第1話 「神童」と「伝説」
周回軌道上から見下ろすその星は、かつて、宇宙でも指折りの美しさを誇る「碧の至宝」だった。
一周約四十万キロメートル。その地表はどこまでも広大な原生林の緑に覆われ、深く澄んだ海水が陽光を浴びてきらめいていた。
神秘の星、イデア。
それが、人類がかつて謳歌した母星の本来の姿である。
だが、三百年前。その美しい円環は、突如として宇宙の深淵から飛来した悪夢によって叩き割られた。
───危険生命体「ギャラス」。
彼らがどこから来たのか、なぜこの星を襲撃したのか、その理由は三百年が経過した今なお一切分かっていない。ただ分かっているのは、奴らがこの星に降り立った瞬間から、容赦のない蹂躙と汚染が始まったということだけだ。
あるギャラスは巨大な顎で人間を貪り食い、あるギャラスは生態系を根底から腐らせる有害なガスや未知の細菌を撒き散らした。豊かな大気は毒に変わり、緑の平野は乾いた灰へと化していった。数多の都市が崩壊し、大陸の大部分が呼吸すら許されぬ未踏の領域となるまで、そう時間はかからなかった。
イデアは、瞬く間に「死の星」へと塗り替えられたのである。
絶望は星全体を覆い、誰もが人類の完全なる絶滅を確信した。
しかし、人類は滅びなかった。
この最悪の星にあって、なお牙を剥き、イデアを守るべく戦い続けた戦士たちがいたからだ。
その名を「ガリア」。
彼らの手によって滅亡を免れた人類は、この絶望的な星でも、まだ血反吐を吐いて生きていた。
白銀機関第81支部。その無機質な廊下を、一人の少女が歩いていた。
そこは幾何学的で一切の無駄を削ぎ落とした空間である。幾重にも並ぶ白磁のパネル、冷徹な光を放つ天井の面発光照明、そして磨き抜かれた床面。色彩という概念を拒絶したかのような純白の回廊に、彼女の規則正しい足音だけが硬質に響き渡っていた。
歩を進める少女の髪は、その空間に溶け込むほどに汚れの無い白い長髪。しかし、伏せられた睫毛の奥で揺れる双眸は、星々の死骸から切り出した宝石のように鮮やかな紫の瞳を宿している。そして何より目を引くのは、自他共に厳しそうな鋭い目つきであった。凛とした佇まいには、若き戦士特有の張り詰めた空気が漂っている。
彼女の名はクラナダ。
「パトゥア」───すなわちガリアの訓練生の中でも、頭一つ抜けて優秀であり、その前途を総督府の上層部からも大いに期待されている少女だった。
絶望の到来から三百年。人類が滅亡の淵で生き残るため、最も心血を注いだのがギャラスに対抗するための兵器───ガリアの育成である。白銀機関は、若きパトゥアたちに徹底した教育を施して戦地へ送り出すための特務組織であった。
クラナダはその白銀機関が課す過酷な所定のカリキュラムを、全て同世代中1位という圧倒的な成績で修了していた。模擬戦の戦術、身体能力、分隊を率いた作戦行動。どれをとっても、既に実戦で十分に通用する───否、並の現役ガリアを凌駕する実力を備えている。だが、そんな彼女にも、前線へ配属される前に超えねばならない最後の門が残されていた。それが、教官による専任教育カリキュラムである。
彼女は今、これから自身を担当する教官に会いに行く途中であった。
一線級エリートの卵の総仕上げ、並の教官では務まるはずがない。それゆえに、彼女の担当として選ばれたのは、これ以上にない程に適任な男であった。
男の名は───────
回廊の最奥、一枚の重厚な自動扉の前にクラナダが立った。電子音が小さく鳴り、扉が左右へと滑らかに分かれていく。気密が破れるわずかな風の音と共に、いよいよ未知の教官との顔合わせの時を迎えた。
