第20話 大猫の回収 その2
第20話 大猫の回収 その2
三人は無言で歩を進めていった。
次の難所は、もう少し先にある。
急な斜面、崩れた足場、濡れた岩。昨日の雨でぬかるんだ、道とも言えぬ道だった。
そこを、サクが先に入る。
どこを踏むか。どこを掴むか。どこで体を寄せるか。
一つずつ示しながら進んだ。
ランスは苦労していた。
バンも表情には出さないが、楽ではない。
難所に差しかかると、サクは先ほどと同じように背嚢を下ろし、準備に取りかかった。
ロープを取り出し、数個の金具を腰の袋に入れる。
「ここの岩場は、さっきより滑るで。俺が登る足元、よう見とき」
そう言うと、サクは背嚢を置いたまま登り出した。
濡れた岩に足を置き、体を低くして進む。
途中、あらかじめ岩場に打ち込んでいた崖杭にロープを結び、荷物を持って登るための支度を、丁寧に、淡々と続けていった。
頂上まで登り切ると、サクはそのまま一度降りてきた。
「今度はランスから登ってみよか。下から危ないところ言うわ」
ランスは顔をしかめたが、うなずいた。
「そこ、右足置くな。沈むで」
「その木は掴むな。根が浅い」
「そこ危ないから、上の崖杭にカラビナ掛けてから上がり」
サクは要所で短く声をかける。
ランスは何度か足を滑らせながらも、言われた通りに体を運び、どうにか登り切った。
バンも続いた。
サクは同じように下から指示を出す。
バンは返事こそ少なかったが、一つ一つの指示を外さなかった。
最後に、サクが背嚢を担いだ。
登りながら、回収できる道具を拾い、ロープの張りを確かめ、使い終わった金具を外していく。
難所を越えた先に、岩場が狭く平らになった場所があった。
岩壁の一部がえぐれており、大人三人ほどなら腰を下ろして雨露をしのげそうだった。
「ちょっと休憩しよか。今のところ順調やで」
その言葉を聞いた途端、ランスは乾いた岩の上にぺたりと腰を下ろした。
「さすがやな。初めてでこのペースで来れるとは思わんかったわ」
サクはお世辞ではなく、本心から言った。
ランスは息を整えながら答えた。
「やめてくれ。自分が哀れになってくる」
サクは笑いながら、岩の割れ目に手を入れた。
そこから、乾いた薪と、炭になった燃えさし、予備の縄、それから小さな布袋を引き出す。
バンの目が、そこで細くなった。
「……ここにも置いてあるのか」
「置いとくんや。帰りに余ったら、次の俺が助かる」
サクは何でもないことのように言い、布袋の中を確かめた。
炭は湿っていない。縄もまだ使える。
ただ、端が少し傷んでいた一本だけを抜き取り、腰の刃物で切り落とした。
「使った分は足す。傷んだ分は替える。そうしといたら、雨の後でもなんとかなる」
ランスは岩に背を預けたまま、あきれたように笑った。
「山の中に自分の倉庫を作ってるみたいだな」
「倉庫いうほど上等やない。ただの置き場や」
バンは黙って周囲を見ていた。
雨を避けられる岩陰。
乾いた薪。炭。予備の縄。
打ち込まれた崖杭。
水場へ向かう細い踏み跡。
目立たないようでいて、使う者にはわかる印。
ただの狩人の勘ではない。
ただの荷運び人の備えでもない。
何度も通り、何度も危ない目に遭い、そのたびに少しずつ死ににくくしてきた道だった。
バンが低く言った。
「サク」
「なんや」
「お前、軍にいたことがあるのか」
ランスが顔を上げた。
サクの手が、一瞬だけ止まった。
だが、すぐに何事もなかったように、傷んだ縄を新しいものと入れ替える。
「……聞かんでくれ」
それだけだった。
バンはしばらくサクを見ていた。
冗談で返す声ではなかった。
怒っている声でもない。
ただ、そこから先へ入ってくるな、という声だった。
「そうか」
バンはそれ以上、何も聞かなかった。
サクは布袋を元の場所に戻し、岩陰の土を軽くならした。
「ほな、少し食べたら行こか。次は沢や。昨日の雨で、たぶん面倒になっとる」
ランスはまだサクを見ていたが、何も言わなかった。
