第3話 「鳥かご」と「ゆりかご」
惑星イデアにおいて、青い空を見上げて呼吸ができる土地は、いまや世界のほんの一握りにすぎない。
かつて大陸全土に張り巡らされていた巨大な都市群や交通網は、ギャラスと呼ばれる災厄の奔流によって悉く踏み荒らされ、地表の八割以上は人類にとって生存不可能な絶対の死地へと変貌した。かつてのように、果てしない地平線のすべてを人類の文明が埋め尽くす時代は、とうの昔に終わりを迎えている。
現在、この星に生き残った人々は、「コロニー」と呼ばれる独立した巨大なドーム状の閉鎖居住区に身を寄せ合い、息を潜めるようにして生活していた。
だが、それは決して原始的な、あるいは絶望に満ちた避難所というわけではない。
外壁の一歩外には異形が蠢く地獄が広がっているものの、コロニーの内部に足を踏み入れれば、そこには驚くほどに高度な文明の利器が溢れ返っている。高層ビルが立ち並び、ホログラムの看板が夜の街を彩り、リニアレールが空中を滑るように走る。人類がまだ滅び去ってはいないという力強い証明が、そこには確かに存在していた。
一つのコロニーに身を置く人口は、おおむね十万から二十万人。
この星の全盛期から見れば些細な数字だが、限られた資源と環境維持システムで一人の人間が人間らしく生きていくには、それが最適かつ限界の規模であった。
そして、この脆くも美しい秩序を維持するために、各コロニーには必ず防衛の要──「ガリア」が配置される。
コロニー周辺を徘徊し、人々の生存を脅かすギャラスの群れを討伐し、文字通り人々の盾となること。それこそが、戦士たちに課せられた絶対の義務であった。
地上のコロニーが「人類の生存圏」であるならば、その真下──果てしない暗黒の地下世界は、盾を生み出すための「ゆりかご」だった。
各コロニーの地下深くには、地上からは決して見えない巨大な空洞が存在する。それこそが、ガリアとなる前の幼きパトゥアたちが育てられる、白銀機関の支部であった。
地下施設と一言で表すには、その規模はあまりにも規格外だ。数千人のパトゥアたちが日々訓練を行い、食事を摂り、睡眠を迎えるのに一切の不自由を感じさせないほどの広大な無機質の街。
陽の光さえ届かないその純白のゆりかごの中で、子供たちは寝ても覚めても、ただ戦うこと、殺すこと、そして生き残ることだけを徹底的に叩き込まれる。
クラナダが所属する「白銀機関第81支部」もまた、地上にあるコロニー81の直下に築かれた、巨大な地下要塞の一つであった。
幼いパトゥアたちにとって、地下での生活は義務であり、世界のすべてだ。それゆえに、厳しい洗礼を勝ち抜き、見事「ガリア」へと昇格した者だけに許される地上の権利──コロニーでの生活は、彼らにとって数少ない、しかし何よりも眩しい希望の光であった。
厳格な教官たちの前でそれを口にすることは決して許されない。しかし、いつかあの天井の向こうにある本物の空の下で、普通の人間として街を歩くのだという憧れは、過酷な訓練で摩耗していく少年少女たちの心を辛うじて繋ぎ止める、密やかな楽しみとなっていた。
人類のため、コロニーのため、そしてコロニーを束ねる人類の首脳の連合「総督府」のため。命を捧げる対価として、ガリアたちは豊かな富と人々からの賞賛が約束されるのだ。
──もっとも、それも「一部の例外」を除いて、の話ではあるのだが。
──あ、ああ、ぁあ、あああぁぁああっ!!
