魔女、少年に文字を教える。
一月が経った。
ウィンターから音沙汰はない。元々、定期的に連絡を取り合う仲でもなかったため、彼の安否に関して心配は微塵もしていないが。
国内にも特段、目立った動きはなく、軍が秘密裏に動いているだけかもしれないが、今のところは平穏無事に過ごせている。
ノアは、読み書きの練習を始めた。
教えるのはドミニアの公用語だ。
会話は問題なくできるため、まずは日常のあらゆるものを文字に起こしてみせる。
「これが水、これが火、これが森、これが家…」
一つ一つ、実際の物を見せながら書いた文字を指さしていく。
物と文字との結び付きを記憶すれば、おのずと理解できるようになるだろう。
そしてノア、恐ろしく飲み込みが早かった。
軍に従事していた頃は文字の読み書きなどできずとも口頭で十分。
あの戦闘技術だ。教えられたことを忠実に実行し吸収してきた子だろうから、頭は悪くない。
それどころか、元々学習能力は高いのだろう。
その上勤勉だ。夜永が止めなければ、食事も睡眠も忘れて一日中没頭している。
おかげで、日常で使う簡単な単語程度は読めるようになったし、一度教えた文字を自分で組み合わせて、教えていない単語まで読もうとする。
実に優秀で、教え甲斐のある生徒だ。
(この調子で覚えていけば、本を読めるようになるまでそう遠くないかしらね)
一段階ステップアップしてもいいかもしれない。
そう思った夜永は、本棚から適当に一冊手に取り、ノアに渡す。
タイトルは問題なく読めた。
問題はここからだった。
本を開き、パラパラと数ページめくったノアは、困ったように顔を上げる。
「夜永、分からない」
「どれ?」
どこが分からないのかとよくよく聞いてみると、文字自体は問題なく読めている。
肝心なのは、書かれている内容だった。
歴史、薬学、魔法理論、外国語学……と、夜永の読む本はどれも専門書ばかりだ。
中には、ドミニアの公用語以外の言語で記されたものもある。
この家にある本は、何百年と生きている彼女が集めたもの。
当然、世俗に疎いノアが理解できるわけもなく、新たな壁にぶつかった。
ノアでも理解できる本を調達してこなければ。
この家にある本は難しすぎる。
夜永は、生きてきた時間の違いを初めて目の当たりにした気分だった。
*****
急遽、森を抜け街に出た。
以前ノアと来たことがある商業都市・ノアールだ。
ノアの安全もあるが、好奇心に蓋をしたくはない。
本人もやる気になっているため、我慢を強いるのは酷だ。
幸い、国の情勢は変化がないし、表立って軍が動いている気配もない。
一月経ったのだ、外に出るにも頃合いだろう。
しっかりフードを被り、街に繰り出した二人。
この街で一番大きな本屋に入ると、紙特有の香りがした。
この独特な香りが夜永は嫌いではなかった。
書庫のような、所狭しと本が並べられた空間に戸惑うノアは、キョロキョロと辺りを見回している。
ノアの視線が一瞬止まった。それを察した夜永が、ノアが目を留めた本棚の一角へと連れていく。
そこは、児童書のコーナーだった。
タイトルで内容が見て取れる子供向けの本で、背表紙を見たノアは興味を惹かれたのだろう。
「この中から好きな本を選びなさい。ただし、挿絵がある本だけね」
児童書にも、読む年齢層によって色々と種類がある。
絵本では文字の勉強にはならないため、夜永は文章主体の本に限定した。
すると、ノアが首を傾げて夜永を見る。困った時の癖だ。
どれを選んだらいいか分からない、と言う目で夜永に訴えてくる。
「どれでも良いのよ。表紙でも題名でも、気になったものがあれば何でも良いの。とりあえず一冊手に取って見てご覧なさい」
言われた通り、ノアは本棚に向き直り、目についた本を手当たり次第に引っ張り出してページを覗く。
それを幾度か繰り返して、また困ったように夜永を見てきた。
ノアにとって、文字の勉強は覚えてしまいさえすれば容易に習得できるもの。そこに答えがあると初めから分かっているからだ。
だが、ノア自身の選択に答えはない。夜永に何でも良いと言われたのだ、当然正解もない。
本を選ぶだけでもノアにとっては未知の事なのだろう。
夜永は、適当な3冊を手に取り、ノアに渡す。
「この中から好きな本を選びなさい。直感でも何でも良いのよ」
先程の本の山から探すよりも限定的で選びやすい。
結局、夜永は選択肢を与えた。
ノアはしばらく本の表紙を見比べていたが、遂に一冊の本を選んだ。
仲間を増やしながら、世界を自由に旅する勇者の冒険譚だ。
どこに惹かれたかは分からない。
タイトルかもしれない。表紙イラストかもしれない。あらすじかもしれない。
だが、いずれにしろノアが自分で選択した事に意味がある。
夜永は口元を緩め、ノアの頭を撫でると会計に向かう。
包んでもらった本をノアに手渡すと、両腕で大事そうに抱えた。
用事は終えた。
全面的に安全とは言い難いため、早いところ街を出る事にして店を出た2人は、家路を急ぐ。
その道中で、ノアがピタリと立ち止まった。
どうしたのかとノアを振り返ると、ただ一点を見て佇んでいた。
視線の先を追うと、ノアと同じくらいの歳だろうか。ボロ切れ一枚の奴隷の子供が同じ年代の子供達から石を投げられていた。
街の者も気にするどころか目を向けない。これが日常の光景だからだ。
ただ一人、ノアだけは違った。
「気になるの?」
「……ううん」
夜永の問いかけに、首を横に振り否定しながらも、視線は奴隷の子供に向けられたまま。
言葉と行動が一致していない。気になるのだろう。
ふっと息をついた夜永は、奴隷の元へと歩いて行く。
「貴方達、もう夕刻よ。子供はさっさとお家に帰りなさい」
「あ!いっけねー!ねーちゃん、ありがとー」
特に街の子供達を諌めるでもなく、ごく自然に声をかけて家に返した。
ここで揉め事を起こすのは得策ではない。そう思ったからだ。
「立てるかしら?」
夜永が手を差し出すと、奴隷の子供はキッと警戒心に溢れた目で睨んでくる。
「触んな!……奴隷なんか助けてどうすんだよ」
「別に。貴方が立てないなら手を貸そうかと思っただけよ」
依然警戒を緩めない奴隷の子供は、苛立ったように身を乗り出す。
その瞬間、ノアが守るように夜永の前に立った。
「な、何だよ…」
無言で圧力をかけるノアに怯んだ様子を見せていたが、その後ノアの顔を数秒ほど見つめ、驚いたように表情を変化させた。
「その目…。お前、もしかして…」
下からノアを見上げていたからだろう、フードの中を覗き込み、何かに気付いたようだった。




