第28.1話 村の学び舎
第28.1話 村の学び舎
サクがこの村に落ちてきて、二週間ほどたった頃のことだった。
その日、サクはミアに連れられ、古い祠の隣に建つやや大きな家へやってきた。
何のための建物なのかは分からない。
ただ、中から大勢の子供の声が聞こえていた。
最初の一週間で、ミアとサクは互いの名前だけは確かめることができた。
それからは、目についたものを指さし、ミアがその名を口にする。サクがそれを繰り返す。その積み重ねだった。
食う、寝る、用を足す。
暮らすうえでどうしても必要なことは、身振り手振りでどうにかなった。それでも、まともに話ができるようになるには、まだずいぶん時間がかかりそうだった。
だが、ミアにも狩りや肉の始末という仕事がある。いつまでもサクにつききりではいられない。
困ったミアが姉貴分のサリナに相談したところ、この場所へ連れてくることになったらしい。
後になって知ったことだが、ここはサリナが作った村の学び舎だった。
村では昔から、畑仕事や狩りに出るのが難しくなった老人たちが、幼い子供の面倒を見る習慣があった。
晴れた日には外で遊ぶ子供を見守り、雨の日には祠の軒下へ集め、歌や昔話を聞かせる。
だが、四つ、五つと歳を重ねるにつれ、子供は老人たちの手に負えなくなる。そこから先は、年長の子が年少の子を引き連れ、遊びの中で村の決まりや仕事を覚えていくのが常だった。
サリナは、その間を埋める場所を作ろうとしていた。
都で学んだことと、自分の子を育てながら得たものを合わせ、歌や遊びから始めて、読み書き、数の扱い、村の仕事へと少しずつ教えていく。
まだ完成した仕組みではない。子供を年頃によっていくつかに分けるやり方も、試行錯誤の途中だった。
そしてサクは、言葉を覚えるには子供たちの中へ放り込むのが早いだろうという、いささか乱暴な理由で、そこへ連れてこられたのである。
ミアが扉を開けた。
中にいた子供たちが、いっせいにサクを見た。
サクもまた、子供たちを見た。
しばらく、誰も声を出さなかった。
ミアはしばらく先生らしき女と話していたが、やがてサクに手を振り、出ていった。
次はその女がこちらへ来るのかと思ったが、何も言わず、別のところへ行ってしまった。
サクは、そこにほったらかされた格好になった。
どうすればよいのか分からず、しばらくぼんやり立っているうちに、部屋の中には泣き声や話し声が戻ってきた。
どうやら、これがいつもの風景らしい。
サクもいつの間にか、その風景の一部になっていた。
すると、歯の欠けたばあさんが笑いながら、よたよたと近づいてきた。ばあさんはサクの前まで来ると、床を指さした。
座れということだろう。
サクは、とりあえずその場に腰を下ろした。
しばらく周りを眺めていると、二歳くらいの、男の子とも女の子とも分からない子が、指をくわえてサクをじっと見ていた。
サクは、その子に向かってにっと笑ってみた。
子供はさっとばあさんの後ろへ隠れた。
それから、ばあさんの脇からそっと顔を出す。サクと目が合うと、またすぐに引っ込めた。
その様子を見ていた別の子供が、今度はサクを見た。
サクがまたにっと笑うと、その子もにっと笑い返した。
すると、別の子がサクの目の前までやってきた。
ずいぶん近い。
サクは、その子にもにっと笑ってみせた。だが、その子は笑い返すこともなく、じっとサクの顔を見つめている。
そのとき、先ほどばあさんの後ろに隠れた子が、いつの間にかサクのそばまで来ていた。小さな手を伸ばし、サクの肩口の服をつまむ。
サクもまねをして、その子の腹のあたりの服をちょこんとつまんだ。
「きゃっ」
子供は声を上げ、またばあさんの後ろへ逃げ込んだ。