クラナダは背筋を伸ばし、部屋の奥へと視線を射抜く。
「失礼いたします、教官」
張り詰めた、しかし寸分の揺らぎもない凛々しい声が室内に向けられる。
その言葉を受け止め、デスクの向こうから、どこか拍子抜けするほどに穏やかな眼差しを向け返した男が口を開いた。
「はじめまして。僕が今日から君の教官の任に着くカグツチだよ。宜しくね」
────男の名はカグツチ。
かつて、ガリアの歴史において「伝説」とまで呼ばれた、最強の戦士であった者だ。
自身と同じような、汚れ一つない純白の制服に身を包んだカグツチ。しかし、そのクリーンな装いとは対照的に、彼の髪は夜の闇を溶かしたかのような漆黒であり、その瞳もまた底の見えない黒に染まっていた。穏やかな風貌ではあるが、その胸元には教官の職責を示す鋭利な紋章と、そして何より、人類の存続に絶大なる貢献を果たした一握りのガリアにしか授与されない最高名誉「白銀十字章」が、室内の明かりを反射して鈍く光り輝いている。
カグツチはゆっくりとデスクを離れてクラナダへと近付き、細い右手を差し伸べた。
クラナダはその手を一瞬だけ見つめ、そして淀みなくその手を握り返す。
互いの手のひらが触れ合ったその瞬間、カグツチの口もとが、どこか感嘆したように小さく緩んだ。
「凄く鋭い『ハイム』だね。まだ前線に出ていないパトゥアのそれじゃない。中堅の現役ガリアより、ずっと強いかもしれないな」
カグツチは、クラナダの肉体から微かに漏れ出るハイムの質を、純粋な驚きを交えて賛美した。
「恐縮です、教官」
クラナダは一切の感情を排した声で礼を口にする。
だが、その張り付けた模範的な表情の裏で、彼女の眉根はかすかに歪んでいた。差し伸べられた手を握った瞬間に肌を通して伝わってきたもの───それに、クラナダは言い知れぬ違和感を覚えていた。
カグツチは彼女の微かな変化を見逃さず、自嘲気味に口を開く。
「───弱いよね? 僕のハイム」
直球の問いかけに、クラナダの端正な顔がわずかに強張る。
「それは……」
否定の言葉は出なかった。あまりにもその通りだったからだ。かつて戦場を統べ、無数のギャラスを塵に変えたと謳われる「伝説の男」から感じ取れるハイムの波動は、まるで消えかけの灯火のように希薄で、弱々しいものだった。
「事前に聞いているとは思うけどね。僕は過去の作戦中にハイム器官を酷く損傷しているんだ。だから、今はこんなぐらいしか出せない」
そう言ってカグツチは、困ったように細い目をさらに細めて笑ってみせた。
しかし、そんな彼のどこまでも平穏な態度とは異なり、クラナダは胸の内で静かに息を呑んでいた。
ハイムとは、イデアに生きる人類の血肉を巡る神秘の力。ガリアたちはこの力を武器「ネイズ」に流し込むことで、初めてあの強靭なギャラスの肉体を粉砕する暴力を得ている。
そして、その力の源泉となるのが、すべてのガリアの体内に存在する「ハイム器官」と呼ばれる臓器だ。ハイム器官から生成されたエネルギーが全身の経絡を巡ることで、超人的な戦闘能力が維持される。
つまり、そこを修復不可能なまでに損傷したカグツチには、もうガリアとしての十全なハイムの行使は不可能となっていた。
───戦場。
それは、どれほどの天才であろうと、どれほど絶対的な力を持とうと、等しく無慈悲に肉体を打ち砕く底無しの奈落。
クラナダが固唾を呑み、胸の内で息を止めたのは決して目の前の男を侮蔑したからではない。むしろ逆だ。白銀機関で育ったガリアであれば、その名を知らぬ者などいない「生きた伝説」。
