第5回 王脩、孔融に召し出される
王脩と黄文が盧邦の下で学び出し、半年が過ぎようとしていた。
二人とも家人としての仕事と勉学を両立させ、非常に充実した生活を送っていたところに、驚きの知らせが入ってきた。
二人の出身地である北海郡の相をつとめ、あの「孔子」の末裔として名士中の名士と言われる「孔融」から、盧邦の教場に使者が訪れたのだ。
そしてその使者来訪の理由は、盧邦ではなく、王脩にあったのである。盧邦に呼ばれ、王脩は孔融の使者と会うことになった。使者が言う。
「突然の来訪、失礼いたす。用件は一つ。王淑治殿、是非、我が主である孔融に仕えて頂きたい。」
王脩はあまりの唐突さに唖然としたが、一呼吸おいてから言った。
「私は当然のことながら、孔融様にお会いしたことなどございません。今回は一体、何故、この様なお話になったのでしょうか。」
「淑治殿。あなたは知らないかもしれないが、あなたが張奉殿に施した恩と言うのは、士分の者たちの中で評判となり、名士階層にも広がりを見せた。そして、孔融様は自ら治める土地の出身者にこの様な人物がいるのを放っておけない、ということになり、訪ねさせてもらった。」
「そういうことですか・・・。しかし、私はまだ就学の身、果たしてお役に立てるかどうか・・・。」
「淑治殿。字を持つということは、世に出る、と同義です。淑治、というご立派な字を有するあなたは、早く世に出るべきだと思います。」
ここで、盧邦が言う。
「淑治。最終的にはお前が決めることだが、こういった機会はそうあるものではない。しかも、名士中の名士である孔融様からお声がかかるなんてことは、ここで断れば、金輪際ないかもしれぬ。淑治よ、よくよく考えて決断せよ。」
「わかりました。使者殿、生意気なお願いですが、一日だけ時間を頂けませぬか。明朝、お答えさせて頂きます。」
「わかった。それなら、明朝、再び訪ねさせて頂く。」
王脩は拝礼し、使者は去って行った。
このことは弟子たちの中で、あっという間に知れ渡ることになった。このざわめいた雰囲気を鎮めるには、事実をしっかりと伝えるべきと考えた盧邦は、弟子を教場に集めた。そして言う。
「覚えているであろうか。以前、病で家族全員が倒れたところ、全員が快方に向かうまで世話をした若者の話を。」
弟子たちは頷いた。盧邦は続ける。
「実は、あの話は淑治の話であったのだ。淑治が面倒を見たのは、私の友人でもある張奉という士分の者だが、淑治から受けた恩を返したく、方々に美談として淑治の事を話たり、文に出して知らせていたのだ。その最中、孔融様の耳にこの話が入り、仕官の要請を受けた、ということだ。」
弟子たちは、納得したようだ。弟子の一人が言う。
「淑治殿は、礼の金子も受け取らなかったと聞いたが、こういった話になることを見越していたのか?」
「滅相もございません。私は母を七歳の時に亡くしました。そのころはまだ子供で、何の役にも立てませんでしたので、今回は大人になった分、自分にもできることがあろうかと思い、ただ、困っている張奉殿とそのご家族の看病をしたにすぎません。」
弟子たちが淑治を見る目が、尊敬に変わっていくのが分かった。盧邦が言う。
「淑治よ。明朝までしっかり考えて、答えを出すように。何かあれば、私も相談に乗る。遠慮せずに、いつでも来なさい。」
「温かいお言葉、感謝いたします。まずは、じっくりと一人で考えてみます。」
淑治はまず、自室に戻ることにした。
すると、そこに黄文もやってきた。黄文が言う。
「淑治よ。俺は今日、別の部屋に行っていた方がいいようにも思うが、どうかな?」
「練達殿が邪魔になることなどありません。差し支えなければ、いつも通り過ごしてください。その方が、自然な感じで考えることが出来そうです。」
「わかった。本当に一人になりたいときはいつでも言ってくれ。下手な遠慮はいらないぞ。」
淑治は微笑を返した。
淑治は、正直なところ、名士である孔融の下で働ける、政に携われると考えれば、今すぐに行きたい、と言う気持ちがある。
しかし、今の自分が果たして、孔融の期待に応えられる人材であるかと問われれば、自信はない。まだ、学び足りていない、と言う自覚がある。
とはいえ、盧邦が言うようにこの様な機会はそう簡単におとずれないであろうこともわかる。
