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補欠は異世界でも甲子園の夢をみるか  作者: クリオアサト


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第19話 大猫の回収 その1

第19話 大猫の回収 その1


 まだ町の空は暗かった。


 雨は上がっていたが、石畳は黒く濡れ、軒先からはときおり雫が落ちている。夜明け前の町は人の声も少なく、遠くで鶏が一度鳴いたきり、また静かになった。


 サクがギルドの裏手に回ると、すでに扉の前にランスが立っていた。


「早いな」

 ランスが小さく声をかける。


「そっちこそ。寝られたんか?」


「まあ、少しは」

 そう言うランスの顔は、まだ硬かった。


 サクはそれ以上は聞かず、背負っていた荷を一度おろした。肩に食い込んでいた紐をゆるめ、軽く首を回す。


 やがて内側から閂の外れる音がして、扉が開いた。


 ギルドマスターがそこに立っていた。

「入れ」

 短く言って、二人を中に通す。


 ギルドの中は、いつもの昼間とはまるで違っていた。受付の明かりもまだ落とされ、壁際のランプが数個だけ灯っている。広い部屋の隅は暗く、椅子や机の影が妙に大きく見えた。


 ギルドマスターは奥の卓を指した。

「出る前に、確認しておく」


 三人が腰を下ろすと、ギルドマスターはまずランスを見、それからサクを見た。

「現場で、いちいちギルドマスターと呼ばれるのは面倒だ。今日はバンでいい」


「バン?」


 ランスが聞き返す。


「俺の名だ」


 サクは少しだけ目を上げた。


「ほな、バンでええんやな」


「ああ。現場ではそれでいい」


「分かった」


 サクはそれだけ言うと、白墨を手に取った。

「すんません。板、あります?」


「何に使う」


「簡単な地図を描きます」


 バンは奥に向かって声をかけようとしたが、まだ誰もいないことを思い出したように立ち上がり、自分で物置から薄い板を持ってきた。


 卓の上に置かれた板に、サクは白墨で森の線を引きはじめる。


 町の外れ。街道。小川。ぬかるむ低地。森奥に入る手前の開けた場所。そして前にランスを助けたとき、応援の冒険者たちと落ち合った場所。


 白墨の線は粗かったが、どこをどう通るかはすぐに分かった。


「行きは、普通に歩けたら四時間くらいや」

 サクは白墨の先で道筋を軽く叩いた。


「ただ、昨日の雨で沢が増水してるかもしれんし、ぬかるみで足を取られる場所もあると思う。倒木もあるかもしれん。せやから、四時間はあくまで目安や」


 ランスが地図を覗きこむ。

「もっとかかると?」


「かかると思って動いた方がええ」


 サクは白墨で数か所に印をつけた。


「ここが一つ目の難所。足場が悪い。ここを夜明けから一刻半までに越えられへんかったら、かなり遅れてる」


 次に、少し奥を指す。


「ここが沢。雨後やと一番読みにくい。渡れそうになかったら迂回します。ここで時間を食うたら、その時点で回収できるか考え直す」


 さらに奥。


「ここが森奥に入る手前の開けた場所。前に冒険者さんらと落ち合ったあたりです。ここまでは、荷車を持ち込めるかもしれん」


 バンがそこで口を挟んだ。


「その荷車だがな」


「はい」


「お前が昨日持ち込んだやつがあるだろう。森奥の手前までは、あれを引きずっていけ。担ぐよりはましだ」


 サクは少し考えてから頷いた。


「たしかに。道が悪いところは担ぐか、二人で持ち上げることになりますけど、いけるとこまで持っていけたら帰りが楽やな」


「回収した獣を、最初から担いで戻るのは無駄が多い」


「ですね」


 ランスが二人のやり取りを聞きながら、少し感心したように息を吐いた。

「そこまで考えて動くんだな」


 サクは白墨を持ったまま肩をすくめた。