数々の絶望的な作戦を単騎で覆し、無数のギャラスを塵に還してきたあのカグツチですら、一瞬の火花の中で牙を折られ、二度と戻らぬ致命傷を負わされたという揺るぎない現実。
その事実の持つ冷徹な重みが、まだ本物の地獄を知らない訓練生の少女の背筋を、冷たく這い上がっていた。
「───さて、早速だけど」
カグツチがそう言って小さく息を吐くと、クラナダの背筋はさらに一段と跳ね上がった。いよいよ、かつて最強と謳われた男による、一線級ガリアの総仕上げたる教導が始まる。その予測が彼女の全身を支配し、紫の瞳の険しさは限界まで鋭くなる。どんな過酷な試練が課されようとも、一分の隙もなく完璧に遂行してみせる。
呼吸すら止めて身構えるパトゥアの少女を見つめ、カグツチは実にあっけらかんと、次の言葉を紡いだ。
「お昼ご飯、行こうか」
「───え?」
張り詰めていたクラナダの表情が、その瞬間、信じられないほど呆気なく崩れた。端正な顔立ちが困惑に染まり、口元がわずかに開く。厳格なガリアとしての面が剥がれ、年相応の少女の戸惑いが生々しく顔を覗かせていた。
「教官……今、なんとおっしゃいましたか」
「だから、お昼ご飯。君、まだ食べてないでしょ? 僕もまだなんだ」
カグツチはデスクの上の通信端末をポケットに放り込み、さも当然のことのようにクラナダの横を通り抜けて、自動扉へと歩いていく。
「それは、そうですが……しかし、教導の時間は……」
「これだって立派な教導だよ。腹が減っては戦えない、ってね」
振り返ったカグツチは、戸惑うクラナダに向けて悪戯っぽく微笑んでみせた。
「それにさ、僕はもう前線に出られない身だけど、その代わりにお金だけはそれなりに持ってるんだ。何でも好きなものを奢るよ。さあ、行こう」
伝説の男のあまりの拍子抜けな態度に、クラナダは完全に言葉を失っていた。戦場という残酷な現実に固唾を呑んだ先ほどの緊張感が、まるで幻であったかのように霧散していく。
しかし、これもまた教官が下した最初の指示だ。白銀機関の規律を重んじる彼女にとって、上官の提言を無下にすることなどできるはずもなかった。
「……了解、いたしました。お供します、カグツチ教官」
納得のいかない割り切れなさを胸の内に抱えながらも、クラナダは乱れた呼吸を整え、純白の制服の裾を翻してカグツチの背中を追いかけた。
広大な食堂に二人は足を踏み入れた。
天井は眩暈を覚えるほどに高く、そこから無数に垂れ下がる巨大な円筒状の構造体や照明の柱が、幾何学的な影を床面に落としている。白と青を基調とした近未来的なインテリア、ずらりと規則正しく整列したポッド型の白い椅子。清潔ではあるが、どこか無機質なその大空間には、昼時ということもあってパトゥアや職員たちの姿がぼちぼちと見受けられた。食器が触れ合う乾いた音、ガヤガヤとした雑雑な混交、若きパトゥアたちの話し声が、高い天井に反響して茫漠とした雑踏の音を形成している。
「さて、何を食べたい?」
券売機の前で、カグツチが振り返って気負いのない声をかけた。
だが、クラナダは眉一つ動かさず、至極平坦なトーンでそれを断る。
「いえ。自分で買いますので、お気遣いなく」
上官への礼儀は失していない。しかし、施しを受けるのは性に合わない。それが教官が相手となると尚更だ。
だが、カグツチは彼女の頑なな態度を気にする風もなく、ただ黒い瞳をわずかに動かした。クラナダが次に視線を向けようとしたコンマ数秒の隙───その目線の機微を完璧に捕らえた男の指先が、目にも留まらぬ滑らかさで動く。
カグツチはクラナダが狙っていたメニューを正確に見抜き、彼女が口を開くより早く、食券機のタッチディスプレイを迷いなくタップした。続けざまに硬貨が投入口へと滑り込み、チャリン、と軽快な電子音が静かな拒絶の空間を切り裂く。