森の音だけが、岩陰の外から低く聞こえていた。
*
「案の定やな」
濁って逆巻く水流を見ながら、サクは独り言のように言った。
「いつも、この沢を渡っているのか?」
ランスは、生き物のように波打つ流れを見ながら、あきれたように聞いた。
「普段はきれいな渓流やで。川底まですっきり見えるわ。けど、少しでも雨が降ると、そこら中の山から水を集めて暴れよる」
サクは沢の上流と下流を見渡した。
「渡れるとこ、探すで」
できるだけ沢沿いを歩きながら、三人は渡れそうな場所を探した。
少し行くと、背丈ほどの高さの滝があった。
その下は、小さな滝つぼのようになっている。
「普段は使わんのやけどな。今日は、ここから渡る」
サクが指したのは、滝つぼから少し下った場所だった。
相変わらず水は濁り、流れも速い。
それでも、そこだけはわずかに川幅が広がっているせいか、波の立ち方が少しましに見えた。
サクはロープを二本取り出し、近くの木に手早く縛りつけながら、二人に手順を説明した。
「こういう沢で怖いんは、急流に流されることだけやない。流木と、流れてくる石や」
ランスが眉をひそめる。
「石?」
「流石いうてな。水の底を転がってくる石や。これがほんまに見づらい。足に当たれば骨をやるし、踏んだ石が抜けたら足元をすくわれる。そこでバランス崩して流されたら、背負子背負っとる人間はまず立て直されへん」
サクは濁った水面を見た。
ごろり、と、底の方で何かが転がるような音がした。
「流木も同じや。大きいもんやなくても、枝ついたやつが足やロープに絡む。直撃したら、簡単に骨一本持っていきよる」
ランスは黙って沢を見た。
さっきまで水の勢いだけを見ていた目が、上流へ向いた。
「そやから、俺が先に渡って向こうにロープを通す。荷物はカラビナをつけて、このロープにぶら下げて渡す。人間はもう一本を命綱にする。泳ぐんやない。足を探りながら、川底を歩く」
サクは滝の上にある小高い岩場を指さした。
「俺が先に行く間、ランスはあそこから上流を見ててくれ。流木でも石でも、変なもんが来たらすぐ声を上げろ」
ランスは首を縦に振った。
「バンは俺の指示があったら、このロープをすぐ引いてくれ。無理に引っ張り続けんでええ。合図した時だけや」
バンもうなずいた。
「ロープに流木が掛かったら?」
バンが聞いた。
サクは少しも迷わなかった。
「荷なら捨てる。人なら引く。迷ったら人や」
バンは短く答えた。
「わかった」
サクは濡れてもいい下履きだけになり、 腰のカラビナを確かめ、ロープの結び目をもう一度締めた。
「ほな、いくでぇ」
二、三の確認を終えると、三人はすぐに動き出した。
沢を渡る作業は、ランスが沢の中ほどでつまずき、転びかけたことを除けば、順調に終わった。
ランスが足を取られた瞬間、二番目に渡っていたバンがロープを引いた。
ランスは命綱を握り直し、どうにか体勢を立て直した。
三人が無事に渡り終えると、バンがサクに問いかけた。
「一人の時はどうしている?」
サクは濡れた前髪を手で払いながら答えた。
「基本は、流れが緩なるまで待つな」
「渡らないのか」
「渡らんで済むなら、それが一番や。手順は同じやけどな。上流を見て、荷が多けりゃ分けて、ロープを渡して、少しずつ運ぶ」
「時間がかかるな」
「ああ。せやから、待っとった方が早い時もある」
バンは沢を振り返った。
濁った水は、まだ低く唸るように流れている。
「今日は、なぜ待たなかった」
サクはロープを絞りながら、少しだけ口を曲げた。
「見といてもろた方がええと思うたんや」
「何をだ」
「こういう渡り方や。人を助けに行く時とか、一刻も急ぐ時もあるやろ。知ってるか知らんかで、助かるもんも助からんようになる」
バンはしばらく黙っていた。
「お前は、それを俺たちに覚えさせるつもりだったのか」
「覚えさせるいうほど偉そうなもんやない。ただ、見とったら次は動ける」
サクはロープを束ね、背嚢にくくりつけた。