「森で重いもん持って帰る時は、帰りのこと先に考えとかんと死ぬんよ」


 軽い言い方だったが、ランスは笑わなかった。


 バンも笑わなかった。


 サクは地図の一番奥に丸をつけた。

「獣の場所はこのあたり。見つけたら、状態を確認する。腐敗がひどい、他の獣に食われてる、周囲に危険がある。その場合は無理せず諦める」


「諦める判断は誰がする」


 バンが聞いた。


 サクは少しだけ顔を上げた。


「基本は俺が見る。けど、最後に決めるんはバンさんや」


「お前が無理だと言ったら?」


「その時は無理や」


 即答だった。


 バンは目を細めた。


「ずいぶんはっきり言うな」


「森で迷った時に、粘ったらだいたい悪くなる。特に帰りの時間が足らん時は」


 サクは白墨で帰りの道筋をなぞった。


「最短なら日暮れまでに戻れる。遅れたら、森奥の手前か、もう一つ手前で野営や。食料は一泊分。火を焚ける場所もある」


「二泊目は?」


「なしです」


 サクはそこで白墨を置いた。


「二泊目が見えた時点で、回収は捨てる。荷を軽くして帰る。獣より人間優先や」


 ランスがゆっくり頷いた。

「分かった」


 バンはしばらく地図を見ていた。


 それから、サクの手元ではなく、サクの顔を見た。

「隊列はどうする」


「先頭は俺が行く。道を見るのと、足跡を見るのと、危ないもんを先に拾うためや。ランスさんは真ん中。バンさんは後ろ」


「俺が後ろか」


「はい。後ろから全体を見てもらいたいんや。あと、何かあった時、後ろが一番大事になることもある」


 バンは少し口の端を上げた。


「ものは言いようだな」


「いや、本気やで」


 サクはそう言ってから、二人に向けて手を上げた。


「森の中では、できるだけ声を出さん。合図だけ決めとく」


 サクは右手を上げ、拳を握った。

「これで止まれ」


 次に、手のひらを下に向けて押さえる。

「低く。身を落とせ」


 指を二本、自分の目に当て、それから前を指した。

「前を見ろ。何かある」


 耳を指す。

「音や」


 親指で後ろを示す。

「戻る」


 最後に、手のひらを横に切った。

「中止。ここでやめる」


 ランスは一つずつ真似た。

「これだけか」


「これだけでええ。増やすと間違える」


 バンは黙って見ていた。


 狩人の合図ではない。


 冒険者の雑な身振りでもない。


 短く、早く、迷いがない。


 バンはそこで、サクという男の奥にあるものを、少しだけ見た気がした。


 だが、バンはそれを口には出さなかった。


 その時、表の扉が小さく開く音がした。


「……あれ、もう始まってる?」


 入ってきたのはヘレナだった。


 まだ夜明け前だというのに、髪をきちんとまとめ、帳簿を抱えている。眠そうではあったが、足取りはしっかりしていた。


 サクが振り返った。


「早いな」


「今日は早めに来ました。ギルマス……じゃなくて、出発の準備があると思って」


 ヘレナはそこで、卓の上の地図を見た。


「うわ。もう作戦会議みたいになってる」


「作戦やのうて、段取りや」


「似たようなものじゃない」


 ヘレナは苦笑しながら近づき、地図を覗きこんだ。


 バンが低く言う。


「ヘレナ。食料と予備の水袋を出しておけ。一泊分だ」


「わかったわ」


 ヘレナはすぐに受付の奥へ回った。手慣れた様子で乾燥肉、硬いパン、塩、火口、予備の水袋を並べていく。


 サクは自分の荷を開いて確認した。


 縄。小刀。包帯。針と糸。油紙に包んだ火口。塩。干し肉。薬草をすり潰した小袋。白墨。短い杭。布切れ。水袋。


 ランスも自分の装備を確認する。


 バンは最後に、自分の背後に置いていた革の上着を手に取った。厚手の革で補強され、胸と肩、腹回りに当てが入っている。鎧というほど大げさではないが、森で獣の爪や枝から身を守るには十分だった。