「はい」
カグツチは、発券口から滑り出てきた二枚の紙片のうちの一枚をつまみ上げ、クラナダの前へと差し出した。
クラナダは差し出された食券と、男の穏やかな顔を交互に見つめ、微かにその紫の瞳を揺らす。
「……どうして、これが」
動揺を隠しきれない声が、彼女の唇から漏れ出た。
「目線と、指の動きで分かったよ。次にどのボタンを押そうとしているか、身体が先に語っていたからね」
カグツチはさも退屈な事実を口にするように、穏やかに、しかし絶対的な確信を持って告げた。
クラナダはその言葉に両目を見開いた。
それだけの、針の穴を通すような極小の情報だけで、自分の次の挙動を完全に先読みされたというのか。
先ほど握り合った手から伝わってきたハイムの波動は、間違いなく脆弱だった。成績下位のパトゥアにすら劣る、牙を折られた獣のよう。しかし、この男がかつて「最強」の座に君臨し、数々の修羅場を潜り抜けてきた理由───その卓越した観察眼のようなものは、ハイム器官の損傷など関係なく、今なおこの男の肉体に刻まれて健在であった。
「他に食べたいものはある? 足りなければまだ買うけれど」
何食わぬ顔で尋ねてくるカグツチに対し、クラナダはハッとしたように彼を見ると、首を横に振った。
「……ありません。ありがとうございます、教官」
絞り出すような声でそれだけを返すと、クラナダは食券を受け取り、男の眼から逃れるようにしてカウンターへと歩き出した。
受け取った食券をカウンターへ提出し、数分と待たずに盆を受け取る。
クラナダが注文したのは、食堂で日替わりとして提供されている、至って平凡な定食であった。味気ないトレイの上に並ぶのは、徹底した栄養管理の数値を満たすためだけに構成された、お仕着せのメニュー。そこからは彼女個人の嗜好やこだわりといった、人間味のある情報は一切読み取ることができない。それは、目の前の教官に対して自分の内面をこれっぽっちも明かさない、いかなる隙も作らないという、クラナダの頑なな防御の意志そのものであった。
だが、対するカグツチが受け取ってきた盆を見て、クラナダは思わず言葉を失った。
彼のトレイの上に鎮座していたのは、とても大人の男が、それもかつて最強とまで謳われたガリアが食べるとは思えない、山盛りのホイップクリームと極彩色のソースがこれでもかとデコレーションされた、ひどく甘そうでファンシーな盛り付けのパンケーキだった。白銀機関の無機質な食堂にあって、そこだけがひどく異質に浮いている。想定外の光景に、クラナダは平静を装いつつも、心の中で激しく面喰らっていた。
「ん? 意外かな?」
対面のポッド型の白い椅子に腰掛けたカグツチが、クラナダの微かな視線の動きを捉えて、悪戯っぽく微笑んだ。
「いえ、そのようなことは……」
「いやいや、思いっきり顔に書いてあるよ。なんだこの男、って」
あまりにも見透かしたような物言いに、クラナダは一瞬だけ紫の瞳を揺らし、すぐに視線を落として俯いた。
「……申し訳ありません。教官の私生活、および嗜好に対して、無遠慮な視線を向けるのは無作法でした」
「あはは、謝る必要なんかどこにも無いよ。僕が勝手に好きなものを食べてるだけなんだから」
カグツチは気に留める風もなく、楽しそうにナイフとフォークを動かし始めた。クラナダもそれ以上の追及を諦め、自身の定食へと箸を伸ばす。
高い天井の食堂には相変わらずガヤガヤとした雑踏の音が響いているが、二人のテーブルの間には、どこか奇妙な静寂が横たわっていた。クラナダはただ静かに、機械的に顎を動かし、黙々と食べ進める。隙を見せないため、そして一刻も早くこの場を終わらせるために。