鼓膜を容赦なく引き裂くような、獣じみた苦しいうめき声が、純白の空間に響き渡っていた。
私の目の前で、一人のガリアが狂い悶えている。
かつては人々の盾として戦い、称賛を浴びていたはずのその戦士は、いまや見る影もなく無惨に破壊されていた。片足は付け根の近くから肉を引き千切られたように失われ、全身の皮膚は凄絶な火傷によってグズグズに焼け爛れている。原型を留めていない顔面の、どこに眼があり、どこに唇があるのかすら判別できない。それでも、その輪郭のすべてが筆舌に尽くしがたい苦悶に満ちていることだけは、嫌というほど分かった。
「殺せ……ッ、頼む、殺してくれぇぇぇ……ッ!!」
血を吐き出すような、苦しみの中で掠れた声が、四方の壁にぶつかって反響する。彼は生き地獄の底から、ただひたすらに自らの死を懇願していた。
私はそれをただ、見つめていることしかできなかった。
指先一つ動かせない。声をかけることも、その願いを叶えるためにネイズを抜くこともできない。あまりの恐怖とおぞましさに全身の筋肉が硬直している。なのに──どうしてなのか、目だけは、その凄惨な光景からどうしても離すことができなかった。
不意に、爛れた顔の奥にある漆黒の穴が、真っ直ぐに私を捉えた。
ガリアは、呪いを吐き出すように私に向けて語りかけてきた。
「お前も……お前も、いつかこうなるんだ……ッ!!」
肉の焼けるような臭いが鼻腔を突く。
「俺のように……すべてを失って………世界を呪って死ぬんだ……ガリアの……戦士の末路なんて……全部これなんだよぉぉぉおおおっ!!」
私は喉の奥で、ひりつく唾を辛うじて飲み込んだ。
胸が激しく上下し、息が異常なほど荒くなっていく。耳の奥で、自分の心臓が早鐘のように鳴り響く音がうるさい。
救いも、名誉も、未来もない。ただただ、おぞましい「戦いの末路」だけが、網膜の裏へと容赦なく刻み込まれていった──
「──っ!!」
視界に飛び込んできたのは、見慣れた自室の、飾り気のない白い天井だった。今はすべての照明が落とされているため、外界の僅かな光を拾った薄暗いグラデーションが天井を覆っている。
「夢………………」
小さく声を漏らし、私は深く、深く胸の空気を吐き出した。
同時に、自分の背中やシーツを握り締めていた両手が、冷たい汗でぐっしょりと濡れていることに気が付く。ドクドクと不快な音を立てていた心臓が、現実の平穏を認識するにつれて、少しずつ、元の規則正しいリズムへと落ち着きを取り戻していく。
「はぁ……」
サイドテーブルの端末に視線をやり、現在の時刻を確認する。
表示されていたのは、まだ朝の午前四時。パトゥアたちに義務付けられている起床時間までは、あと二時間も残されている。
横たわったまま数秒ほど目を閉じてみたけど、脳の芯が妙に冴え渡ってしまい、もう二度と眠りに落ちそうになかった。あの悪夢の残滓が、まだ脳裏のすぐ近くで蠢いているのを感じる。
私は小さく息を吐いてベッドから静かに下りると、べたついた身体を洗い流すために、暗闇の中をシャワールームへと足を運んだ。
温かいシャワーが、肌に残った不快な寝汗を容赦なく洗い流していく。
タイルの床へと落ちていく水音だけが、狭い空間に反響していた。私は壁に両手を突き、ただ機械的に頭頂部から不純物を削ぎ落とすように、水流に身を委ねていた。
…………あと、数ヶ月。
カグツチ教官を専任に迎えたこの特別カリキュラムが終了すれば、私はすべての教育課程を終え、いよいよ実戦の舞台へと投入されることになる。
白銀機関のデータによれば、初陣のガリアが命を落とす確率は、決して低くない。どれほど模擬戦闘で優秀な成績を収めた者であっても、本物の戦場に出た途端、あっけなく肉塊へと変えられるケースが後を絶たない。訓練と実戦の境界には、それほどまでに深い、決定的な断絶があるらしい。
私にはまだ、それが分からない。
本当の実戦を経験していない私は、敗北がすなわち惨たらしい「死」へと直結する、あの血の争いの本質を知らない。
一体、本物の戦場とはどんなものなのだろうか。
