魔女、少年の名を呼ぶ。
「お前、あそこにいた奴だよな!?」
突然バッと立ち上がった彼は、ノアに一歩近付く。
一方ノアは、小さく首を傾げた。
「俺だよ、俺!同じ軍にいた……あー、俺ら名前ねーからな。でも、ほら顔は覚えてるだろ!?同じ奴隷仲間じゃねーかよ!」
そう言った瞬間、周りの視線が集まる。
まずい、と思った夜永はノアの手を掴む。
「ノア、行くわよ」
「……ノア?」
奴隷の子供が目を見開く。
どういうことだ、まさか別人かと、疑問が顔いっぱいに広がっている。
「貴方も、早く。話なら向こうで聞くから」
知った顔に会ったからだろう、警戒しながらも後をついて来た。
そうして、裏路地へと入り込んだ夜永は、ここまで来れば大丈夫だろうと奴隷の子供に向き直る。
その子供は、信じられないと言った顔でノアの肩を乱暴に掴んだ。
その拍子にフードがずり落ち、ノアの素顔が露わになる。
「!やっぱお前だろ!?何で知らねーふり……」
声が途切れた。
ノアを凝視している。正確には、首輪の嵌っていない首元を。
ノアを知っているらしい彼からすれば衝撃だろう。
通常、奴隷から解放される事はなく、首輪を外す事は永劫不可能なのだから。
「お、前……っどうやって首輪外した!?それに……」
あまりの出来事に、よろよろと数歩後退した彼はノアの出で立ちを見て呆然とした。
首輪がない。まともな服を着ている。
身体が清潔。食事も与えられているらしい。
その腕には、丁寧に包まれた一冊の本まで抱えられていて。
そして、名前まで持っている。
「んだよ、その格好……名前まで……」
自分たちが奴隷だった頃には、もらえなかったもの。
今の二人の境遇には、あまりにも大きな隔たりがあった。
「ノア、知り合いではないの?」
「……知らない」
先程から考えていたのだろう。夜永が問いかけるも、ノアは本当に覚えていないようだ。
それを聞いた彼は、徐々に表情を変化させて行く。
困惑、絶望、そして憤怒……顔を歪めて、力の限り叫んだ。
「同じ奴隷だったはずなのに……なんで、なんでお前みたいな奴が幸せになってるんだよ!!」
彼はノアとは違い、自身の不遇を呪い、軍への憎悪と死への恐怖に毎夜泣いていた。
全てに怯え、尊厳すら奪われる苦痛に苛まれてきた彼にとって、自由の身となり、一目見て豊かな生活をしていると分かるノアの存在は許しがたく、激しい憎悪の対象だった。
「俺たちがどれだけ苦しんでるか、お前は知りもしない癖に! 感情のない人形の癖に、全部手に入れやがって…っ!」
彼は涙と鼻水に塗れ、ドロドロとした怨嗟の声を吐き出す。
「ずるい。ずるいずるいずるい……っ! なんでお前だけ!なんで、なんでだよっ!!なんでっーー」
「貴方、ノアを下に見ているのね」
聞くに耐えない叫び声に、夜永は眉をひそめ、極めて冷徹に口を挟む。
狂ったように髪を掻きむしっていた彼の声がピタリと止んだ。まるで、図星をつかれたかのように。
彼は確かに、奴隷時代からノアを下に思っていた。だが、ここにきて自分の中で保っていた序列がひっくり返り怒ったのだ。
彼を見る夜永の瞳は至極冷たい。
ノアを侮辱し、あまつさえ、何も悪くない本人にそれを聞かせた。許しがたい行為だ。
「不幸を不幸と自認出来ている。貴方、それだけで幸せではないの?この子はね、自我を持たず、不幸を不幸と認識出来ず、ただ搾取され続けるだけの人生だった。そんなもの、死んでいるのと同じだわ」
「ハッ!何も感じないならそんな楽な生き方ねーよ」
「何も感じない?何を言っているのかしら」
どうやら、夜永と彼の間には決して覆らない認識の違いがあるようだ。
ノアは、痛みを感じなかったのではない。
苦しくなかったのでもない。
ただ、それを「苦しい」と理解する術すら与えられていなかった。
「俺だって死にたいくらい苦しいんだよ…!!」
「……それを否定する気は毛頭ないわ。だけど、ならどうして貴方は生きているの?」
「……え、」
「だってそうでしょう?生きるのが苦しい、死にたいと宣いながら、他者にその苦しみをぶつけている。貴方、死ぬのが怖いのでしょう?だから生きている。それでいいじゃない。だって貴方には、生きたいと縋るだけの自我があるのだもの」
ノアに聞かせることではないが、夜永は気にせず淡々と言葉を続ける。
傍らで、ノアはただ黙って二人のやり取りを見つめていた。
「境遇には大いに同情するわ。けれど、それがこの子を傷付けていい理由になるの?自分が人として扱われないことには憤るのに、貴方もこの子を人形と呼んで下に見ている。……根っからの奴隷根性ね」
唇を強く噛み締めるその彼は、小さく項垂れた。
ポツリと、小さく呟く。
「俺だってこんなとこ、いたくねーよ。でも、誰も助けてなんてくれねー。じゃあ、どうすりゃ良かったんだよ……」
ここで、初めて夜永は言葉に詰まった。彼女自身、彼らの存在がこの国では当たり前だったから、気にしていなかったのだ。
きっと、ノアがいなければ気付けなかった。
重い空気を残したまま、夜永とノアは帰路につく。
道中、夜永はずっと黙って考えていた。
この国における奴隷という存在を。その向こう側に、一人の人間がいるということを。
「夜永。僕は、不幸だったの?」
「……そうね。少なくとも私は、そう思っているわ」
「そうなんだ…」
ノアはまた、黙ってしまった。
夜永同様に物思いにふけっていたようだ。
そして、不意に顔を上げる。
「僕の名前、ノアなんだよね?」
「……ええ、そうね?」
「僕、これからもノアでいい?」
「もちろんよ」
ノアは、ギュッと本を抱え直した。