それを合図にしたかのように、正面に立っていた子が、どすんとサクの膝の上へ腰を下ろした。
そこから、子供たちの攻撃が始まった。
いつの間にか一人が背中によじ登り、肩にしがみついている。もう一人は背中にもたれかかり、膝の上では二人が押し合いながら場所を奪い合っていた。
左右から腕を引っ張る子がいる。鼻をつまむ子もいれば、耳を引っ張る子もいる。
サクはたちまち、子供たちの玩具になった。
歯の欠けたばあさんは、助けるどころか、腹を抱えて笑っていた。
しばらくして、先ほどの女が様子を見に来たが、この光景を見て、ばあさんと二言三言話した後、サクの方を向いてにっこりし、また出ていった。
サクはそれでこの日はこの役割をさせられるのだろうと覚悟を決めて、子どもたちの玩具になった。
翌日から、サクは学び舎へ通うようになった。それも、年少の子供たちに交じって。
その日も、前日と同じように人間ジャングルジムとなり、子供たちの玩具にされていた。
だが、これが思ったより疲れる。
どうにか子供たちの気をそらせないものかと周りを見回していると、少し離れたところで、年中の子供たちが板に字を書いていた。
サクは歯の欠けたばあさんのところへ行き、板と書くものを指さした。それから両手を合わせ、身振り手振りで貸してくれるように頼んだ。
ばあさんはしばらく不思議そうにサクを見ていたが、やがて板と書くものを手渡してくれた。
サクはまず、板に漫画じみた犬の絵を描いた。そして、その絵を指さし、覚えたばかりの言葉を口にした。
「イヌ」
子供たちが集まってきた。
「イヌ」
「イヌ」
皆で犬の名を繰り返し、そのうち誰かが「わんわん」と鳴きまねを始めた。
サクは板の絵を布でぬぐい、今度は猫を描いた。
「ネコ。にゃあ」
すると、子供たちも声をそろえた。
「ネコ」
「にゃあ」
やがて何人かが四つん這いになり、部屋の中を歩き回り始めた。猫になった子は「にゃあ、にゃあ」と鳴き、犬になった子は「わんわん」と吠えながら追いかける。
その日は子供たちが飽きるまで、板にいろいろな動物を描かされた。
おかげでサクは、たくさんの動物の名前を覚えることができた。
そして子供たちが絵に飽きると、サクはまた人間ジャングルジムに戻された。
歯の欠けたばあさんは、その様子をにこやかに眺めている。
自分だけ楽そうにしているのが、サクにはどうにも面白くなかった。
*
学び舎に通い始めて、五日ほどたった頃のことだった。
いつものように学び舎へ行くと、先生らしき女がやってきて、サクの手を引いた。今日は年少の子供たちのところではなく、別の集まりへ連れていくらしい。
そこには低い卓がいくつか並べられ、子供たちが板に炭で字を書いていた。
どうやらサクはこの日から、年中――元の世界でいえば、小学校の低学年くらいの子供たちに交じって、読み書きを習うことになったようだった。
周りの子供たちがちらちらとこちらを見る中、サクも板に炭で字を書いては、布で消していく。
ここ数日で、分かる言葉は格段に増えていた。まだ身振り手振りに頼ることは多かったが、どうにか授業についていくことはできそうだった。
分からないところは、とりあえず飛ばせばいい。全部を一度に覚えようとしても仕方がない。
そう開き直ったとき、年少の子供が一人、サクにまとわりついてきた。
背中によじ登り、肩に乗ろうとしている。それを見た別の子も、こちらへ寄ってきた。
結局サクは、字を習っているほかの子供たちの邪魔にならないよう、部屋の後ろへ移された。
頭に一人。肩と背中にも一人ずつ。膝にも小さな子供を乗せたまま、板に字を書いていく。
それからしばらくして、いつもより早くミアが迎えに来た。
子供たちをまとわりつかせながら、字を書いているサクを見て、ミアは目を丸くした。
「あんた、えらい懐かれてるやん」