「次世代のカグツチ」「第81支部の最高傑作」──私はそう教官たちに言われ、お仕着せの期待を背負わされて育ってきた。しかし、その比較対象であるはずのカグツチ教官自身、いまはもう、まともに戦うことすらできない身体になってしまっている。かつてこの星の頂点に君臨した、あの生ける「伝説」が。
……いや。それでも、あの人は死ななかっただけ、幸運だったのかもしれない。
ガリアの死は、決して穏やかなものではない。たとえ「戦場で勇敢に戦い抜き、人類の礎となった」と残された仲間たちに美談として語り継がれようとも、その裏側にあるのは、夢に見たあの姿。異形に肉を貪られ、五体を損ない、苦しみに悶えながら孤独に朽ちていく──それこそが、戦士に約束された現実の終わりではないのか。
パトゥアたちの中には、ガリアへの昇格を心待ちにしている者も少なくない。生まれてからずっと続いてきた、陽の光も届かない地下の訓練生活が、あと少しで終わるのだから。
けれど、私にはどうしても理解できなかった。
地上にあるコロニーに上がったところで、結局はここ、地下のシェルターと何が違うというのだろう。
確かに巨大な透明のバリアが居住区を守り、その向こうには本物の空が見えるという。しかし、それはただ「見えるだけ」だ。一歩でも外へ出ればギャラスの餌食となり、人間としての形を保って生きることすら許されない。結局のところ、人類は生涯をあのドームの中で過ごし、外の世界を知らないまま死んでいく。
鳥かごのサイズが少し大きくなったからといって、それが何だというのか。そこでどう生き延びたところで、それは不自由を、都合のいい欺瞞で誤魔化しているに過ぎないんじゃないか。
この世界に、本当に希望などあるのだろうか。
この歪んだ星はいつか、災厄が訪れる前──三百年前のかつての姿を取り戻せるのだろうか。
私が生きている間に、教科書のデータでしか見たことのない、果てしのない本物の「イデア」を目にする日は、訪れるのだろうか。
「…………」
ふと、視線を足元に落とす。
排水口へと吸い込まれていくシャワーの水溜りが、照明の加減か、あるいは網膜に焼き付いた悪夢のせいか、ひどく濁った赤黒い色に見えた。
それはまるで、私の身体から流れ出た、大量の血のようだった。
パトゥアたちに義務付けられた起床時間を告げるアラームが鳴り響き、白銀機関第81支部が静かに覚醒を始める。
クラナダは普段通り、汚れ一つない純白の制服に身を包み、寸分の乱れもない足取りで朝の食堂へと向かった。広い食堂内には、すでに多くのパトゥアたちが並んで配膳を受け取り、規則正しく席を埋めている。
クラナダもまた、栄養バランスが完全に管理された簡素な朝食のプレートを受け取ると、壁際の静かな席に腰を下ろした。箸を手に取り、静かに食事を口へと運び始める。
──その時だった。
「おはよ。ここ、隣いいかな?」
不意に、上頭部から緊張感のない、聞き馴染んだ声が降ってきた。
視線を上げると、そこには手元に自分のプレートを持ったカグツチが立っていた。彼のトレイに乗せられているのは、朝食にしてはやたらと脂っこく、エネルギッシュな肉料理の数々だ。朝の胃袋には少々容赦のないメニューを前に、彼はどこか嬉しそうな顔をしている。
「……おはようございます、教官。どうぞ、お座りください」
クラナダが至極平坦なトーンで承諾すると、カグツチは「ありがと」と気楽に微笑み、彼女の隣の席へ滑り込むように腰を下ろした。そして、早速箸を動かそうとした手をふと止め、じっとクラナダの横顔を見つめた。
「んー……クラナダ、もしかして、あんまりよく眠れなかった?」
その言葉に、クラナダの美しい眉が僅かにピクリと動いた。
「顔色、ちょっと陰りが見えるよ。あんまりコンディションが良くないんじゃない?」
覗き込むような黒い瞳。昨夜の悪夢の残滓を、まるで見透かされているかのような錯覚に陥り、クラナダは僅かに胸の奥をざわつかせた。しかし、模範的な優等生としての仮面は決して崩さない。彼女は小さくかぶりを振ると、冷徹な声で応じた。
「いいえ。日々の体調管理は厳格に行っております。常に最善のパフォーマンスを発揮できるよう精神を整えること、それが──」
「──パトゥアたる者の務めです、かな?」