 それをサクの方へ放る。


「着ろ」


 サクは受け取って、少し戸惑った。

「ええんですか」


「昔使っていたものだ。今は入らん」


 その言い方があまりに平然としていたので、ヘレナがつい笑った。

「入らないって、そんなにはっきり言わなくても」


 サクも上着を広げて、バンと見比べた。

「いや、これは……今のバンさんやったら、前閉まらんどころか、肩で止まりそうやね」


「お前、借りる立場でよく言うな」


「すんません。でも、かなりええもんですね、これ」

 サクは袖を通した。


 少し長い。肩もわずかに余る。だが、動けないほどではない。革は古いが、きちんと手入れされていて、硬すぎず、身体に馴染む重さがあった。


 ヘレナがサクを見て頷く。

「思ったより似合ってるわよ」


「思ったより、ってなんやの」


「もう少し借り物感が出るかと思ってたわ」


「出てるやろ。袖、ちょっと長いし」


 サクが腕を振ると、袖口が少し揺れた。


 ランスがそれを見て、初めて小さく笑った。


 バンは腕を組み、面白くなさそうに言った。


「笑ってる暇があるなら、紐を締めろ。森の中で引っかけるぞ」


「はい」

 サクは革紐を締め直し、肩の動きを確かめた。右腕を前に出し、杖を振る動作を小さく試す。


「大丈夫。動ける」


 バンは頷いた。

「なら行くぞ」


 ヘレナが食料を布袋にまとめ、三人分に分けた。


「無理はしないでね」


 その言葉は、三人に向けたものだったが、少しだけサクに寄っていた。


 サクは袋を受け取り、軽く笑った。

「無理せんための段取りや」


「それでも、無理しそうだから」


「信用ないなあ」


「あるわよ。でも心配は心配よ」


 サクは返す言葉に一瞬詰まり、それから小さく頭を下げた。


「行ってきます」


 ヘレナも、少しだけ真面目な顔で頷いた。


「行ってらっしゃい」


 三人はギルドの裏手へ回った。


 昨日持ち込んだ荷車は、軒下に置かれていた。簡素な作りで、立派とは言えない。だが、車輪はまだしっかりしており、空荷ならどうにか森の手前までは持っていけそうだった。


 サクは車輪を回し、軸の具合を確かめる。


「油、少し足しとくわ」


 そう言って、小さな油壺を取り出し、軸に垂らす。縄の結び目を見て、緩みを締め直す。


 ランスはその手つきを見ていた。


 何も特別なことをしているようには見えない。だが、一つ一つが早い。迷いがない。何かを探す前に、もう次の道具が手の中にある。


「……慣れてるな」


「荷車か?」


「全部だ」


 サクは少し笑った。


「慣れんと、何回も痛い目見るんでな」


 ランスは返事をしなかった。


 バンが最後に扉へ鍵をかけ、二人の方へ歩いてきた。


「出るぞ」


町の東の空が、ほんの少しだけ白みはじめていた。

サクが先に立つ。片手に杖。もう片方の手で荷車の前を引く。

ランスがその後ろにつき、バンが最後尾についた。

濡れた石畳の上を、荷車の車輪が小さく音を立てる。

夜明け前のギルドを背に、三人は森へ向かって歩き出した。


ランスはその背中を見ながら、胸の中で小さく息を吐いた。

救援でも、討伐でもない。

ただ、獣の死骸を回収しに行くだけのはずだった。

だがその手順は、あまりに整っていた。

進む道を決め、遅れた時の判断を決め、戻る場所を決め、やめる時まで決めてから動く。

ランスは、自分がこれまで森に入っていた時、どれほど行き当たりばったりだったのかを思い知らされる気がした。


前を行くサクは振り返らなかった。


ただ、町外れの門を越える前に、右手を軽く上げた。

止まれ、ではない。

行くぞ、という合図のように見えた。

ランスは黙って頷き、濡れた朝の空気を吸い込んだ。

森は、まだ暗かった。

だが、もう引き返す時間ではなかった。


 *


 三人はしばらく、無言で歩いていた。

 まだ薄暗い森のけもの道を、足音と、荷車が湿った草を引きずる音だけが進んでいく。

 草はまだ濡れていた。先頭のサクが分けた枝葉から、遅れて雫が落ちる。真ん中を歩くランスの頬にも、ときおり冷たいものが跳ねた。

 ふいに、サクが歩きながら間延びした声を出した。

「バンさん、俺、一つ思い出したわ。ギルドで言うん忘れてた」


「なんだ」


「こっち来る時に、ルートの傍に罠をいくつか仕掛けとってん」


 後ろで、バンの足音が少しだけ変わった。

「罠?」


「取引品が集まるまでに、大猫の回収と合わせて、あわよくば何か取れたら思てな。そんな離れてへん。帰りにちょっと見に行ってええか」


「帰りの状況次第だ」


「当然や」

 サクは前を見たまま、軽く頷いた。


 濡れた枝を杖で押しのけ、足元の泥を避ける。声だけは、妙にのんびりしていた。

「それにしても、よくあの怪我で罠なんか張ろうと思ったな」


「習慣やな。ついつい、そんなふうに動いとった」


「猟師の本能みたいなものか」


「本能いうより、貧乏性やな」

 サクは少し笑った。

「罠は張ってもスカばっかりや。けど、ゼロではない。安全に楽に取れるかもしれんのやったら、やらん話はないしな」


「冒険者にも教えるつもりはあるか?」


「猟を生業にする気があるなら、教えんでもない」

 サクはそこで、少しだけ首を傾けた。


「ただ、片手間ならやめた方がええ。罠は簡単そうに見えて、それなりに技がいる。獲物の通り道も見なあかんし、風も見る。雨の後はまた変わる。しかも、かけたからいうて取れるもんでもない」


