戦ってくれる意志が必要だ。
「――そうだ。あのひと」
宗二郎はすぐに、連想した相手の姿が思い浮かんだ。
この道具を十全に扱える使用者。
「先輩ならば…………俺を動かせる」
自然と笑みがこぼれる。この混乱した中で、きっと笑っているのは俺だけだろう。
恐怖の涙と、勝利に収められるかもしれない震え。
どうしようもないくらい――いま、俺は高揚していた。