カグツチは、クラナダの言葉をまるで先読みするように、悪戯っぽく遮った。
言葉を奪われたクラナダが小さく唇を引き結ぶと、カグツチは手元のご飯を一口運び、咀嚼しながら言葉を続けた。
「だとしたらさ、自分が受け持つパトゥアの状況を、些細な変化も含めて正確に把握するのが、教官たる僕の務めじゃないかな?」
「…………」
正論だった。だが、それゆえにクラナダは何も言い返せず、ただ向けられた言葉の重さにまなじりを下げることしかできなかった。彼女は僅かにカグツチから視線を外すと、頑ななトーンを崩さないまま応じる。
「……ご心配には及びません。指導に支障をきたすような不覚は取りませんので」
それは、これ以上自分の内面に踏み込んでくるなという、明確な拒絶の壁だった。
「ふーん……」
カグツチは短く声を漏らし、どこか含みのある笑みを浮かべた。
──と、その直後だった。
カグツチの持つ箸が、まるで実戦のネイズの如き鋭さで、クラナダのプレートへと迷いなく伸びた。そして、彼女がまだ一切手を付けていなかったおかずの肉片を、実にあ鮮やかに掴み取った。
「ああっ!?」
クラナダの唇から、普段の彼女からは想像もつかないような驚愕の声が漏れ出た。
彼女が唖然として凝視する目の前で、カグツチは奪い取ったおかずをひょいと口に放り込み、もぐもぐと美味そうに咀嚼してみせる。
「うん、美味しい。こっちのメニューにすれば良かったかなぁ」
あまりにも傍若無人。あまりにも軍人らしからぬ不条理な行動。
完全に呆気にとられて硬直するクラナダに対し、カグツチは箸を弄びながら、悪戯の成功を確信した子供のような目を向けた。
「どう? 怒った?」
「…………」
食堂の喧騒の中、二人の間だけに張り詰めた沈黙が流れる。
クラナダはしばらくの間、無言のままカグツチを厳しく睨みつけていた。ただでさえ鋭い目つきが、より刺々しい光を放って彼を捉えている。
肺の奥の空気をゆっくりと吐き出し、彼女はなんとか平坦なトーンを絞り出した。
「……怒っていません」
「本当に? おでこにめちゃくちゃ青筋立ってるよ?」
可笑しそうにケラケラと笑う教官。
パトゥアとしての自制心が、これ以上ないほどにかき乱されていくのを感じ、クラナダはついに口を噤んだ。
──ガタッ。
彼女は自分のプレートを両手で持ち、立ち上がった。まだ半分以上残っている朝食だったが、これ以上この男のペースに巻き込まれるのは御免だった。
「……失礼します」
それだけを冷徹に言い残すと、クラナダはカグツチに背を向け、足早に返却口へと歩き出した。
背後からは、「あ、ちょっと待ってよ、残したらもったいないよー」と、相変わらず緊張感の欠片もない教官の声が追いかけてきたが、彼女がその歩みを止めることは決してなかった。
定刻。純白に染め抜かれた訓練室の中心で、二人の影が向かい合っていた。
天井から降り注ぐ無機質な光の中、クラナダは一切の微動だにせず、ただ真っ直ぐにカグツチを見据えていた。
「うーん、なんか猛烈に睨まれてる気がするなぁ。クラナダ、やっぱりまだ怒ってる?」
カグツチは首を傾げながら、まるで世間話でもするかのような軽さで尋ねてきた。対するクラナダは表情一つ動かさず、冷徹な声を返す。
「目つきが悪いのはいつものことです。教官、本日の指導を開始してください」
「冷たいねぇ」
カグツチは苦笑しながらも、それ以上は追及しなかった。代わりに彼が指先を小さく弾くと、クラナダの目の前に淡いブルーのホログラムパネルが滑り出すように出現した。
「じゃ、始めようか。まずはこれを見て」
展開されたパネルには、昨日の過酷なテストによって暴き出された、クラナダ自身の戦闘データが整然としたグラフやパラメータとなって浮かび上がっていた。
「これが今の君のデータ。で、次がこれね」
カグツチが手元の端末を操作すると、クラナダのデータの真横に、新たな別のグラフが並んで表示された。
「これは、近々実戦に投入される予定の、他支部の新人ガリアの平均ステータス。……一目瞭然だよね」
二つの波形を比較すれば、その差は残酷なほどに明確だった。クラナダのパラメータは、同世代の、しかも実戦投入を間近に控えた適合者たちの数値を、全ての項目において遥かに凌駕していたのだ。