たぶん、そんなことを言ったのだろう。
ある日、朝から雨が降っていた。
室内での書き取りや数の勘定が終わっても、外へ遊びに出ることはできない。
それを楽しみにしていた子供たちには、面白くない一日だった。
床に寝そべる子。意味もなく部屋の中を走り回る子。とうとう取っ組み合いを始める子までいる。
いくら広い部屋とはいえ、幼い子供もいる。ぶつかれば危ない。
そして、その幼い子供たちは、外へ出られない鬱憤を晴らすかのようにサクへまとわりついた。
腕を引っ張り、背中へよじ登り、膝の上を奪い合う。いつにも増して扱いが乱暴だった。
たまらなくなったサクは、人間ジャングルジムの境遇から逃れるように立ち上がり、厠へ向かった。
用を足して戻る途中、厨房の隅に置かれた籠が目に留まった。
焚きつけに使うのだろう。木屑などに交じって、くしゃくしゃに丸められた紙が入っている。
サクは足を止めた。
紙屑の中には、汚れも少なく、まだ破れていないものもある。
一枚を拾い上げ、手のひらで皺を伸ばしてみる。
そこで、ある遊びを思い出した。
折り紙だ。
サクは、そばにいた女の子に紙を指さしてみせた。
「コレ、ホシイ」
両手を拝むように合わせると、女の子は「いいよ」と答えた。
紙は、両手のひらを広げたほどの大きさのものが三枚あった。どれも両面に文字が書かれ、ところどころに大きなバッテンまでついている。何度も使い回されたのだろう。汚れて、皺だらけだった。
部屋へ戻ると、サクは年少の子供たちに捕まる前に、急いで机の前へ座った。
紙を机に広げ、手のひらで皺を伸ばす。
まず紙を三角に折り、正方形になるところで余った部分を折り返した。その部分を何度も指でなぞり、折り目に沿って慎重にちぎる。
それから、鶴を折り始めた。
しかし、折り紙など何年もやっていない。次をどう折るのだったか分からなくなり、何度も折っては開き、開いてはまた折り直した。
その姿を、近くにいた年中の女の子が覗き込んできた。
「なにしてるの?」
それくらいなら、サクにも分かった。
「オリガミ」
そう答えたが、当然、女の子には通じない。小首をかしげたまま、サクの手元を見ている。
そうこうしているうちに、どうにか鶴らしいものが出来上がった。
サクは羽を広げ、形を整えた。
だが、首はへにゃりと前へ垂れた。紙が皺だらけで腰がないため、羽もうまく広がらない。
ひどい出来だった。
サクががっくりしていると、覗き込んでいた女の子が目を丸くした。
何か叫びながら鶴を指さし、しきりにサクへ訴えかける。
その声を聞きつけ、数人の子供たちが集まってきた。
子供たちは机の上の出来の悪い鶴を取り囲み、恐る恐る指先でつつき始めた。
うけている!
そう感じたサクは、残った紙で今度は箱を折ってみた。箱の折り方はどうにか覚えていたので、鶴ほど苦労せず、それなりの形に仕上がった。
そこへ、年中の子供たちが数の勉強に使っていた木の実を入れてみる。
これも大受けだった。
どうやら、もっと作らなければならないらしい。
サクは残った紙を小さく分け、いくつかの正方形を作った。その一枚でもう一度、小さな鶴を折る。
さらに兜を折り、年少の子供たちが遊んでいた人形にかぶせてみた。
最後に、残しておいた長方形の紙で紙鉄砲を折った。
子供たちが見守る中、サクはそれを大きく振りかぶり、勢いよく振り下ろした。
「パン!」
部屋に乾いた音が響いた。
一瞬、子供たちは目を丸くした。
次の瞬間、サクは子供たちに取り囲まれていた。
誰もが手を伸ばし、口々に何かを訴えてくる。鶴も、箱も、兜も、音の鳴る紙も、自分のものが欲しいらしい。
言葉のすべては分からなかったが、何を求められているかだけは、嫌というほどよく分かった。