「山で一番あかんのは、何してええかわからんまま立っとることやからな」
バンは返事をしなかった。
だが、その目は、さっきまでとは少し違っていた。
「まあ、次はできれば晴れた日にしよな」
サクがそう言うと、ランスが力なく笑った。
「ぜひ、そうしてくれ」
三人はまた、無言で進み始めた。
まだ少し濡れた地面を踏みながら進んでいくと、やがて森が見えてきた。
今度の森は、先ほどよりも鬱蒼としている。木の種類も草の茂り方も、少しずつ変わっているようだった。
サクを先頭に、朝決めた隊列で進む。
しばらくして、サクの右手が上がった。握った拳だった。
そのままサクはしゃがみ込み、地面を見た。
「肉食獣の糞やな。まだ新しい」
小声で、バンとランスに伝える。
「近いかもしれん。気ぃつけていくで」
サクはフクロナガサを杖につけ、慎重に歩を進めた。
木々は高くなり、日光が遮られて、あたりは薄暗くなっていく。
緩やかな風が葉を揺らし、波のような音が三人を包んだ。
また、サクの右手が上がった。
握った拳。
続いて、その手が右耳を指す。
サクは顎を少し上げ、匂いを確かめるように鼻をきかせた。
ランスも立ち止まり、サクの真似をして耳を澄ませ、匂いを嗅いだ。
だが、わかるのは湿った土と草の匂いだけだった。
「おそらく山犬やと思う」
サクが低く言った。
「気配が散っとる。単独やない」
ランスは森の奥を見た。
何も見えない。
鳥の声も、風の音も、さっきと変わらないように思える。
「回避するでぇ」
サクは左へ進路を変え、上り斜面の方へ足を向けた。
ランスには、まだその気配の違いがわからなかった。
後で聞いてみようと思った。
斜面をしばらく上る。
息が少し上がり始めたころ、またサクの右手が上がった。
サクは二人を振り返った。
「さっきの沢と、この回り道で、今日中の帰還は無理やな」
バンは黙って聞いている。
「森で一泊の予定でいくでぇ」
バンは無言でうなずいた。
三人はそのまま進み、やがて斜面を下った。
森はまだ深い。
下り斜面の途中、小ぶりな木の根元に、枝が集められ、枯草で覆われた場所があった。
サクはそこに近づき、周囲を見回した。
「荒らされてへんようやな。昨日の雨のおかげかもしれん」
枝をどける。
杖の先で枯草を払う。
湿った草の下から、黒っぽい毛皮が見え始めた。
死んでいるとわかっていても、その大きさだけで、森の空気が重くなるようだった。
サクはしばらくそれを見下ろした。
「……ええ子にしてたか」
ランスが、思わずサクを見た。
「子どもに言うみたいに言うんだな」
「暴れてへんのやから、ええ子やろ」
「死んでるだろ」
「せやから助かる」
サクはそう言いながらも、すぐには手を出さなかった。
まず周囲を見る。
木の幹。地面。枝の乱れ。獣が近づいた跡。
それから、ようやく大猫の頭の方へ回った。
バンは笑わなかった。
大猫の爪を見ていた。
太く、短く、肉を裂くための爪だった。
「こいつは、一人で相手にする獣じゃない」
バンが低く言った。
ランスの表情が変わる。
「熊よりか?」
「危険の質が違う。熊は重い。山犬は数で来る。だが、こいつは姿を見せないまま近づく。木も岩も影も使う。最初の一撃を受けた時点で、勝負はほとんど決まる」
サクは黙って聞いていた。
「本来なら、腕の立つ者を三人は入れる。前を一人、左右を二人。弓か槍も欲しい。逃げ場を作らせず、こっちの逃げ場は残す」
「ぜいたくやな」
「当然の備えだ」
バンはサクを見た。
「お前が生きているのは、勝ったからじゃない。死に損なっただけだ」
サクは少しだけ口角を上げた。
「……まあ、それはそうやな」
「笑いごとじゃない」
「笑ってへん。まだちょっと怖いわ」
いつも読んでいただいてありがとうございます。
元々遅筆なのに、ここのところ、仕事やらプライベートで手が取られて話がすすみません。
まだまだ物語を続けるつもりですので、あきらめずお付き合いいただけましたら幸いです。