「既に君の能力値は、同世代のガリアとは比べ物にならないほどに高い。でも、それだけじゃないんだ。……さらに、これ」
カグツチが画面をスクロールさせる。今度現れたのは、より分厚く、歪なほどに強靭な波形だった。
「これは戦地での生存年数が十年に達する、ベテランの現役ガリアの平均ステータスだ」
クラナダの目が、僅かに見開かれる。
映し出された十年の経験を持つ老兵のデータ。それと並べられてなお、クラナダの能力値は上回っていた。
「十年間、あの地獄を生き延びてきたベテランと比べても、基礎能力は君の方が高い。特に敏捷性──これに関しては、現役のガリアと比較しても格段に上だ。白銀機関だってバカじゃないからね。新人が簡単に死ぬような、生半可な教育は最初から施さないんだ。もしそのレベルに達していなければ、専任教育カリキュラムで不合格になって、教育課程を再履修させられる。それでもダメなら……………『脱落』ってことになるね」
「っ」
その時、クラナダの瞳が僅かに逸れる。
「それだけガリア一人を育てる手間とコストは馬鹿にならないし、機関も総督府も、いい加減な戦力はハナから期待してないから。……言い換えれば、正規のルートで戦場に駆り出される新人は、誰もが十分にギャラスを討伐できると保証されて送り出されるわけ」
カグツチはそこで一度言葉を区切ると、ホログラムの光を浴びたクラナダを、静かに見つめた。
「その『勝てる』という扱いを受けている新人よりも、今の君は遥かに強い。となるとさ、ぶっちゃけ、僕が稽古をつける必要も無いんだよね」
「え……?」
予想だにしなかった言葉に、クラナダの喉から小さく困惑の声が漏れた。思考が追いつかず、言葉を詰まらせる。
「だからさ、カリキュラムの残り数ヶ月は、適当に遊んでていいよ。僕も適当に付き合うから」
カグツチはあっけらかんと言い放った。
遊んでいていい。それは白銀機関の教官として、決して口にしてはいけない言葉。
クラナダは「パトゥア」として口を開いた。
「……お言葉ですが、承服しかねます」
クラナダは拳を強く握り締め、鋭い声で反論した。
「私はパトゥアです。機関の尖兵たる者が、カリキュラムの期間中に課せられた鍛錬を怠るなど、断じて許されることではありません。たとえ数値が基準を満たしていようとも、さらなる向上を目指すのが──」
「じゃあさ、もう戦場に行く?」
カグツチは、彼女の熱を帯びた言葉を、あまりにも容易く、冷ややかに遮った。
「え…………」
クラナダは言葉を失い、目を見開いた。
「言ったでしょ。君はもう、実戦で十分に通用する──いや、通用しすぎるレベルなんだよ。だったら、僕の権限で特例としてこのカリキュラムは『合格』ってことにしてあげる。明日にでも君が本物の戦場で戦えるように、今から上の連中とかけあってみようか?」
カグツチの声音には、先ほどまでの不真面目な響きは一切消え失せていた。感情の読めない底知れぬ黒い瞳が、真っ直ぐに彼女の輪郭を射抜いている。
「そうすれば、わざわざこんな退屈な地下で数ヶ月も無駄な訓練をしなくて済む。晴れてガリアとして地上に上がって、人類のため、総督府のために、今すぐその高い能力を貢献できるよ。……どうする? 僕が話をまとめてあげようか?」
「あ────」
クラナダの唇が、細かく戦慄いた。
出かかった反論のすべてが、喉の奥に張り付いて出てこない。
明日にでも、戦場へ。
その言葉が引き金となり、数時間前にシャワールームで見た、あの足元を流れる赤黒い水溜りのビジュアルが、そして夢の中で世界を呪っていたガリアの姿が、鮮烈なフラッシュバックとなって脳裏を蹂躙した。
勝てる。通用する。数値は証明している。
なのに、肉体が、本能が、恐怖にすくんで動かない。
沈黙に支配された訓練室の中で、クラナダはただ、言葉を詰まらせて立ち尽くしていた。
彼女の白い額から、冷たい汗が一滴、あお白い頬を伝って床へと流れ落ちた。
沈黙が、重く、引き伸ばされる。
立ち尽くすクラナダの姿を、カグツチはしばらくの間、じっと見つめていた。