王脩は静かに目を閉じて考えることにした。
どれくらいの時間が経ったのか。不覚にも、居眠りをしてしまった。それを、黄文は敢えて起こさず、じっと見ていたらしい。黄文が言う。
「そろそろ夕餉の時間だ。行こう。」
王脩は黄文に言う。
「練達殿、答えが出ました。」
「そうか。当然、行くのだよな?」
「いえ、条件を出そうかと思っております。」
「条件?何を条件とするのだ?」
「練達殿を伴うことです。」
「私を伴う?私は、今回の件は全く関係していないのだぞ。」
「いえ、私には練達殿が必要です。差し支えなければ、ご一緒に参りませぬか?」
「・・・。使者の方は困るであろうな。しかし、若しも許されるのなら、私もまだまだ淑治と共にありたいとは思う。」
「ありがとうございます。夕餉の後、盧邦先生にご報告いたします。」
夕餉が済み、王脩は盧邦の居室を訪ねた。盧邦が言う。
「その顔を見ると、決めることができたのかな?」
「はい。私の意志をご報告に参りました。」
王脩は、黄文を伴うことを条件に、孔融に仕える、ということを伝えた。盧邦は驚いて言う。
「練達は練達で、確かに見込みのある人物だ。しかし、今回の件に関しては、無関係なのではないか?」
「はい。しかし、練達殿は私の持っていないものを持っている人物であり、今の未熟な自分の足りない部分を補完してくれる存在だと信じていますので。」
「・・・。そうか。差し支えなければ、お前の足りない部分と練達の優れた部分を聞かせてくれないか?」
「はい。まず、私は愚鈍です。一方で練達殿は鋭敏です。そして、私は物事を真っすぐにしか見ませんが、練達殿は様々な角度から観察されます。更に私が懊悩とすることがあっても、気にもかけないおおらかさがあります。それ故、二人で力を合わせれば、孔融様のお役に立てるのではないか、と考えたのです。」
「そうか・・・。淑治、そこまで考えているのなら、明朝、私もできることをしよう。」
「ありがとうございます。」
王脩は、拝礼して退出し、自室に戻った。
自室に戻ると、黄文が既に床を用意してくれていた。黄文が言う。
「さあ、後は明日の朝になればわかること。今宵は早く寝るとしよう。」
王脩は頷き、床についた。
―明朝―
孔融の使者がやってきた。そして言う。
「淑治殿、決められたかな?」
「はい。是非、孔融様の下で働かせて頂きたく。ただし、不躾なのは承知なうえで、一つ、お聞き届していただきたい事がございます。」
「聞こうか。」
「こちらに控えるは、黄練達殿です。私にとって練達殿は、私に足りない部分を補完してくれる大切な友です。どうか、練達殿と共に仕官することをお許しください。」
「・・・。私が命じられているのは、淑治殿のことのみ。私如きに人材を登用する権利などない。」
「さすれば、共に北海郡に行くことはお許しいただけますでしょうか?孔融様とお話をできる機会があれば、私自身で練達殿を推薦致します。」
「・・・。かなり異例の事であるが、同伴は許そう。ただし、その先の事は一切保証できぬぞ。」
盧邦が言う。
「使者殿。練達には登用して頂けないのが普通であり、その時はこちらに戻ってくる様に伝えています。ただ、一つ口添えさせて頂ければ、この練達はまだまだ無名な士分のものですが、将来の見込みはあると思っています。」
「・・・。わかった。それでは、淑治殿、練達殿。早速、北海に参ろうか。いや、帰ろうというのが適切か。二人にとっては、故郷に錦を飾ることになるかもしれんな。」
王脩は盧邦に言う。
「盧邦先生。今までお世話になりました。先生に教わった学問を、政で活かしたいと考えております。」
黄文が言う。
「先生。私はどうなるかわかりませんが、この教場で教わったことは生涯、忘れませぬ。どうか、ご健勝で。」
盧邦が二人に言う。
「正直言えば、お前たちの成長を見ているのが私の楽しみであったので、こうも早く巣立つのは名残惜しく感じている。しかし、一方で、民のための政をしているお前たちを見たい、とも思っているのだ。北海方面に所用でいくことになれば、お前たちの仕事ぶりを見せてもらうぞ。」
二人は拝礼して、使者と共に北海を目指し旅立ったのである。そこには、二人の瞳からあふれ出す涙があった。