そんな彼女の様子をスープを飲む合間にじっと見つめていたカグツチが、ふと、世間話でも振るような調子で口を開いた。
「クラナダ。今までの訓練は、大変だった?」
「いえ。過不足なく、戦士として必要なカリキュラムであると認識しております」
クラナダは迷いなく、模範的パトゥアとしての回答を口にする。
「いついかなる時であっても、我々パトゥアが弱音を吐くことは許されません。ギャラスの脅威を前に、個人の感情など無価値です」
「本当? それは凄いね。僕がパトゥアの時なんか、毎日嫌だ嫌だって愚痴を言ってたからなあ。今日はあの教官の顔を見たくないとかさ」
カグツチは懐かしむように目を細め、ホイップクリームを口に運んだ。
そのあまりに不謹慎で、白銀機関の規律から逸脱した告白に、クラナダは完全に言葉を失った。あの「伝説」のガリアが、訓練生時代に毎日のように弱音を吐いていたなど。冗談なのか本気なのか、男の表情からは読み取れなかった。
「もっとさ、肩の力を抜いて良いんだよ。そんなに張り詰めていたら、息が詰まっちゃう」
カグツチの言葉は、まるで彼女の肺に溜まった張り詰めた空気を優しく押し出そうとするかのように、生温く響く。
だが、クラナダはそれに同調することはしなかった。
「……パトゥアに、気を抜く瞬間などあってはなりません」
彼女は一段と声を硬くし、カグツチの黒い瞳を真っ向から見据えた。
「我々は常に自らを極限まで高めるために、心を厳しく律する必要があります。一瞬の油断が、戦場では死に直結する。私はそう教わってきました」
「立派だね」
カグツチは否定せず、ただ感心したように笑った。その屈託のない笑顔が、クラナダにはどこか不気味にさえ思えた。
「立派なんて………私など、あなたには遠く及びません。胸の白銀十字章を贈られたカグツチ教官の功績に比べれば、未だ実戦の土俵にすら立っていない自分など、何も成していないに等しいのですから」
それは嫌みではなく、彼女の根底にある絶対的な事実としての言葉だった。
「これ?」
カグツチは自分の胸元にピンで留められた鈍色の勲章を、指先で退屈そうに弄んだ。
「僕だって大した人間じゃないよ。ただ、人よりも少しだけハイムが強くて、効率的にギャラスを殺せただけの男さ。この勲章だって、上層部から『シンボルとして着けておけ』って言われてるから着けてるだけでね。本当は、そんな仰々しく扱われるのは好きじゃないんだ」
勲章の持つ絶対的な価値すらも、カグツチはあっけらかんと切り捨てる。その態度が、クラナダをさらに困惑させた。この男は、機関が神格化する「英雄」の姿とは、あまりにもかけ離れすぎている。
「まぁ、誰か英雄が一人いたら色々とパトゥアを扱いやすいからってことなんだろうけど。そういう方針は好みじゃないね」
「……………」
「だからさ」
カグツチはフォークを置き、少しだけ真面目な顔をしてクラナダを見た。
「他の教官と違って、僕は規律だとか、形式だとかは気にしない。君が何を考えているのか、もし何か悩みがあったら、どんな些細なことでも気兼ねなく相談して良いからね。上に告げ口するような真似もしない。愚痴でも、何でもいいよ」
それは、白銀機関という冷徹な檻の中に差し込まれた、あまりにも異質で、居心地の悪い「救い」の提案だった。他の教官ならば、悩みや弱音を口にした時点で「不適格」の烙印を押すだろう。それを、この男はすべて受け止めると言う。