「冒険者には向かんか」


「性格的には、あんまり向かん気がするな」


「なぜだ」


「待つ仕事やから」

 サクは短く言った。


「冒険者は、見つけて、追って、倒して、持って帰る。罠は逆や。先に考えて、仕掛けて、外れても腹立てんと、また直す。獲れたら儲けもん。そんな仕事や」


ランスは真ん中で、その会話を聞いていた。


サクの声は、出発前の卓で地図を描いていた時とは違っていた。緊張がないわけではない。だが、森に入ってからのサクは、どこか肩の力が抜けている。

この男にとって森は、危ない場所であると同時に、仕事場なのだ。

「それと」

 サクが続けた。

「罠猟を教えるんやったら、先にルール決めとかなあかん」


「ルール?」


「どこに張ってええか。張ったら誰に知らせるか。印はどうするか。いつ見回るか。放置した罠はどうするか」

 サクは足元のぬかるみを避け、少しだけ左へ回った。


「何も決めんとみんなが好き勝手に張ったら、獣より先に冒険者が掛かるで」


「違いない」

バンが後ろで苦笑した。

ランスも、つい口元をゆるめそうになった。

いいのか。

こんなふうに、のんびり話していて。

そう思った瞬間、前を行くサクの右手が、すっと上がった。


 拳。

 止まれ。


 ランスは息を止め、その場で足を止めた。

さっきまでのゆるい声が、嘘のように消えていた。

サクは振り返らない。

ただ、わずかに身を低くし、前方の茂みに目を向けていた。

すぐに、右手の奥でバサバサと草木を揺らす音がした。

数頭の鹿が、サクたちの前を横切るように逃げていく。

どうやら、こちらの気配を先に拾っていたらしい。

サクは鹿の消えた方を見送り、それから、しばらく周囲の音を聞いた。追ってくる獣はいない。鹿を追っていたものの気配もない。


 やがて、サクは右手を低く前へ送った。

進む、という合図だった。

「もうそろそろやな」

それだけ言って、また歩き出す。


 しばらくして、木々の切れた小さな空間に出た。

そこは、前に冒険者たちと落ち合った場所だった。少し前のことのはずなのに、ランスにはずいぶん昔のことのようにも思えた。自分が半ば引きずられるようにここまで来て、そこに人の声と明かりを見つけた時のことを思い出す。


 サクは空間の端に荷車を止めた。

「荷車はここに置いていく」


 その一言で、ランスの背筋が少し伸びた。

ここから先は、一般の冒険者が踏み入らない森奥だった。

三人は無言で進んだ。


 しばらくすると、足元に岩が目立ちはじめた。最初は土の間から顔を出す程度だったものが、進むほど数を増し、大きさを増していく。

やがて、急な岩の斜面が目の前に立ちはだかった。


 サクはそこで足を止めた。

「最初の難所や」


 そう言うと、背嚢をおろし、中からロープを取り出した。

「先に俺が登って、足場を見てくる。ここで待っとってくれ」


サクは背嚢を置いたまま、ロープの束を肩に巻きつけた。そして、岩の間を縫うように登っていく。

手をかける場所を探すのではなく、知っている場所に手を置いているような登り方だった。

中ほどの急な箇所まで登ると、サクは岩の割れ目に打ち込まれていた鉄の杭にロープを結んだ。さらに上へ登り、もう一か所、同じように杭へロープを結ぶ。

あの杭も、サクが前に通るたびに少しずつ打っていったものなのだろう。

ランスはそう思った。


 頂上までは、五十歩ほどの高さだろうか。

サクは一度上まで登りきると、今度はロープを伝いながら降りてきた。

「雨で足元が滑る。足を置く前に、いちいち確かめてくれ。一人ずつや」

 そう言って、サクは背嚢を担ぎ直した。

まずは見本を見せるように、自分が登っていく。


その後をランスが登り、最後にバンが登った。

岩は思ったより冷たく、濡れていた。足を置いた瞬間、靴底がわずかにずれる場所もある。そのたびにランスは、サクの言葉どおり、次の足場を確かめながら進んだ。

頂上に着いた時には、息が少し上がっていた。

バンも最後に登りきり、岩の上から下を見下ろした。


「手間がかかるものだな。毎回この作業をするのか」

率直な声だった。


 サクはロープの張りを確かめながら答えた。

「張りっぱなしにしたら、すぐ悪なる。日差しにも雨にもやられるし、獣に噛まれることもある。使う時だけ張って、帰りに回収する」


「よくやるものだ」


「これやっとかんと、荷を背負って帰る時に危ないんや」

サクは背嚢の紐を締め直し、来た道を一度振り返った。

「まあ、一つ目の難所までは順調やな」


 三人は、ふたたび無言で歩き出した。

先ほど登り切ったところから、道はほぼ水平に伸びていた。尾根のような細い道だった。


 両側には高い木が少なく、周りの景色がよく見えた。

太陽は小さな雲に隠れ、サクたちのいる場所は日陰になっていた。けれど、遠くの山々には、ところどころ雲の影と日向がまだらに落ちている。昨日の雨に濡れた森が、光を受けて、ゆっくりと息をしているように見えた。