やがて、彼はふっと細めていた目元を緩めると、何事もなかったかのように喉を鳴らした。
「──なんてね。ウソウソ」
「……え?」
張り詰めていた糸が唐突に切られたような感覚に、クラナダは呆然と声を漏らし、カグツチの顔を見た。
「いくら君が優秀だからって、残り数ヶ月を何もせずにカリキュラム修了なんて、上の偏屈な連中が認めるはずがない。僕が勝手に合格を出したら、今度は僕が呼び出されてお説教されちゃうよ」
カグツチは肩をすくめ、先ほどまでの冷徹な気配を綺麗に霧散させて笑った。
「それにさ、上からは『次世代のカグツチを育てろ』って明確なオーダーをもらってるんだよね。となると、少なくとも僕がパトゥアだった頃、戦地に投入される直前の能力値と比べて遜色のないレベルにまで君を育てなきゃ、僕の指導能力が疑われちゃうだろ?」
カグツチの口から出た「パトゥア時代の自分」という言葉に、クラナダは思わず息を呑んだ。
「というわけで、ちょっと懐かしいデータを引っ張り出してみた。……はい、これ」
カグツチがホログラムパネルを軽くスワイプする。
クラナダのデータ、そして十年目のベテランガリアのデータの真横に、さらに新しい、紫色の光を放つグラフが並び立った。
それを見た瞬間、クラナダは言葉を失い、文字通り目を大きく見開いた。
描かれていたのは、歪なほどに膨れ上がった圧倒的なパラメータの質量だった。
十年目のガリアの平均値さえも、そして「次世代の『伝説』」と称される現在のクラナダの数値さえも、あらゆる項目において完全に凌駕している。
戦場に立つ前──まだ地下のゆりかごにいた「パトゥア」の身でありながら、当時の現役ガリアたちの中でも間違いなく最強格に位置していたであろう、化け物じみた戦闘適性の証明がそこにあった。
「君にはこれから、カリキュラムが修了するまでの間に、せめてこれくらいにはなってもらおうと思うんだ。……どう? 出来そう?」
カグツチは悪戯っぽく微笑みながら、途方もない壁の暴力をクラナダに突きつけた。
あまりの次元の違いに、クラナダはしばらくの間、ただ沈黙するしかなかった。
しかし、徐々に彼女の内側で、先ほどまでの恐怖に覆いかぶせるように言葉がせりあがってきた。
深く息を吸い込み、クラナダはまっすぐにカグツチを見据えて返す。
「……できるか、どうかではありません。パトゥアであれば、可能不可能を問わず、与えられた命令を実行しなければなりません。それが私の存在意義です」
「良いね。なら、僕もそのつもりで容赦なく指導するよ」
カグツチは満足そうに頷くと、「じゃあ、目を閉じて」と穏やかな声で告げた。
サイコハイムによる精神戦闘訓練が始まる──そう確信したクラナダは、「はい」と短く応じると、ゆっくりと瞼を閉じた。カグツチの過去のデータに追いつくため、全神経を脳の奥へと集中させ、ハイムの展開による精神への負荷に備える。
しかし。
次に彼女の身に走ったのは、予想だにしない奇妙な感覚だった。
冷たく、しかしどこか柔らかい指先が、彼女の皮膚に触れる。
「!?」
驚いたクラナダが勢いよく目を開けると、至近距離にカグツチの顔があった。
「おお…………やっぱり、もちもちだねぇ……………」
カグツチは感心したような声を漏らしながら、クラナダの右側の頬を、親指と人差し指でかるく摘まんでいた。
「出会った時からさ、なんかどこか丸みがあって柔らかそうなほっぺだなと思ってたんだよね。いやぁ、僕の目に狂いは無かった。これ、いくらでも触ってられるやつだ」
大真面目な顔で、摘まんだ頬の感触を確かめるように指を動かす教官。
戦闘訓練の緊張感、過去のデータへの畏怖、その全てを台無しにするあまりの暴挙に、クラナダの脳内は一瞬で真っ白に染まった。
次の瞬間、彼女の瞳に、朝の食堂の比ではないほどの物凄い眼力が宿る。優等生の仮面の下から、剥き出しの憤怒と戸惑いが混ざり合った視線が、カグツチを容赦なく射抜いた。
「お?怒った?」
楽しそうに尋ねるカグツチに対し、クラナダは指で頬を引っ張られ、顔の輪郭を歪ませたまま、怒気を含んだ声を絞り出した。
「……怒っ、ふぇまへん」
純白の訓練室に、締まりのないマヌケな声が、虚しく響き渡っていた。