クラナダは静かに呼吸を整え、己の内に渦巻く割り切れない感情をすべて、無機質なパトゥアの仮面の下へと押し込めた。甘えてはならない。心を許してはならない。
「……恐れ入ります、教官」
クラナダは型通りの礼を述べた。
だが、それ以上、彼女の口から言葉が紡がれることはなかった。開かない心の門を前にして、カグツチはただ、それ以上踏み込むことなく、残ったパンケーキに再びナイフを向けた。
食堂を出て、カグツチの後ろを歩くクラナダ。
「…………………」
彼女の脳裏には、数日前のある記憶が蘇っていた。
───シミュレーション終了。勝者、クラナダ。
電子音声が訓練室に響き渡ると同時に、肉厚な表皮を持った異形の怪物───仮想敵であるギャラスの巨大なホログラムが、光の粒子となって霧散した。
その直前まで、訓練室の全域を制圧していたのは、クラナダの放った圧倒的な暴力の残光だった。彼女の手にあるネイズから放たれたハイムの刃は、一瞬の間に十重二十重の冷徹な軌跡を描き、巨躯を誇るギャラスの肉体を文字通り細切れに解体してみせたのだ。一切の躊躇も無駄もない、完璧な殺戮のコンビネーションだった。
「…………」
クラナダはゆっくりと刃を収め、呼吸を整える。その立ち姿はどこまでも凛としていた。
「おい、見たかよ今の……相変わらず化け物じみた反応速度だな」
「あの間合いから一瞬で懐に入って、ギャラスのを微塵切りかよ。さすが次代のエリート候補だ……」
ガラス張りの見学スペースから、同期生のパトゥアたちが感嘆と、どこか畏怖の入り混じった溜息を漏らす。彼らにとって、クラナダの強さはすでに目指すべき指標を通り越し、仰ぎ見るべき絶壁の領域に達していた。
「素晴らしいな、クラナダ。模擬戦とはいえ、これほど完璧にギャラスの特性を潰し、完封してみせるとは。お前の戦術眼とハイムの制御力は、すでに現役のガリアと比較しても遜色ない」
傍らで端末を操作していた担当教官もまた、満足げに頷き、彼女の実力を高く評価する言葉をかけた。
「恐縮です、教官。ご指導、感謝いたします」
クラナダは教官に向き直り、教科書通りの綺麗な敬礼と共に礼の言葉を述べた。だが、その表情には喜びの緩みなど微塵もなかった。ただ、冷徹なまでに張り詰めた紫の瞳が、次の戦いを見据えるように静かに光っているだけだった。
完璧なリザルトを表示するスクリーンに背を向け、クラナダは訓練室を後にした。
無機質な白銀機関の廊下に出ると、ひんやりとした空気が肌を刺す。ただ歩く、その間に事は起きた。
「どいてくれ! 第三処置室を開けろ! ハイム濃度が急低下している、急げ!」
前方の角から、白衣を着た医療班の人間たちが、慌ただしくストレッチャーを押して走ってきた。廊下の静寂を切り裂く、騒然とした足音と叫び声。
ガリガリと床を削るキャスターの音に混じって、少し遅れて、人間のものとは思えない獣のようなうめき声が響いてくる。
「っ……、あ……、あああああ……っ!」
クラナダは足を止め、胸の奥が不自然に騒ぐのを感じた。誘われるように、声の主が運び込まれた開け放しの処置室へと、そっと歩み寄る。廊下の影から、室内の様子を盗み見るように覗き込んだ。
───そこに横たわっていたのは、地獄の片鱗だった。
ベッドの上にいたのは、前線から搬送されてきたばかりであろう現役のガリアだった。
その衣服はズタズタに引き裂かれ、左膝から下は、何かに強引に噛みちぎられたかのように完全に消失していた。それだけではない。ギャラスの放った毒素か、あるいは未知の細菌による汚染か───露出した全身の皮膚は、ドス黒く、マグマのように赤く爛れ、絶え間なく膿と血を噴き出している。