 ただ広く、静かで、圧倒的だった。


 ランスは思わず足を止め、息を吸った。

 サクは首だけで振り返った。

「まだ先は長いで」

 それから、少しだけ山の方を見る。

「山が生きてるみたいやろ。これから、なんぼでも見れる」

 そう言って、また歩き出した。


 水平だった道は、やがて少しずつ下りになった。前方に森の壁が現れ、三人はそこへ飲み込まれるように入っていく。

そこから先、二つの難所を越えた。

どちらもロープを張るほどではなかったが、楽な道ではない。濡れた岩、ぬかるんだ斜面、倒れかかった木の根。足を置くたびに、身体のどこかへ余計な力が入る。

サクは平然と進んでいたが、ランスとバンの息は少しずつ乱れていった。


急な登りと下り。岩場。泥。湿った山肌。

 それらは、慣れていない者の体力を、声も立てずに削っていく。


 サクが前を向いたまま言った。

「次の難所を越えたら休憩にしよ。もうちょっとや」

ランスは返事をする代わりに、息を整えた。


 やがて、比較的平らな場所に出た。


 だが、森の表情は変わっていた。山の影のせいか、あたりは薄暗く、湿った空気が足元に溜まっている。さっき尾根から見た明るい山とは、まるで別の場所のようだった。

三人は、そのまま無言で進んだ。

しばらくして、サクが突然立ち止まった。

右手が上がる。


 握った拳。

 止まれ。


 ランスはその場で足を止めた。

サクは拳を開かず、左手で前方を指した。

ランスは目を凝らした。

前方の茂みの向こうに、小さな黒い塊が見えた。

いや、小さくはなかった。

もそり、とそれが動いた。

熊だった。


 まだ若い個体なのか、大きすぎるほどではない。だが、こちらへ顔を向けた時の存在感は、鹿や山犬とはまるで違った。

向こうも、こちらに気づいていた。

熊の身体が、びくりと跳ねた。


 次の瞬間、地面を蹴る音がした。

熊がこちらへ駆けてくる。

距離はまだある。

ランスは剣を抜いた。後ろで、バンも抜刀する気配がした。

その時にはもう、サクの杖の先に鉈がついていた。


 フクロナガサ。


以前、そう呼んでいたものだ。


 サクはそれを両手で持ち、刃を上へ掲げるように構えた。斬りかかるためというより、自分の身体を少しでも大きく見せるための構えに見えた。


 熊が吠えた。


 腹の底に響くような声だった。


 サクが、それ以上の声で叫び返した。


 ランスは思わず肩を震わせた。

 サクの声は、人を呼ぶ声ではなかった。怒号でもない。獣にぶつけるためだけの、太い声だった。

 熊は十歩ほど手前で急に止まった。


 土が跳ねる。


 熊は前脚を踏ん張り、また吠えた。


 サクは一歩も下がらず、同じように叫び返した。


フクロナガサは頭上にある。

刃の先は揺れない。


 熊が、前脚を一歩引いた。


 サクは動かなかった。

ただ、睨みつけたまま、そこに立っていた。


熊は荒く息を吐きながら、じりじりと後ずさった。


 もう一歩。


 さらに一歩。


 そして、あるところで身体をひるがえし、右手の茂みへ逃げ込んでいった。


 枝葉が大きく揺れ、やがて音が遠ざかる。


 サクは、しばらくその方向を見ていた。

まだ動かない。


やがて、サクはランスの方へ顔だけ向けた。

指を二本、自分の目に当てる。

それから、熊が逃げた右手の茂みを指した。

見ろ。右を警戒。

 ランスは無言で頷き、剣を構えたまま右へ目を向けた。


次にサクは、バンへ同じ合図をした。

指を目に当て、今度は後ろを指す。

後ろを警戒。

バンも黙って頷いた。


前はサクが見る。

そういう意味だった。

三人は声を出さなかった。


さっきまで、手信号はただの決めごとだった。

だが今は、それが命綱のように思えた。


サクはしばらく熊の消えた茂みを見ていた。


 そして、ようやく小さく息を吐いた。


「……行くで」


 声は低かった。


 森は、さっきよりも深くなっていた。

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