「ハイム中和剤を投薬する! 痛むぞ、堪えてくれ!」
医療班がドロりとした緑色の薬品を爛れた傷口に振りまいた瞬間、ガリアの身体が弓なりに跳ね上がった。
「があああああああっ!! 殺せ! 頼む、いっそ殺してくれえええええっ!!」
鼓膜を破壊せんばかりの、凄まじい絶叫。生きながらにして肉体を腐らせていく不条理の恐怖が、処置室の白い壁に反響し、クラナダの脳髄を直接揺さぶる。
模擬戦でいくらギャラスを細切れにしようとも、本物の戦場がもたらす結末は、これだ。弱ければ死に、運が悪ければ死よりも凄惨な苦痛の中で肉体を破壊される。
「───っ」
ふと、自分の視界が細かく揺れていることに気が付いた。
視線を落とすと、自分の白い手袋に包まれた両手が、見たこともないほど小刻みに震えていた。ギャラスへの恐怖か、それとも、明日は我が身かもしれないという絶望か。
クラナダは自分のその怯えに、猛烈な嫌悪を覚えた。
奥歯が軋むほどに強く歯噛みし、震える両手を爆発させるような力で硬く、硬く握りしめる。指の骨が鳴るほどの制動をかけて、強引にその震えをねじ伏せた。
肺に溜まった冷たい空気を一気に吐き出し、クラナダはもう一度、自らの心に鉄の仮面を嵌め直した。
ゆっくりと拳を開くと、そこにはもう、微かな震えすら残っていない。
彼女は再び、汚れのない純白の回廊を、寸分の狂いもない規則正しい足音を響かせて歩き始めた。
前を歩く大きな背中。かつて「伝説」「神域」とまで呼ばれた人が、目の前で歩いている。
その印象は教官たちが伝えてきたものとはかけ離れているように思えた。幾千ものギャラスを葬ってきた、歴代のガリアの中でも頂点に君臨する最強の英雄。そんな大仰な肩書を感じさせないようなどこか軽妙な態度。
他の厳格で高圧的な教官たちとは違う、あまり見たことのない人。教官とパトゥアという境界線すら曖昧になりそうな空気を纏っていて、顔を合わせた時から私の調子は乱されてばかりだった。
……けれども、やっぱり私はこの人に気を許す気にはなれない。
自分の使命は理解している。人類の存続のため、そしていずれ迎える逆襲の時のため、命を賭して一体でも多くのギャラスを葬ること。そのために生み出された私たちには、それ以外の生きる道は無い。
この人も、そうやって生み出された。そうやって育てられた。どれ程型破りな人だったとしても、今では力を失った一教官。この大きな世界の歯車の一つ。私と同じ、歯車の一つ。
………あの日から、私の胸を蝕むこの痛み。歯車たちへの鈍い嫌悪感。
私のことを賛美する教官たちも、憧憬と崇拝を向けてくる同期たちも、自分のことでさえも。私は嫌いになっていた。
……カグツチ教官。
私も戦場に出て、あくる日もあくる日もギャラスと戦って、殺して、戦って、殺して。幾百、幾千の日を戦いに費やして。
そしていつの日か、あなたのように……………
『立派だね』
「………教官」
私は驚愕に目を見開いていた。気が付けば、喉から勝手に声が飛び出ていた。
「ん?どうしたの?」
私に呼ばれて振り向く教官。その唇は柔らかな弧を描いていて、私の次の言葉をただ待っている。
しかし、私の言葉はそこで止まった。
「………いえ、何でもありません」
「ん?そう?」
………………………教官。
私はあなたの思うような立派なパトゥアなんかではないんです。
何故なら私は…………あの時、恐怖してしまったんですから。
あのガリアの負った傷に。あのガリアの辿る末路に。そして、いつか自分がああなってしまうのではないかという空想に。
あなたのように、死に瀕しても尚戦い続けた偉大なガリアとは………違うんです。




